クリスチャンって何ですか



クリスチャンの信仰って、どういうものですか。

家内安全で家族が健康であるように、
商売や仕事や学校や、すべてのことがうまく行くように。

病気や事故や災害や・・・・、
そういう事が起こらないようにビクビクしながら、
恐れなから、おびえながら、神に祈るのが信仰なのでしょうか。

聖書・バイブルは次のように語っています。
「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。
患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、
裸ですか、危険ですか、剣ですか。」
「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、
これらすべてのことの中にあっても、
圧倒的な勝利者となるのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・8章35、37節・新改訳)

孤立無縁のように見えても、困難で不確かな状況の中にあっても、
危機や試練という体験の中にあっても、
危険に直面していようが、苦しみの中にあろうが、
クリスチャンとしてのアイデンティティは、
ただ中にあっても、恐れから解き放たれた、
圧倒的な勝利者であることなのです。

信仰の対象であるところの、キリストへの信頼というものが、
苦しみの中にあっても困難な状況の中にあっても、
どのようなときであっても、
余りあるほどに豊かに満ちあふれているのです。
キリストへの信頼というものは、
富や健康や、それがなければ、
それを手にいれなければ、
それを得なければ幸せは来ないというのではなく、
成功し報いある人生を送ることができることを約束しているのです。

その成功とは、決して、ご利益でも、経済的な繁栄でもありません。
物質的な豊かさを約束しているものではありません。
常に健康であることを約束しているのではありません。
信仰のおかげで受ける、この世の恵みではありません。

では、成功とは、報いある人生とは、いったいどういうことなのでしょうか。
どうすれば、そうなるのでしょうか。

それは、キリストにたいする深い個人的な信仰、信頼の必要性なのです。
決して、「富や健康を、先ずください、頂いたなら信仰します。」というようなものではありません。
クリスチャンとしての信仰は、
人生のすべてのものの土台となるものですから、
人生のすべての面において、
揺らぐことのないキリストへの信頼という土台に支えられなければ、
本物の成功・勝利・自由というものは来ません。

なぜなら、
私たちは、成功とか勝利とか自由というものを、
自分の力では得ることができないからです。

その事実を明らかにしている出来事こそが、
キリスト・イエスが十字架の上で罪人として死なれた出来事なのです。

それが”良き知らせ ”といわれる「福音・ゴスペル」なのです。
なぜ、イエスが十字架に死なれたことが良き知らせなのかと思われでしょう。
イエスが十字架に死んだことが、なぜ、私たちの成功につながるのでしょうか。

最初の人間、アダムとエバが、
エデンの園で神の命令に背いたという話にさかのぼりますが、
アダムに続くすべての人類は”その罪により ”父なる神から切り離されてしまいました。

しかし父なる神は、ご自分と人間とを和解させるために、
御子イエス・キリストを人の子として生まれさせ、私たちの罪の代価を支払らわせるために、
私たちに代わって、人として、十字架の上で、神の怒りの罰をその身に受けて死なれたのです。

その出来事により、私たちの罪のあがないは完成されたのです。

すなわち、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れた人は、
神からのギフトとして救いが与えられるのです。

救いが与えられなければ、
勝利という、自由という、成功という輝いた人生はありません。

移り変わりのはげしい、先の見えない時代です。
先の見えない時代だからこそ、
多くの人は、自分を信じて生きることこそ大切なものであり、
成功へとつながるものだと信じています。

しかし、決して、神に聞き従おうとはしません。
それがすべての混乱や苦しみの、そもそもの原因なのです。

なぜかこの日本では常に、
自分の望みから、人間の欲求から話が始まるのでしょうか。
自分の可能性を信じる生き方こそ、
自分の考え方やり方に信頼することによって、
未来は明るいものとなると・・。
決して、混乱が増し加わるとは考えないのです。

なぜ、救い主、人類の救世主・キリスト・イエスのことから始まらないのでしょうか。

人生を生きて行く上での動機付け、
合理的な原理原則というものを、
モチベーションと情熱を燃やすことのできる人生を生きる・・・
成功し報いある人生を送ることができるもの、
それこそがクリスチャンとしての人生なのです。

キリスト教の信仰を持つことによる、信仰に熱心であるから生まれてくる、
禁欲的でかつ質素な、また勤勉な歩みが、
生産活動に影響を与えて、経済が豊かになるのは、
あくまで本質から別れ出た結果であって、
決して営利を求めるものではなく、
それが信仰の目的ではないのです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

(新約聖書・ヨハネの福音書3章16節・新改訳)

アダムとエバの出来事以来、人類が持つこととなった、本性的な罪深さは、
生まれながらに負ってしまった罪深い性質は一生つきまとってきます。
クリスチャンになったからといって、罪深い性質が無くなるわけではありません。
ただ自分を制するわざを手にしただけなのです。

クリスチャンの信仰とは、
何が前方にくるのか、
自分がどこへ行こうとしているのか知っているということです。

この世界は破滅へと、終末へとつき進んでいます。
キリスト教の信仰の目指すものは、永遠の命を手にすることなのです。
決して、この世の繁栄ではありません。


北白川 スー

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Wrote up on October 06, 2015.