福音って何ですか



福音って何ですかと問われて、
正確に答えられるクリスチャンは、どれだけいるだろうか。
福音は、すべての人間は弱く愚かな存在であることを示しています。
人間は、決して、善良で正しい存在ではないのです。
しかし、善良で正しいから救われなければならないと主張する人も多いものです。
私は罪など犯してはいない・・・と。

神のひとり子イエス・キリストが救い主として、
この世界に生まれ来られたということは、
この世界を創られた創造主なる神の目から見て、
この世界が堕落していることをあらわしているからです。
私たち人間は、神の作品・被造物なのです。

私たちが弱く愚かで、
救われることも逃げることもできない状態でなかったら、
メシア・キリスト・救世主が生まれ来られる必要などないのですから。
すべての人の罪をその身に負って、
イエス・キリストが十字架で死ぬ必要などないのです。

ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事など起きる必要などないのです。

イエス・キリストの十字架の出来事は、
神との和解の出来事であることは明らかなのです。

福音とは、神との和解の出来事なのです。
創造主なる神と、被造物としての人間との関係において。

「 つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、
人々の罪の責任を問うことなく、
和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」

(新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章19節・新共同訳聖書)

和解の言葉こそ福音なのです。
私たちは神にたいして負い目を負債を負っていること、
その負い目には裁きが待っています。
その裁きからの救いこそ、
福音の内容と意味なのです。

イエス・キリストがすべての人の罪をその身に負い、
罪人として十字架に死ぬことによって贖ってくださったのです。

私は罪など犯してはいないと言う人があるとすれば、
その人は自分を欺いています。

私たちは本性的に、
生まれながらに罪深い性質を負って生れてくるのです。
その性質が、思いとなって言葉となって、
行為や行動となって、
自分にたいして、人にたいして、神にたいして罪を犯し続けているのです。
それが現実の私たちの姿です。

「 なぜなら、わたしたちは皆、
キリストの裁きの座の前に立ち、
善であれ悪であれ、
めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、
報いを受けねばならないからです。」

(新約聖書・コリントの信徒への第2の手紙・5章10節・新共同訳聖書)

キリスト教が言うところの福音とは、
いったいどのようなことなのでしょうか。

仮に、日本のキリスト教の教会や教会員たちを支配しているものが、
あいまいな、形にならない漠然とした感覚や雰囲気だとしたら。
つまり、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事の上に立ち、
その信仰の支えとなっていないとすれば・・・。


北白川 スー

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Wrote up on 18 July, 2013.