キリストの福音の内容と現代社会の病理
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罪を認めないひとりの人が、
罪人として十字架にかけられ死刑となり、
葬られ、三日の後に死人のうちから復活した・よみがえったという出来事こそが、
キリストの福音の内容であるなら・・・。
ひとりの人がすべての人のために死んだという・・・、
福音というものの性質が、
既存の日本の文化のあり方をその根底から掘りくずすものであるなら、
なおさら正確に伝えなければならない性質を持っていることになる。
なぜなら多くの、自らの進むべき道を探し求めている人たちは、
いまある社会の中に自分の居場所を見出すことに苦しみ、
また実現したいと願っているからです。
人々がキリスト教の教会に期待しているものの根底には、
その人の生き方にたいして肯定的な、
その通りで間違っていないという確証を得たいためで、
そうでなければ安心を手にすることができないからです。
しかし、聖書・バイブルは、
福音は、決して現代社会にたいして安心や平和をもたらすものではないと語るのです。
それどころか、混乱さえ起きてくると。
キリストの福音は、
決して自分の生き方を肯定するものではないからです。
すべての人間は罪深い性質を負っており、
人間の欠陥を浮き彫りにさせるのが、
自分がすっかり迷っていることを悟らせるのが福音なのです。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
現状維持ではなく、
悔い改めにふさわしい実を結んでこそ、
道は開け希望が見えてくるものだと・・・・。
古い価値観を捨て、新しい価値観を身につけることこそ、
平安をもたらし、明日が開けてくるものだと。
そう言われても、なかなかできないものです。
「 それから、弟子たちに言われた。
わたしについて来たい者は、自分を捨て、
自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、
わたしのために命を失う者は、それを得る。」
(新約聖書・マタイによる福音書・16章24〜25節・新共同訳聖書)
だからといって、
キリスト教文化の欧米が素晴らしいと言っているのではありません。
人間が作る社会である以上、
罪人が作る社会である以上、
言葉の違いや肌の色の違いなど関係なく、
どのような人間社会であっても、
そのすべて社会は、問題を抱えたままの社会なのです。
求められているのは、
ただ謙虚になること、へりくだるだけなのです。
罪深い性質を持っている自分と、
クリスチャンとしての自分とは、
決して別々のものでもなく同一なのです。
問題は、八百万の神々を信じるのか、
それとも、唯一絶対の神を信じるのかの違いかもしれません。
問題の多い自分に信頼を持つのか、
それともイエス・キリストに信頼を置くのか・・・・・。
北白川 スー
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Wrote up on 11 April 2011.