心の平安はゴールではなくスタート


 キリスト教の信仰の、

 信仰を持っている者でしか味わえない良さが、

 信仰を持つことによって、

 心が平安になることなら、

 しかし、それで終わりではなく、

 信仰を持っても、この世俗での営みは続くわけですから、

 自分が置かれている状態や状況に、

 自分の所属する組織や共同体や地域社会などにたいして、

 経済や教育や人間関係などにたいして、

 すべての日常生活の領域において、

 キリスト者として責任を取るということが求められることになるわけです。


 「 あなたがたは、地の塩です。

 もし塩が塩けをなくしたら、

 何によって塩けをつけるのでしょう。

 もう何の役にも立たず、

 外に捨てられて、

 人々に踏みつけられるだけです。」

 (新約聖書・マタイによる福音書・5章13節・新改訳聖書)


 キリスト教の信仰は、信仰者に、

 決して、世俗から離れた修道院的な暮らしを持ちこむものではありません。

 聖書・バイブルは、先ず語り始めます。


 「 ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・1章7節・新改訳聖書)


 信仰を得ることによって手にした、

 心の平安は、ゴールではなくスタートなのです。

 自分の置かれている状態や状況に責任を取るということは、

 セルフ・コントロールを求めるものです・・・・。

 信仰を得るということは、

 自分で自分を客観的に見ることが出来るようになることを意味しています。

 キリストにたいする信仰を持つに至ったということは、

 キリストによって、

 今までの自分の愚かさ弱さを気付かされ、

 また明らかとされ、

 白日の下に、すっかり暴露されるのです。

 そうだからこそ、

 キリストに信頼しなければならなくなるわけです。

 つまり、キリストへ向けて自分のすべてが方向転換、

 キリストに向きを変えたことを意味しています。

 それがイエス・キリストを自分の主とする信仰なのですから。

 信仰とは、イエス・キリストに聞き従うことです。


 「 口でイエスは主であると公に言い表し、

 心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、

 あなたは救われるからです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9節・新共同訳聖書)


 聖書・バイブルが語る創造の初め・・・。

 エデンの園の中央には、

 ”命の木 ”と”善悪の知識の木 ”という二本の木が立っていました。

 しかし、最初の人間が、神に背いて、

 取って食べると死ぬといけないから決して取って食べてはいけないと命じられていた善悪の知識の木から取って食べたため、

 神の怒りにふれ、楽園を追放され、

 地に落とされ労苦して生きていかなければならなくなり、

 加えて、人の生に死が入ってきたのです。

 取って食べることを禁じられていた善悪の知識の木の実を取って食べたため、

 命と知識とが、分裂した、

 互いに密に連絡し合えない状態におちいってしまったのです。

 命と知識とが調和のとれた統一した存在ではなく、

 二つの異なった要素の片方に偏った存在になってしまったのです。

 ”ひとつの個性しか持たない ”と思えてしまう状態になってしまったと言えるでしょうか。

 私たちは、自分自身を、ひとつの個性をもった一人の人間だと思っています。

 それがパーソナリティーだと。

 しかし、神に背いたことにより失ってしまった、

 いや、機能しなくなっている性質があるのです。

 それが私たち人間の置かれている状態なのです。

 キリストへの信仰を持ち得たということは、

 命と知識との統一を得たということです。

 知識と、神に背いたことにより離反していた命という、

 もう一つの個性と統一した個性となったのです。

 ひとつの心を持った、命と知識とが調和のとれた統一された存在となるのです。

 善悪の判断ということは、

 言いかえれば、

 変化にたいして正確な判断を得て柔軟に対応できることを意味しています。

 心の平安とは、

 道を踏み外さず具体的に行動できることですから、

 現代的に言えば、

 セルフ・コントロールとハード・ワークの両立ということでしようか。

 聖書的に言えば、何事にも信仰を働かせることです。

 生きることの難しさが、

 キリストへの信仰によって、

 キリストに聞き従う信仰によって、

 難しくなくなったのです。

 生きることが難しいとき、

 それは、怒りや悲しみや不平や不安や痛みといった、

 否定的な、マイナス的な、

 自我が一人歩きしている、

 内なる安らぎなどひと時もない状態と言えるでしょうか。

 悔い改めのない心とは、

 強烈に自我を主張することですから。


 「 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、

 その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。

 あなたは、かたくなで心を改めようとせず、

 神の怒りを自分のために蓄えています。

 この怒りは、

 神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。

 神はおのおのの行いに従ってお報いになります。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・2章4〜5節・ 新共同訳聖書)


 今までの自分の生き方や考え方などを反省し悔い改め、

 つまり、自分は”誰れなのか”を知ることです。

 神によって創造された一人の人間なのだと。

 イエス・キリストに聞き従う生き方に方向転換したことは、

 神の前で正しい者と認められることを意味しています。

 神の前で正しい者は、

 神の裁きの時、

 つまり、天国行きの切符を手にしたということです。

 永遠の命を得たということなのです。

 信仰を得たということは、

 ゴールではなく、あくまで出発点に立ったということです。

 神が人間を神の姿に似せて創造されたとき、

 エデンの園の中央には、

 命の木と善悪の知識の木という二本の木が立っていたことを忘れないでください。

 信仰を得たということは、

 本来の創造の姿に立ち帰ったことを意味していますから、

 新しく生まれ変わったと言っていいでしょう。


北白川 スー

関連記事・「イエス・キリストの十字架」

表紙にもどります。

アーカイブスへ。


http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
Wrote up on 28 June, 2012.