だからゴスペル・・イエス・キリストをたたえましょう。ハレル〜ヤ



クリスチャンであっても人間です。
思い悩む問題を抱えているかもしれません。
人は色々と思い悩むものです。
悩みを抱えているから、
困難な状態から抜け出したいと、
キリストへの信仰を持つことになったかもしれません。
しかし、
自分の置かれている状態が ”困難だと”思うのは、
自分の生き方や考え方に照らしあわせてみて、
自分の望む方向かどうか照らしてみて、
自分の望みどおりに事が進まないから苦しんだり困難だと感じるわけです。
自分の置かれている現実の世界が、
健康であり経済的に問題がなければ、
それが祝福されているということなのだと、
考え見ているだけなのかもしれません。
それは、自分の目に見える現実の世界の話であって、
それとは別に、
目には見えない世界があるという視点に立っていないだけなのかもしれません。
決して神の目から見たものではないはずです。
たとえどのような困難な状況であっても、
キリスト・イエスを自分の主権者・主として位置づけ、
自分の主人であるキリスト・イエスを信頼して人生を歩むなら、
それが信仰です。
キリストへの信仰は、
決して健康や経済的な成功を求めるものではなく、
健康や経済的な成功に満足するものではありません。
クリスチャンの信仰は、
自分の人生のすべての土台となり、
キリストへの信仰によって支えられるのです。
決して個人的なものではなく、
消極的なものではありません。
キリスト者とは、
健康や経済に満足していた時に味わうことのなかった、
また知ることのなかった、
キリスト・イエスの真の姿を、
イエスの十字架の出来事において、
キリスト・イエスの生と、
死と葬りと復活という出来事において知る者とされたということなのです。
だからこそキリスト・イエスをゴスペルすることができるのです。

「被造物がすべて今日まで、共にうめき、
共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。
被造物だけでなく、“ 霊 ”の初穂をいただいているわたしたちも、
神の子とされること、
つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。
わたしたちは、このような希望によって救われているのです。
見えるものに対する希望は希望ではありません。
現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・8章22〜24節・新共同訳聖書)

「だから、わたしたちは落胆しません。
たとえわたしたちの ”外なる人”は衰えていくとしても、
わたしたちの ”内なる人”は日々新たにされていきます。
わたしたちの一時の軽い艱難は、
比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。
わたしたちは見えるものではなく、
見えないものに目を注ぎます。
見えるものは過ぎ去りますが、
見えないものは永遠に存続するからです。」

 (新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・4章16〜18節・新共同訳聖書)


北白川 スー

関連記事・「イエス・キリストの十字架」

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Wrote up on December 26, 2012.