気付いていない本質を



キリスト教の教会の、日曜日の礼拝において語られる説教は、
私たちが、気付いていない本質を明らかにするものだと言っていい。

私たち人間は、本質が語られないと、
自分たちの欲求を実現することに精神や力を注ぎこむものだからです。
自分たちの計画や希望が現実のものとなることを望むものだからです。

神に背き、神から離れてしまった人間たちは、
真理の追究ではなく、
自分たちの欲望を追求するものになったからです。

生まれながらに負ってしまった性質のため、
事の本質を究めようとはしなくなったのです。

聖書・バイブルは次のように語っている。
「次のように書いてあるとおりです。
・・正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
善を行う者はいない。ただの一人もいない。・・」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章10〜12節・新共同訳聖書)

こと日本では、神仏は、善なる者に報いるものだと考えます。
すべての人は善人なのです。
ただ、社会の悪や悪い環境が人を悪くすると考えます。

人間のために神仏はあるのだと・・・。
決して、人間は神仏のために存在しているとは考えません。

私たちを取り巻く環境や社会は、
多くの深刻な問題を抱えています。
地球の温暖化や、大規模な自然災害などを、
よくよく観察すれば、
人間は、自然の摂理に反した行動を取り、
自然の摂理を、自分たちの都合のよいように変えようとします。
この行動にたいして自然の摂理は、
猛烈にしっぺ返しを加えるのです。

自然の摂理を「神」に言いかえれば・・。

「そして、真理からは耳をそむけて、
作り話の方にそれていく時が来るであろう。」

(新約聖書・テモテへの第2の手紙・4章4節・口語訳聖書)

聖書・バイブルは、私たち人間は、
創造主なる神のために存在していると明確に示すのです。
神に栄光を返すために、
神の作品・被造物としての人間は創られたのです。

作品は作者に栄光を返すものだからです。


北白川 スー

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Wrote up on September 14, 2014.