キリストの死を無駄にし続けている人間たち
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キリスト教の信仰において、
その基礎であり根本であり、
イエス・キリストにより支えられ導かれる、
ひとりひとりの信仰者を、
コミュニティーを、
社会を、
その信仰において、
支える最も大切な要素となる出来事が、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事・・・、
イエス・キリストの十字架による贖罪の出来事・・・、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事です。
しかし、
福音の内容であり福音そのものであるイエス・キリストの十字架の出来事が、
キリストを頭とする教会において、
解き明かされる機会のたいへん少ないのが日本の現状なのです。
神に背き、罪の中をさ迷い歩いている人間たちにたいして・・・。
イエス・キリストの生と死と葬りと復活において備えられた、
神の怒りの裁きからの救いというものこそ、
私たちの信仰を支える、
ひとりひとりの人生や社会を支えるものなのです。
キリストの十字架の贖罪の出来事こそ福音でありその内容であるわけです。
罪の中をさ迷い歩いている人間たちの、
その行ないによってでは救いを得ることはできないのです。
日本のクリスチャンの信仰の中身は ”行ない ”が中心です。
そうしなければならないとか、
そうであらなければならないとか・・・。
人間が定めた人間による掟や律法と言っていいでしょう。
しかし聖書・バイブルは、
明確に、律法の外に、
律法とは別に福音が明らかにされたのだと語るのです。
イエス・キリストの十字架の出来事という、
神の究極の決断と態度の決定という、
私たち被造物としての人間と、
創造主なる神との和解の啓示の出来事なのです。
東日本震災は、多くの人たちが犠牲となりました。
多くの命が失われたわけです。
多くの命が捧げられたわけです。
しかし、
決して私たちの罪が贖われたわけではないのです。
いまだに命は失われ続けています。
私たちはいまだに罪を犯し続けているのです。
私たちは方向転換しなければなりません。
私たちはキリストに向きを変え、
キリストに聞かなければならないのです。
命を捧げるのはキリスト・イエスお一人で十分なのに・・・・。
「なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。
わたしたちはこう考えている。
ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、
すべての人が死んだのである。」
(新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章14節・口語訳聖書)
この世界を創造され、
私たちをも創造された創造主なる神に、
聞き従わない私たち人間たち・・・・。
イエス・キリストの死を無視し無駄にし続けている私たち人間たち・・・。
北白川 スー
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
Wrote up on April 13, 2013.