福音って何?
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どういうわけか、整理されず、語られる機会の少ないテーマ、
それが福音なのです。
福音とは、まぎれもなく神の啓示の出来事です。
この世界を造られた創造主なる神が、
被造物である、神の作品であるところの人間に向けて、
示し語られた、
創造主なる神の、
究極的な決断と態度の決定という・・・出来事なのです。
ひとりの人が、すべての人のために死んだという出来事なのです。
その、ひとりの人とは、
神のひとり子、イエス・キリストのことです。
そのイエスが、罪人として十字架にかけられ死刑となり、
葬られ、三日の後に死人のうちから復活したという出来事なのです。
このイエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事こそ、
まぎれもなく、神の啓示の出来事なのです。
「 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、
世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16〜17節・新共同訳聖書)
この神の啓示・福音のために教会は、この世界に建てられています。
決して、教会は、人間による施設でもカルチャーでもありません。
教会は、神が人間のところに来られて、
人間のものとなられたという啓示によって立っているのです。
神の人間にたいする究極の選択と態度の決定というものによって生じたのです。
私たち人間が同じ感情や意志などによって集まって、
教会を建てているのではありません。
私たちは、さまざまにさまざまな必要を持っています。
自分の健康や経済や人間関係に問題を抱えています。
それらを解決する場所が教会ではありません。
信仰とはなんでしょうか。
信仰とは、神の啓示、神の究極の決断と態度の決定という、
イエス・キリストの十字架の出来事においてだけ、
その出来事にたいする信仰にたいしてだけ、
神ご自身の姿と意志とを、
私たち、被造物としての人間の前に明らかにされたのです。
私たち人間に与えられた、
神の意志を・神の啓示を、
ただ受け入れ、ただ承認することだけなのです。
福音とは、隠されていたものが明らかになった出来事なのです。
だからこそ、私たちは、
その福音を、探し求めなければならないのです。
それが信仰です。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。
そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい。
そうすれば、開かれる。
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、
門をたたく者には開かれる。
あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、
石を与えるだろうか。
魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、
自分の子供には良い物を与えることを知っている。
まして、あなたがたの天の父は、
求める者に良い物をくださるにちがいない。
だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、
あなたがたも人にしなさい。
これこそ律法と預言者である。」
(新約聖書・マタイによる福音書・7章7〜12節・新共同訳聖書)
北白川 スー
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Wrote up on 04 January 2012.