主の祈り



”主の祈り ”、どこの教会でも、礼拝において唱和される祈りです。
クリスチャンなら、そらんじて、暗唱して祈ることはできます。
しかし、その意味をかみしめて祈っているのかどうかは、
問い直さなければならないかもしれません。

信仰ある者にとって、じっくりと、主の祈りの文言を、
さまざまに、かみしめて思いめぐらすことを求めているのかしれません。

「だから、こう祈りなさい。
『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。
みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちの負いめをお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』
〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕」

(新約聖書・マタイによる福音書・6章9〜13節・新改訳聖書)

意味をかみしめて祈るとなれば、
なかなか手ごわい文言に満ちています。
信仰者は、どれだけ明快に理解して祈っていることでしょうか。

だれにでも、もっともだと理解させるだけの論理性をもって、
主の祈りの文言を解き明かせるでしょうか。

「わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を、赦しましたように。」

(新約聖書・マタイによる福音書・6章12節・新共同訳聖書)

クリスチャンは、
どうもクリスチャンにたいして良かれと思っていない人たちのことを許すものだと理解しているようです。

すべての人は神にたいし負い目を負っています。
だから、ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事の意味が生まれてくるわけです。

創造主なる神に赦しを、
神にたいする負い目が赦されるように、
切に願い求めることは、
信仰者にとってすべての中心に据えなければならないものでしょう。

主の祈りは、すべての人が罪人であることを明らかにします。
主の祈りは、一部の人たちの占有物ではありません。
すべての人は罪深い性質を負っているがために、
信仰者にたいして敵意や憎悪などを抱くのも理解できるでしょう。
だから、それらの人たちのためにも祈らなければならないのです。

個人的な同情で相手を許すことなら、
キリストの十字架の死は意味を失います。

神への負い目のため、
私たちは、人間同士たがいにいがみ合うことになったのです。

クリスチャンにたいして、
その信仰を良かれと思っていない人たちのために祈らなければならないのです。
彼らではなく・・神よ我々を赦したまえ・・と。


北白川 スー

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Wrote up on August 16, 2014.