日本の教会の混乱


 多くの日本人にとって、また初めて教会に足を踏み入れた人にとって、

 ”福音 ”は、初めて耳にするものであり、初めて体験するアイデンティティなのです。

 そうであるにもかかわらず、その上に人生を築き信仰生活を築きなさいと言われても、

 福音そのものが十二分に語られ、解釈がなされ理解されていなければ、

 自分自身のアイデンティティにしなさいと言われても、

 そうするだけの理由も筋道も整っていないことになるのではないだろうか。

 それを強いてやれば、しわよせはどこに及ぶことになるのだろうか。


 キリスト教信仰の中心的な、また根本的なこととして、

 イエス・キリストを救い主として受け入れるという意味が、

 私たちの罪の代価を支払うために、十字架の上で死刑となられたイエス・キリストを、

 つまり、教会に足を踏み入れ、教会とかかわりを持とうとしている者が、

 自分自身こそ罪ある者であることを知り、悟り、また認めることが、

 キリストへの信仰・キリストへ信頼をよせることへの最初で最後の関門なのです。

 そこを通らなければ信仰というものの中に入ることすらできないのです。

 どうあろうとも自分の非を、誤りを、いつわりを、

 自分は正しくはないということを知り、悟り、また認めることから始まるのです。

 正義は自分にあると思っているのなら、

 救い主の必要などありません。

 自分の正義を教会から得ようとするなら、キリストはどうなるのでしょうか。


 キリスト教信仰の、きわめて重要な、ゆるがない教えは、

 ”信仰による義認 ”ということです。

 イエス・キリストにたいする信仰によらなければ、神の前で正しい者とはされないということです。

 自分への信頼ではなく、イエス・キリストへの信頼なのです。

 信仰生活のすべての軸になるものなのです。

 つまり、”イエス・キリストの十字架の死による・あがない・”という出来事こそが、

 十字架の上で何が起きたかということが福音の中心なのです。

 イエス・キリストがすべての人の身代わりとなって、すべての人の罪の代価を自らの命と引換に支払われたという出来事なのです。

 すべての人の罪・・・例外なく私たちは正しくはありません。

 ひとり子イエスの命を差し出された神のみがきよく正しいのです。


 日本人は、たいへんプライドにこり固まった民俗を持ち合わせています。

 自分自身や自分の人生を、基本的に善いものだと思っています。

 あなたは正しくない、罪深い罪人だ、とでも言われれば、

 きっとプライドは深く傷つくことでしょう。

 日本にキリスト教信仰が広まらないひとつの理由が、ここらあたりにあるのかもしれません。


 私たちはひとしく”つねに過ちを犯しかねない存在なのだ ”と思えばこそ、

 そうさせないようにと、おさえる神の力があれば、

 ”底深い人生の奈落へ ”とおちいらないように守られているはずなのです。

 そうさせまいとする神の力こそ福音と呼ばれるものなのです。

 そこに平安とか安心とかというものがあるわけです。

 その神の力である福音こそ、つまり良き知らせ、グッドニュースこそ、

 イエス・キリストの十字架によるあがないという出来事なのです。

 そのイエス・キリストの出来事を信じることこそ、

 神の前で正しい者とされる第一歩なのです。

 それが信仰による義認ということなのです。

 ですから教会においてイエス・キリストの出来事が、

 くりかえしくりかえし詳しく語られなければならないのです。


 罪深く正しくない私たちと、きよく正しい神との間に横たわる深い溝を埋めるために、

 神のひとり子イエスの、その命を差し出されたのが父なる神なら・・・。

 認めたくはない、知りたくはない事柄であるところの、

 私たちが罪深い存在になった理由を知る必要があります。

 その理由が分からなくては、イエス・キリストの十字架の出来事も理解できません。

 罪深く正しくない私たち・・・、

 私たちがときどき罪を犯すから罪深いのではなくて、

 生まれたときから、もとからして罪深い存在なのだという理由なのです。

 それを「原罪」と言います。

 つねに罪深いから、思いにおいて、言葉において、行動において、

 自分にたいして、人にたいして、また神にたいして、罪を犯すのです。

 私たちが現実的に罪と言っている、ルール違反や法律違反や、

 不道徳な行為などは、「原罪」が表にあらわれた姿でしかありません。


 私たち人間は、この世界を造られた父なる神によって、

 神を知り、神をあがめ、神と交流し、神に聞き従うものとして、

 神の形にかたどられて造られたのですが・・・。

 人類の始祖であるアダムとエバが、

 取って食べると死ぬからと禁じられていた果実を取って食べたことによって、

 神の怒りにふれ、楽園を追放され、地上で労苦して生きなければならなくなります。

 神の楽園を追放され、あがめる神を、聞き従うべき神を失うことにより、

 その思いと言葉と行為において、神にたいして、人にたいして、自分にたいして罪を犯すようになったのです。

 それが死の状態、罪深い状態なのです。

 では、罪深く正しくない私たちと、きよく正しい神との間に横たわる深い溝を埋めるにはどうすればいいのでしょうか。

 罪人を救うには、罪のない者が罪人の身代わりとなって、

 その罪の代価を、その命を死にわたすことをもってを支払うほかないのです。

 ”あがなう”よりほかはありません。

 そこで父なる神は、究極的な選択と決断により、

 神のひとり子であるイエスを罪となし、十字架にかけ、

 神の怒りを、わが子イエスの上に下されたのです。

 そして”あがない”を完成されたのです。

 ですから、どのような罪人であっても、

 イエス・キリストを”あがない主”、救い主として信じるならば、

 父なる神との和解と、どのような罪であってもゆるされ、

 再び神の子として受け入れられるのです。


 また、ここで問題があります。

 こと日本では、罪にたいする懲罰を、

 罪のつぐないとは思わない民俗があります。

 つまり心の再教育のチャンスを与えるという思想です。

 罪を犯した者であっても、過失にたいして教育というチャンスを与えるのです。

 つまり、根っからの悪人ではないはずだから、

 同情すべき事情もあることだろうから、

 心の再生産によって出直してくるようにと、

 教育的チャンスを与えることによって、罪を減じようと言うのです。

 つまり「情状酌量」という思想なのです。

 これがまた、肉体に苦痛を与えることによって、罪をつぐなえるという思想がもととなっている、

 イエス・キリストの十字架刑による死刑によって、

 罪がつぐなわれたという出来事を理解しがたいものにしている原因のひとつなのです。

 どちらにせよ、教会において、

 キリストの福音そのものが、

 イエス・キリストの十字架の死によるあがないという出来事が、

 十二分に語られ、解釈がなされ理解されなければならないのです。


 「私は、ほんとうにみじめな人間です。

 だれがこの死の、からだから、

 私を救い出してくれるのでしょうか。」

  (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙7章24節・新改訳)


 どちらにせよ、日本的な常識で量かれないのが、福音の良識かもしれません。


北白川 スー

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Wrote up: 22 April 2008.