自分の可能性という落とし穴


 キリストへ信頼をよせる前のこと、キリストへの信仰を持つ前は、

 自分を信じて、自分の可能生を信じて、充実した今日を生き、自分を思う存分に活かそうと、可能生を信じて自分のベストをつくすことが豊かさと成長につながるものだと信じていたのだが・・・。

 しかし、その結果はさんたんたるものだった・・・。

 救いようもないひどい状態を招いてしまっていたものだ。

 それは、信仰というものからほど遠いものだったからだ。

 なぜなら、生きることへの源泉となるものとかたくなに信じていた、

 ”自分を信じる”という自分の意志というものが、

 実は、人が生まれながらに持っているかたくなな心・・・、

 絶対的な存在、この上なくすぐれている至高の存在というものへの、

 聞く耳を持たないということだからなのだ。


 聖書・バイブルは教えている。

 人間が本来的に持っているかたくなさ、

 つまり罪深さというものが、

 人が本来的に持っている罪深さを認めない原因なのだと。


 「すなわち、すべての人は罪を犯したため、

 神の栄光を受けられなくなっており・・」

 (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙・3章23節・口語訳聖書)


 イエス・キリストは、その身に、すべての人の罪を背負い、

 十字架の上で罪人として罰せられた・・・・。

 この出来事は何を意味しているのだろうか。

 私たち人間が正しい者ならば、

 イエス・キリストが、すべての人のために死ぬ必要などなかったのだから。


 自分を信じて生きていくことが最も大切で最高のものだと信じていたのだが、

 そこに、”聞く耳を持たない自分 ”がいるなどとはつゆとも知らなかったのだ。

 人間として成長するための努力は、

 生きているすべての人にとって必要であることはよく分かる。

 しかし、もっとも大切であるにもかかわらず、

 ときとして置き忘れてしまうものがある。

 それは、聞く耳を持つということなのだ。

 心を沈め、静かに聞く耳なのだ。


 人間の可能生とか努力などによって救いに達しようとすることがないのが神の知恵なのである。

 「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。

 それは神の知恵にかなっています。」

 (新約聖書・コリントの信徒へのパウロの第1の手紙・1章21節・新共同訳聖書)


北白川 スー

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Wrote up: 08 November 2008.