福音とは何か



クリスチャンでなくても、何らかの困難な状態から、
明るい将来を約束する道が開けるかのような喜ばしい知らせを聞くことを”福音 ”と言いあらわします。
望んでいたことへの道筋が明らかになったときと言えるでしょうか。
もともと”福音 ”という言葉はキリスト教から来ています。
キリスト教の教会でよく耳にする「福音・フクイン」という言い方です。
良き知らせ、ゴスペル、ゴッド・スペル、などと言われるものです。
では、”福音 ”とはいったい何を意味しているのでしょうか。
クリスチャンであっても正確に言いあらわせる人は少ないかもしれません。
福音というものを、”イエス・キリストの十字架の出来事 ”と、
その出来事を聞いた人とを、
この二つの事柄のあいだに、深い関係と、
バランスが取れるものとして考えることができなければ、
福音について語ることは正確ではないかもしれません。
もしも仮に、福音が、イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事なしに、
キリストの十字架の出来事が語られないままに、
私たちのところに届いたとすれば・・・。
それは決して聖書が語るところの福音ではなく、
私たちにとって福音というものは存在しなくなります。
私たちは、直接にキリストの十字架の出来事を見ることはできません。
しかし、その場に居合わせた人たちによって伝えられた証言を聞くことはできます。
それが、聖書・バイブルの中に書かれている預言者やキリストの弟子としての使徒たちの記述なのです。
その証人たちの語りかけを聞くことによって、
私たちは、イエス・キリストの十字架の出来事を知り得ることになります。
そしてキリストにたいする信仰という形として成立することになるのです。
キリスト教の教会は、イエス・キリストの十字架の出来事が語られ、
語られることによって、教会はこの人間社会の中に立ったいるのです。
教会は、キリストの十字架の出来事によって基礎づけられていると言えます。
イエス・キリストの十字架の出来事が語られない教会があるとすれば、
その教会はキリスト教の教会ではないことになります。
イエス・キリストの十字架の出来事を語れないクリスチャンがいるとすれば、
その方は、神に属するクリスチャンではないことになります。
教会もクリスチャンもイエス・キリストの十字架の出来事、
すなわち”神の怒りの判決 ”という神の啓示の上に立っているのです。
私たちが、イエス・キリストを受け入れ信じるということは、
イエス・キリストの十字架の出来事の証人たちの証言があればこそ、
すなわち聖書の言葉を聞くことによって、
イエス・キリストの十字架の出来事・キリストの贖罪というわざを認識することができて、
またその出来事について語ることができるのです。

「 実に、信仰は聞くことにより、 しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」
 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章17節・新共同訳聖書)

福音というものを、
私たちをとりまく、自然や歴史や、環境や社会や人間関係や、
私たち自身を含めた広がりの中で、
何かを発見したかのように語ることではありません。
私たち自身の、苦しみや悲しみをひととき忘れ去ることのできる行為や、
苦しみや悲しみの中にある人たちを観察して、
悩みを持っている人たちにたいして何らかの助言を与えるようなものではありません。
社会活動やボランティア活動ではありません。
ましてや人間を、もっと高く大きな存在として、神と取りちがえようとするものではありません。
美しい自然や人間の作った音楽や美術などによって、
ひとときは安らいでも人間の本質は何も変わりません。
人からなぐさめの言葉をもらったとしても、時間がたてば、
再び、心の中につかえているしこりは頭を持ち上げてくるはずです。
他のことを忘れて、からだを使った作業などに熱中しても、
心のわだかまりは消え去るものではありません。
福音は、人間が作り出すものではないのです。
決して、私たちが考え計画するものではないのです。
私たちができることは、
ただ、イエス・キリストの十字架の出来事にもとづいて、
証言が与えられ、それを受け入れ、その事実を認めて、
言いあらわすことだけなのです。
なぜかと言えば、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
キリストの十字架の死による贖いのわざという出来事こそが、
すべてを根底からひっくり返すことになる出来事だからです。
”福音 ”という言葉を知っていても、
言いあらわすことができなければ何の意味もありません。
キリスト教の教会は、
ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事を解き明かすところです。
いや、神ご自身が私たちを”その福音 ”のもとに呼び集められるところなのです。
しかしそれは、私たちのためではなく、
神ご自身のためなのです。

「見よ、神の幕屋が人の間にあって、
神が人と共に住み、人は神の民となる。
神は自ら人と共にいて、その神となり、
彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。
最初のものは過ぎ去ったからである。」

 (新約聖書・ヨハネの黙示録・21章3〜4節・新共同訳聖書)
 (旧約聖書・イザヤ書・24・35・65章参照)

創造主なる神と、その被造物としての人間の関係。
作者と作品との関係だからです。
作品は作者に栄光を返す存在だからです。
福音を神の言葉として理解している人は、
イエス・キリストの十字架の出来事を目の前に認めた人であり、
言いかえれば、神に見だされた人と言っていいのではないでしょうか。
神の言葉・福音によって、神と人間との関係における、
神からの恵みやいつくしみを、
神ご自身のへりくだりを、
自分のもとに来たものとしてとらえることができるのです。
福音というものが、
私たちの理性や心の動きや愛というような、
ずるさやごまかしを含んでいるかのような、
見えないものに根ざしているのではなく、
具体的な神の究極的な決断と態度の決定という、
永遠に変わらない、ただ一度の行為に根ざしているのです。

「 キリストは、神の身分でありながら、
神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分になり、
人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
へりくだって、死に至るまで、
それも十字架の死に至るまで従順でした。
このため、神はキリストを高く上げ、
あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
こうして、天上のもの、地上のもの、
地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
すべての舌が、”イエス・キリストは主である”と公に宣べて、
父である神をたたえるのです。」

 (新約聖書・ピリピの信徒への手紙・2章6〜11節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up on November 19, 2012.