神の裁き(さばき)からの救い


 神の裁き(さばき)とは、いったい何でしょうか。

 この世の終わりに、この世界を造られた創造主なる神が、

 神の作品としての人間の罪を審判するという・・・・。

 審判・ジャッジ・裁き・・・・、

 それは、今まで隠し通してきたものが、隠し通すことができなくなり、

 神の前にさらされ、すべてが暴露されるのです。

 人に知られては困ると思っているもの・・・、

 明るみに出ることを、それだけは、恐れているものが・・・・、

 すべてが明らかになるのです。

 誰にでもすっかり見えるように、さらされるとしたら、

 それは、自分にとって好ましくない状態に身を置くことを意味しています。

 だから、神とは恐ろしい存在なのだ・・・・・と。

 これこそが、神への恐れの正体なのです。

 しかし、すべてが明らかになったとしても、

 その恐怖というものが、なくなるとしたら。

 不安も、心配も、恐れも・・・・なにもないとしたら。

 すでに消え去っているとしたら・・・・。

 つまり、神の前では、

 何も隠さなければならないものなどないのです。

 すべてが、さらされたとしても、明るみに出されたとしても、

 何も起こりはしないのです。

 なぜかと言えば、救われているためにです。

 それが希望なのです。

 この世の終わりのとき ” 神の裁きの前に立つ ” とは、

 私たちの人生や生というものが、

 すべてが光の下にさらされる日なのです。

 また、そのような日であることを思い出させる日なのです。

 しかし、イエス・キリストに信頼をよせる者にとっては、

 その日は、待ちに待った喜ばしい日でもあるのです。

 隠さなければならないという縛りから解き放たれる日であるからです。


 「 なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ(前に立ち)、

 善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、

 それぞれ報いを受けねばならないからである。」

 (新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章10節・口語訳聖書)


 隠し通さなければならないものが明らかになる・・・・・、

 それが人に知られてしまう・・・・なんとも恐ろしいことか。

 つまり、それが私たち人間の隠れた性質なのです。

 つまり、この世界を造られた神に背いてしまった人間が、

 追い込まれた状態なのです。

 だから、父なる神は、あわれみを示されたのです。

 イエス・キリストによって、

 すでに、イエス・キリストは、私たちに代わって、

 裁きを受けられたのですから。

 ひとりの人がすべての人のために死なれた・・・・という十字架の出来事がそれなのです。

 そのイエスに信頼を寄せる者は、

 イエス・キリストを自分の主であると公に告白する者は、

 イエス・キリストに属するものは、

 喜んで自らを、イエス・キリストに委ね切ることのできる者は、

 イエス・キリストによって救われているのです。

 イエス・キリストに属する者は、

 裁かれることも罰させられることもない・・・・・・。

 すでに神の子としての権利を再び得ることができ、

 永遠の命へと移されているからです。

 世の初めに私たちは救われた者として創造されたのですが、

 この世界を造られた神に背いたため、救いは取り上げられてしまったのです。

 しかし、悔い改めることによって、

 自分の考え方ややり方にしがみついているのではなく、

 神のあわれみに向きを変えること・・・・。

 イエス・キリストに信頼することによって、

 再び救われた存在として生きることができるのです。


北白川 スー

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Wrote up: 10 September 2009.