福音が解き明かされるなら
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ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事・・が、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事です。
このキリストの十字架の出来事の内容と意味とが解き明かされるなら、
すなわち、キリストの福音が語られ、
私たちの本性的な罪について明らかにされるなら、
だれ一人の例外もなく生まれながらに負っている罪の性質が明らかにされるなら、
人々は福音によって悔い改め、
”さまざまな縛り”から解放され、
新たなまことの道に進むことになる・・・。
少なくとも”主イエス”と共に、
良い習慣の暮らしが始まる。
安全であれ、経済であれ、教育であれ、健康であれ、
新たな祝福された道筋が開けてくる。
「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、
私たちをすべての不法から贖い出し、
良いわざに熱心なご自分の民を、
ご自分のためにきよめるためでした。」
(新約聖書・テトスへの手紙・2章14節・新改訳聖書)
すべての人たちが罪の中にあるなら、
この世界は堕落した世界ということになります。
逃げることも救われることもできない状態でなければ、
この世界は救い主・キリストを必要とはしないのです。
キリストが私たちのために、
その命を十字架にささげられたということは、
だれひとりの例外もなく、
私たちは罪の中をさ迷い歩いていることになります。
ですから、
私は罪など犯してはいませんと言うことなど出来ないのです。
「すべての人は、罪を犯したので、
神からの栄誉を受けることができず、
ただ、神の恵みにより、
キリスト・イエスによる贖いのゆえに、
価なしに義と認められるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章23〜24節・新改訳聖書)
自分はそれには当てはまらず例外だとは考えないで、
キリストの福音を、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事を、
すなわち、神の啓示を、
自分にも当てはまる、
自分のこととして聞くなら、
また承認するなら・・・・。
神の前で正しい者として立つことができるのです。
やがてやってくる、必ずやってくる世界の終わりのとき、
神の怒りの裁きの座の前で・・・・・。
「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、
私たちの主イエス・キリストによって、
神との平和を持っています。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章1節・新改訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on February 12, 2013.