クリスチャンだって不安でいっぱいなのです



教会では「救い」という言葉がよく使われます。
イエス・キリストによって救われたと。

本来の意味は、
イエス・キリストの十字架の死による贖い(あがない)のわざという出来事によって、
神の怒りの裁きから救われた・・・ということです・・・・が。

罪のない神のひとり子キリスト・イエスが罪人として、
十字架にかけられ処刑されたという、“わざ”によって、
罪科・・神の命令に背いたという罪・・が、
私たちに代わって、
神のひとり子イエスの命によってが支払われたという、
”あがないの出来事 ”によって罪はゆるされ、
神の怒りの裁きから救われたのです。

でも、正直いって、救われたという確信はありません、
だから不安でいっぱいなのです。
暮らしの不安やイライラ・・・毎日が心配で心配で心はちきれそうです。
ほんとうに、私はみじめなのです・・・。

聖書・バイブルは、次のように語っています。
「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。
何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、
求めているものを神に打ち明けなさい。
そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、
あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」

(新約聖書・ピリピの信徒への手紙・4章6〜7節・新共同訳聖書)

祈りのない生活なら・・・日々の暮らしとキリストへの信仰とがバラバラならば、
いつまでもこだわって、恐れと心配でいっぱいになっている心に、
なにごとも後ろ向きになっている心に、
そのような生活の中にキリスト・イエスをむかえ入れないのなら、
”救われている ”という感覚など絵に書いたモチでしょう。
不安でいっぱいの心を支配しているものは、いったい何なのでしょうか。
なぜ、そこから抜け出ようとはしないのでしょうか。
なぜ、手ばなそうとはしないのですか。
何を・・・?

教会での教えは、
暮らしの中で起きてくるイライラや心配や不安などを、
過去にこだわらないで、今にこだわらないで、
ただキリスト・イエスにゆだねなさいと。
イエスを心に招きなさいと。
すべてのコントロールをキリスト・イエスにまかせなさいと。
そうすば、豊かに満ちあふれた神の平安がやってくるのだと。

神の言葉である聖書の言葉が、
暮らしの中で生き生きと動きはじめて、
暮らしに活かされてくるのだと。
暮らしに正確な方向性と、適切な行動とを教えてくれるのだと。

しかし、家族のことで、仕事のことで、子供の進学のことだって、保険のこだって、心配で心配で・・・・。

それらは、すべて人生で求めているもの、守ろうとしているものですね。
では、あなたにとって何が福音なのですか・・・。

このような質問こそおかしいのです。

福音とはイエス・キリストの十字架の出来事に他ならないのですから。
必要なことは、ただイエス・キリストの十字架の出来事の内容と意味を正確に理解することだけなのです。

決してイエスは、あなたの自己義認のための具ではありません。

その通り、あなたは間違ってはいないと・・・・・イエスは言っているのではありません。
その逆なのです。
悔い改めよと、自分の道を改めよ、新しくせよと・・・・・。
あなたの存在には意味があります、創造主にとって・・・・。

キリスト・イエスは、神の怒りの裁きを、
私たちに代わって受け止めてくださったのですから。

私たちが抱えるさまざまな問題は、
あなたを含めた社会の構造が作り出したものです。
聖書・バイブルが示しているのは、
社会の欠陥は、人間の欠陥にまでさかのぼって考える必要を言っているのです。
私たちの本性的な性質が、
生まれながらに負っている性質が、
社会の欠陥を作り出しているのです。


北白川 スー

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Wrote up on June 14, 2015.