神に愛され生かされている・パワースポット


 キリスト教は、しごく当然のように、人は、神に愛され生かされていると説明するのだが、

 多くの人は、そのようには感じていないし理解していないのではないか。

 人が、元気づけられ、勇気づけられ、励まされ、癒されるのは、

 それらを、求め、また確かめようとするのは、

 同じ人間の足跡によってなのです。

 歌やスポーツや・・・、

 人は、人の言葉や行為などによって癒され、感動しようとするのです。

 現実から逃避・のがれさせてくれるものによって・・・・。

 キリスト教は、

 教会では、決まり文句のように、

 人は、神によって愛され生かされていると言う・・・、

 その言葉を聞く人が、

 その言葉の意味を、

 すでに分かっているかのように言われるのですが、

 しかし、人は、それを何によって知り、また何によって理解するのでしょうか。

 それは、まぎれもなく、

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)・・・という出来事からなのです。

 現実の、人間たちを取り巻く状況は、決して幸福でも平安なものではない。

 だから、人は救いを求め癒されたいと願うのです。

 癒しと感動を求めて、さまざまなものにそれらを見出そうとします。

 しかし、神には、決して癒しを求めようとはしないのです。

 言い換えれば、宗教にそれらを求めようとはしない。

 宗教によって、人が求める生き方を実現しようとは考えない。

 いや、強いて言えば、宗教することは、弱い人間のすることであって、

 自分は、それを求めないと・・・・・。

 人間には可能性があり、

 人を癒し感動させ元気づけるのは、

 人間の言葉や行為や行動によるのだと。

 しかし、聖書・バイブルは、まったく正反対の立場をとります。

 ・・・人が義とされるのは、

 決して行ないによるのではなく、

 信仰によるのであると。・・・・

 人の知恵や、力や、良い行いによるのではなく、

 神の力にすがることしか方法は残されていないと。

 人間の行ないには、むなしさが残るだけだと・・・。

 言い換えれば、人間の肉体の内には、善なるものは宿っていないのです。


 「わたしはなんとみじめな人間なのでしょう。

 死に定められたこの体から、

 だれがわたしを救ってくれるのでしょうか。」

 (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・7章24節・新共同訳聖書)


 人は、もの言わぬパワースポットで癒されたいと・・・・。

 何か霊的な力がそこに働いていて、

 その力によって力づけられ癒されたいと願う・・・・。

 しかし、キリスト教は、まぎれもなく、

 神の言葉によって、

 語り伝えられ来たイエス・キリストの十字架の出来事によって、

 その出来事から、神の意思を知ることによって、

 私たち人間の本性を知り、

 人間の愚かさを知り、

 そこからの自由を、解放を得ることができるのです。

 イエス・キリストの十字架の出来事の内容と意味とを知ることによって、

 ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事の内容と意味とを知ることによって、

 初めて、この世界を造られた神が、

 神の作品である人間を、深く愛し、

 生かしてくださっていることを知ることができるのです。


北白川 スー

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Wrote up on 18 September 2010.