何からの救いなのか



悪い環境から、危険な状態から、貧しい境遇から、
どんな方法を講じても良くする見込みがなかったり、
抜け出すことができないとき、
希望がなくて明るい気持ちに到底なれないとき・・・。

救いというものを考えるとき、
危険とか困難とか、苦難とか災難などから、
解き放たれ、助け出されることを言うものですが・・。

抜け出して、のがれ出て、
成功だとか安定とか豊かさとか癒しというものを得ることを、
救いだと考えている人も実に多いものです。

自己実現こそ救いだと考える人もいます。
個人の生長を高めることこそ、
自分自身の中に、人生の意味を見出すことこそ救いなのだと。
救いは、自らの中に見出し実現するものだと。

しかし、聖書・バイブルが示す救いはそうではありません。
創造主なる神と、被造物としての人間との和解こそ。
神との和解こそ救いなのだと示しているのです。

「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、
和解させられた私たちが、
彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・5章10節・新改訳聖書)

救いの出来事とは・・、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事です。

私たちは神にたいして、逃れがたい負債を負っています、
当然のこととして、その罪には裁きが待っています。

神の怒りの裁きからの救いこそが、
聖書・バイブルが言うところろの救いなのです。

私たちは神の怒りから救われなければなりません。
しかし、救ってくださるのも神ご自身なのです。

聖書・バイブルは、
救いは自分の外にあるものなのだと語っているのです。
決して自分自身の中にあるものではありません。
自らの行為によって救いを勝ち取るものではありません。

現在の私たちの状況を作り出した原因は私たち自身にあるのですが、
その原因を私たち自身の力や知恵で取り除くことはできないのです。
救いは、私たちの贖い主であるところのキリスト・イエスのみ与えることができるのです。

日本では、自分自身の可能性や、
人間の持っている潜在能力を発展させ高めることが救いにつながると。
人と人との関係に救いがあるようにも思われています。
その人に問題があるとは考えないのです。

または、個人の内的なエネルギーと、
宇宙的な、自然のエネルギーとの一体化こそ救いにつながると。
スピリチュアルに癒しを求める人の多いことが現わしているのかもしれません。

「福音には、神の義が啓示されていますが、
それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。
『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。
不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、
神は天から怒りを現されます。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章17〜18節・新共同訳聖書)

日本人の特徴は、
神を神と思わないところにあるのかもしれません。
だから救われない・・・・。


北白川 スー

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Wrote up on April 06, 2014.