日本のキリスト教の宗教活動
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日本では、自由にキリスト教の布教も宗教活動もできます。
しかし、布教や宗教活動は自由であるものの、
クリスチャンと言えば、めずらしい・・・。
長年にわたって少数派であり、
全人口に占める比率も、
依然として1パーセントというところです。
信頼できる統計調査では6〜7パーセントという数字もありますが、
それは、自称クリスチャンであったり、
かつては教会に行っていたが、何らかの理由で、
教会から離れてしまっている人たち・・・という意味の数字でしょうか。
日本では、古来からの民俗が暮らしの宗教として生活に根強く根付いています。
人間関係や共同体や地域社会の秩序を守り維持する作用や役割として、
人の誕生から死、盆の行事や法事に至るまで、
さまざまな人間活動に、
重要なものとして位置づけられ、
古来からの宗教的な民俗が、
何の疑問を抱かすことなく当然のように行なわれています。
それらがキリスト教の布教の妨げになっているのは事実ですが、
理由のすべてではありません。
そのような環境の中で、
キリストの福音に耳を傾けることは、
容易なことではないでしょう。
人間は、神に聞く耳を、もともと持ち合わせていたのですが、
最初の人間が神に背いて、
取って食べると死ぬといけないから取って食べてはいけないと、
神から命じられていた、
善悪の知識の木の実を取って食べていらい、
神に聞く耳を失ってはいませんが、
聞く耳から切り離されたと言っていい状態におちいっているのです。
ですから、創造主なる神が最初に創造された人間の状態に戻るのは容易なことではないのですが、
再び、神に聞く耳を用いることのできる人間へは道のりは、
たいへん遠いものかも知れませんが不可能なことではないのです。
神に聞く耳は、創造主なる神によって人間が創造されたときから、
もともと持ち合わせていたものなのですから。
忘れている内なる人間を復活させることはできます。
それが信仰ということになります。
「・・・・・わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。
わたしは、自分のしていることが分かりません。
自分が望むことは実行せず、
かえって憎んでいることをするからです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・7章14〜15節・新共同訳聖書)
聖書は、人間とは、肉と霊との対立の中で生きていると語っています。
人間は霊として善い行いを望んでいますが、
しかし、肉として、それを妨げるのです。
人間とは、肉の弱さをまとった存在であり、
罪に売り渡された者なのです。
しかしこと日本では、
人間とは、もともと善良なものであって、
社会のシステムや教育、政治の悪さ、
貧困や人間関係などによって人間性が悪くなるのだとかたく信じられています。
聖書が語っているのは、
どの人間も、悪いことの原因を他に求めるのがうまいけれど、
自分の心の中をのぞいてみたら、
実は、自分の中に、自分が非難する人と同じ悪さを持っていることに、
なかなか気付こうとはしない悪さが隠れていると指摘するのです。
なにごとも人のせいにする性質、
それが人間が罪に落された姿そのものなのです。
クリスチャンであろうがなかろうが、
すべての人は、神の下では等しく罪人です。
そうでなければ、
ひとりの人がすべての人のために死んだという、
イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)のわざという出来事は意味を持たなくなります。
キリスト教の布教活動は、
このイエス・キリストの十字架の出来事が基礎となり出発点なのです。
しかし、日本の社会がキリスト教に求めているものが布教の妨げになっているのも事実なのです。
社会的弱者の救済の施設としての機能をキリスト教に求め、
それがキリスト教の本質だと決め込んでいるのです。
心に病を持った人とか、
現代社会の病理に傷ついてしまった人たちの施設としての役割こそキリスト教の教会の存在理由だと決め込んでいるのです。
決してすべての人が対象とする宗教とは見ていないのです。
日本で、キリスト教が広まらないのは、
本来のキリスト教のデザインや価値観が広く知られていないのが理由なのです。
つまり、イエス・キリストの十字架の出来事が説き明かされていないということなのです。
日本の、どれだけ人が、
イエス・キリストの十字架の出来事を知っているでしょうか。
北白川 スー
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Wrote up on 17 June, 2012.