キリスト教の神を考えるとき
ある人が、教会に行こうという思いが脳裏によぎったとき、
初めて教会に足を一歩踏み入れたとき、
その人の意識の中に、
キリスト教が表現しようとしている、
明らかにしようとしている ”主である神 ”がどのような方なのか、
どのような存在なのか、
その神との関係において、
自分とは、どのような者であるのかが分かってうえで、
教会に一歩をしるしたわけではないでしょう。
日本の私たちの、
神を見る目というものには、
教会を見る目というものには、
そこには、キリスト教が問題としている、
”神からの救い”とは何かということについての受けとめ方は、
まず、わずかも含まれてはいないことでしょう。
私たちが信仰というものを考えるとき、そこには、
自分にとっての利益であり、
自分の義・自分の正しさを求めるものであり、
自分自身の意思や判断がおびやかされないことが重要なテーマなのです。
しかし、
私たちは、救われなければならない状態にあるのです。
何からの救いなのでしょうか。
たいていの人はそう思っているかもれませんが、
自分は正しいから救われなければならないのでしょうか。
いいえ、そうではありません、その逆なのです。
私たちは、自分自身を救うための力も手段も持ってはいません。
キリスト教では、”神からの救い ”というものを、
実際にそのように感じ取れ、また受けとめることのできる場合は、
イエス・キリストの十字架の死による贖い ( あがない ) の出来事の目的と内容と意味とが解き明かされ、語られていなければなりません。
つまり、私たちは罪人で罪深く罪に染まっているのです。
だから裁かれなければならない。
誰に・・・・この世界を造られた神によって・・・。
私たちは神によって造られました、
しかし、その神にたいして背いてしまったのです。
最初の人間アダムが、この世界を造られ、私たち人間をも造られた神に背いたため、
アダムに続くすべての人類は罪深さを負って生まれてくることになったのです。
私たちは生まれたときから罪深いのです。
しかし、神は、創造主であるがゆえに、作者としてあわれみをあらわされて、
ご自身のひとり子であるイエスを、
私たちに代えて、私たち被造物としての人間に代えて、
神のひとり子イエスの上に神の怒りを下されたのです。
神なのになぜでしょうか・・・・。
この世界の終わりのとき、同じくして神の裁きもやって来ます。
やがて来る神の裁きは、生ける者も死せる者にも下ります。
その裁きからの救いこそ、キリスト教が問題としている ”神からの救い ”そのものなのです。
私たちは救われなければなりません。
しかし、救ってくださるのは神ご自身なのです。
イエス・キリストこそ、
やがて来る神の裁きから救ってくださる救い主その方なのです。
「 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、
和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章10節・新共同訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up: 20 November 2009.