救世主・メシア・って何ですか


 キリストなるイエスって誰ですか・・

 この世界が堕落していなければ、抜き差しならない状態でなかったなら、

 私もあなたも・・・、すべての人間が、

 身動きがとれなくて、どうしょうもない状態に、

 どっぷりとはまっていて、

 逃げることも、救われることも出来ない状態でなかったなら、

 メシア・救世主が、キリストが、

 この世界に来る必要などどこにもないことになります。


 私は正しい・・と、

 自分の思いや行為といったものが周りに受け入れられるべきものであると、

 自分の正しさを得たいと考えている人にとっては、

 救世主の存在は意味も持たなくなります。

 キリスト教の教会こそ、自分の正しさを認めてくれるところだと期待して教会にやってくる人もいます。

 しかし、教会が教会のまわりの人にメッセージしようとしている内容は、

 「ひとりの人が、すべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。」という出来事なのです。

  (新約聖書・コリントの信徒へのパウロの第2の手紙5章14節・新改訳)


 すべての人が道をあやまり、追いつめられた状態でなかったなら、

 キリストすなわちメシアであるイエスか、この世に人として生まれる必要もなく、

 十字架の上ですべての人に代わって、罪人として死刑になる必要もなかったのです。

 たいていの人は、自分の人生や、

 自分のやり方や思いが、正しいものだと、

 少なくとも自分自身の人生を支えているものだと信じているはずです。


 しかし、自分の人生は誤りに満ち満ちたものだとしたら・・・・。

 その事実を示すものこそイエス・キリストが十字架の上で死刑となった出来事なのです。

 罪に満ちた、罪深い人生を歩んで来た者のために、

 イエスは、その罪を我が身に背負い、罪人として死なれたのです。

 そうすることによって、その罪の代価を支払われたのです。

 イエス・キリストを信じるということは・・・・。

 言い換えれば、私は罪人でしたと告白していることになるのです。

 その罪とは、

 日常的に犯してしまうことの多い、法律違反や規律違反、交通違反や、

 不道徳な行いのことでしょうか。

 私たちは、ときどき罪を犯すから罪深いのでしょうか。

 いいえ、根っから罪深いのです。

 意識しょうがしまいが、本来的に本性的に罪の体質なのです。

 そうでなかったなら、メシア・救世主・キリストがこの世界に来られる必要などないのですから。

 その本来的に本性的な罪のことを「原罪」と言います。


 では、キリスト教信仰とは何でしょうか。

 「キリストがすべての人のために死なれたのは、

 生きている人々が、もはや自分のためにではなく、

 自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」

  (新約聖書・コリントの信徒へのパウロの第2の手紙5章15節・新改訳)


 神の前で正しい者とされるには、

 神の前で罪人であることを認めることにある。

 まずそれが信仰への第一歩・・・、

 この世界を造られた方によって造られた被造物としての、

 人間としての第一歩なのです。


 「私は、ほんとうにみじめな人間です。

 だれがこの死の、からだから、

 私を救い出してくれるのでしょうか。」

  (新約聖書・ローマの信徒へのパウロの手紙7章24節・新改訳)


北白川 スー

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Wrote up: 20 April 2008.