なんですか福音って



人間のイエス・キリストへの信仰というものは。
イエス・キリストを信頼して生きるということです。
キリストと共に人生を歩むということです。
キリストを人生の土台として、
キリストを支えに生きて行くということです。
自分を信じて生きて行くということではありません。
自分のやり方や考え方は危ういものだからです。
だから、キリストを信じて生きて行くのです。
つまり、
”福音 ”を認め、受け入れて生きて行くということです。

ただし、福音を知らないキリスト教の信仰もありますし、
クリスチャンもいますが・・・。

”福音 ”とは、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事を言っているのです。
難しく言えば、すべての人に向けて明らかにされた、
創造主なる神の、”神の啓示 ”そのものなのです。

罪を認めない神のひとり子であるイエス・キリストが、
すべての人の罪をその身に負い、
罪人として十字架にかけられ、
処刑され、葬られ、
三日の後に死人のうちから復活・よみがえったという出来事です。

創造主なる神が、そのひとり子の上に、
私たち人間に代えて、
神の怒りの裁きを下された・・・という出来事です。

私たち人間は、神の作品・被造物なのです。

キリストとは ”救い主・メシア ”のことです。
イエス・キリストは、創造主なる 神の”神のひとり子 ”です
神のひとり子イエス・キリストが救い主として、
この世界に生まれ来たということは、
神の目から見て、
この世界が堕落していることをあらわしているのです。
すべての人間が弱く愚かな存在だということです。
そして、この世界のすべての暮らし向き・・・、
政治であれ経済であれ教育であれ医療であれ家族関係であれ人間関係であれ、
すべての暮らし向きが、
人間の弱く愚かな、的を外した結果そのものなのです。
キリスト教的に言えば、
人間の罪深さの結果ということになります。
キリスト教の教会ですら、罪人の共同体なのですから。

人間の罪深さとは何でしょうか。
生まれながらに負っている性質のことです。
人間の本性的な性質なのです。
ときどき過ちを犯すから罪深いのではなく、
常に罪深いから、よく過ちを犯すのです。
過ちを犯していることに気づいていないときすら多々あります。

人間の生まれながらの罪深さとは、どのようなことなのでしょうか。
最初の人間であるアダムが、
創造主なる神に背いたことにより、
アダムに続くすべての人間が罪を背負うこととなったのです。

エデンの園で、取って食べると必ず死ぬから、
取って食べてはいけないと命じられていた、
善悪を判断する知識の果実を取って食べたため、
神の怒りを受け、地に落とされ、
それ以来、すべての人間に死が入り、
地上を労苦してさ迷い歩かなければならなくなったのです。

この罪については、神の裁きが待っています。
必ずやってくる世界の終わりのとき、
生きている人も、かつて生きていた人も、
すべての人は、
神の裁きの座に立たされることになるのです。

この神の裁きから救われるためには、
神との和解が必要とされます。
私たちに代わって、
その神の怒りの裁きを受け止めてくださった、
イエス・キリストを受け入れ、自分の主とすること、
イエス・キリストの十字架の出来事を理解し、
承認し受け入れることなのです。

「口でイエスは主であると公に言い表し、
心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、
あなたは救われるからです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9節・新共同訳聖書)

だからと言って、すべてがオーケーということではありません。
神と和解したからといって、
この世界で生きて行く以上、
常に罪の世界の中にあるわけですから、
常に罪の危険にさらされていることにはなんら変わりありません。

だから、キリストへ信頼を置くことを、
キリストに聞き従って生きて行くことを求めるのです。
それが信仰なのです。

「実に、信仰は聞くことにより、
しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新共同訳聖書)

福音とは、
イエス・キリストの生と死と復活とによって備えらた、
創造主なる神の、救いわざということなのです。

荒っぽい説明ですが、
本来的には、キリスト教の教会の礼拝において、
ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の出来事の内容と意味とが、
つまり神の啓示が、
くりかえし解き明かされることが求められているのです。
それが教会が、この世界に立てられている理由なのですから。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、
世を裁くためではなく、
御子によって世が救われるためである。」

(新約聖書・ヨハネによる福音書・3章16〜17節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on September 28, 2013.