いま、どこに居るのか分からない
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 キリスト教の教会が、日曜日の礼拝において、
 その説教において、
 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事が解き明かされず・・・・、
 説かれないなら・・・。
 私たちは、自分たちが、どこに居るのか、
 どこへ行こうとしているのかが分からないままにいることになります。
 私たちが、どこに居るのか、
 どこから来て、
 どこへ行こうとしているのかを明らかにするのが、
 イエス・キリストの十字架の出来事・・・、
 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事なのです。
 このテーマこそが、
 キリスト教の本質的で根本的なことがらを明らかにする出来事なのです。
 さらに、ここに、
 私たちが、どうしても救いが、
 必要としなければならない理由が明らかになっているのです。
 ひとりの例外もなく、すべての人間に課せられたテーマなのです。
 私たち人間は、創造主なる神によって創造されました。
 しかし、最初の人間が、創造主なる神に背いたことにより、
 その最初の人間に続くすべての人間は、
 その罪により、神の裁きを受けなければならなくなったのです。
 人間の創造から、神の裁きへと、
 いま、私たちは、創造と裁きとの、
 その中間点に存在しているのです。
 必ずやってくる神の裁きからの救いこそ、
 キリスト教が問題としている救いのことなのです。
 私たち人類が、
 どこに居るのか、
 そして、どこへ行こうとしているかを明らかにするのが、
 イエス・キリストの十字架の出来事なのです。
 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事なのです。
 しかし、こと日本では、
 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事が解き明かされることのはありません。
 多くの日本人は、いま、どこに居るのか分からないままでいるのです。
 福音の ”フ”すら聞こえてこない日本なのですから。
北白川 スー
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Wrote up on  02 May, 2012.