あなたはそこに居たのか・・十字架の経験



日本のクリスチャンは、
イエス・キリストの十字架の体験は、
特に希薄です。

イエス・キリストの十字架の体験というものが、
その人の信仰の上において、
その人の信仰生活において、
そのものの要素が積極的には感じられないのです。
その人が信じているものが、
そうではない可能性があるのです。

「人の子は必ず、罪人の手に渡され、
十字架につけられ、
三日目に復活することになっている、
と言われたではないか。」

 (新約聖書・ルカによる福音書・24章7節・新共同訳聖書)

つまり、
罪を認めないイエス・キリストが、
辱められ、ののしられ、ムチ打たれ、
十字架を背負わされたとき、
その場に居合わせたという体験が。

さらには、
イエス・キリストが十字架に張り付けになったとき、
その場に居合わせたという体験が。

そして、
イエスが十字架に手首足首を釘によって打ち付けられたとき、
その場に居合わせた体験が、

さらに、イエスが十字架に死に、十字架から下ろされ、
墓の中に横たえられたとき、
その場に居合わせたという体験が。

人の力ではとうてい動かすことのできない、
墓を閉ざしていた墓石が、わきに転がされ、
墓が開けられ、
イエスは死人の中からよみがえられたとき、
その場に居合わせたという体験が。

決定的には、
死人のうちから復活されたイエス・キリストが、
天に上げられて神の右の座に着かれたとき、
その場に居合わせたという体験が・・・・・。

キリストの福音とは、
イエス・キリストの生と死と葬りと復活によって備えられた、
神の怒りの裁きからの救いであることを・・・、
私たちは、イエス・キリストを通して知らされているのです。

イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事が、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事が、

すべての人に、どのような関わりがあるのか、

そして、私たちの、”あらゆる事の軸になる ”ことを、

おどろきをもって知らなければならないのです。

「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、
信じる者すべてに与えられる神の義です。
そこには何の差別もありません。
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、
神の恵みにより無償で義とされるのです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章22〜24節・新共同訳聖書)

聖書・バイブルは、”信仰による義認こそ福音の中心”なのだと明確に語るのです。

クリスチャン自身が、
キリスト・イエスの十字架が自分自身にどのように関わっているのかを、
明確に理解し自分のものにするのかしないのかによって、
その人の信仰を支えるものになるのか、
そうでないのかが分かれてくるのです。
つまり、立ちもすれば倒れもするのです。

しかし、日本のキリスト教の教会では、
信仰による義認についての解き明かしが語られる機会は、
まことに少ないのが現状でしょう。


北白川 スー

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Wrote up on April 05, 2013.