キリスト教の信仰において根底に存在する基本的な考え方として


 人間の日常の営み、暮らしそのものに影響を与え深くかかわっているもの、

 どの国であれ、どの共同社会であれ、

 そこに存在する精神性とでも言うべきものとして、

 それは信仰です。

 言葉や肌の色の違いによって異なってくるのかもしれません。

 土着信仰・民俗信仰・神道・仏教・イスラム・キリスト・・・・。

 キリスト教の、その信仰の根底に存在する基本的な考え方を考えてみますと、

 それが土台となってすべての物事の成り立ちにかかわりを持つものとして、

 クリスチャンが、常に認識し考えなければならない事柄・・・・。

 キリスト教そのものを成り立たせ、

 キリスト教の信仰すら生まれさせたもの。

 それは、

 すべての人間に共通した本性的な性質について、

 生まれながらに持っている性質について、

 その性質との関係において、

 イエス・キリストの十字架の出来事の内容と意味とが、

 すべての物事について、その根底に存在する基本的な考え方として無くてはならないものとして存在しているのです。

 仮にも、クリスチャンの、その人の信仰の中身から、

 イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざ(あがないのわざ)という出来事の内容と意味との解き明かしが、

 共に抜け落ちているとすれば・・・・。

 それは、信仰に信仰しているとしか言いようがありません。

 だから、信仰は、人を盲目にすると言われかねないのです。

 イエス・キリストは、まぎれもなくメシア・救い主です。

 では何からの救いなのでしょうか。

 経済苦からですか、金銭的な困難からですか、

 病気の痛みや苦しみからですか、

 人間関係の不和からですか・・・・、

 対立からですか。

 では、何から私たちは贖われなければならないのでしょうか。

 イエス・キリストは、私たちに代わって、

 私たちの何の罪のために命をささげてくださったのでしょうか。

 昨日犯した交通違反ですか、

 夫婦喧嘩のことですか。

 ギャンブルですか、アルコールですか。

 私たちが、ときどき過ちを犯すから罪深いのですか。

 聖書・バイブルが示しているのは、

 私たちが、常に罪深いから、ときどき罪を犯すのだと・・・。

 私たち自身の中にある、

 生まれたときから、最初からあるものを言っているのです。

 私たちの思いや、言葉や、行為や行動となって表にあらわれてくるもの・・・。

 私たちのあらゆる行為の源(みなもと)、

 原因のことを言っているのです。


 「 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、・・・・」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章23節・口語訳聖書)


 キリスト教の信仰とはなんでしょうか。

 奉仕ですか、ボランティアですか。

 聖書・バイブルが指し示しているのは、

 私たちは、この世界の中で生きていくためには、

 神の力にすがるしか方法はないのだと・・・・。

 人間の知恵や力や行いによってでは、

 心を入れ替えることはできないのだと。


 「 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。

 だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・7章24節・口語訳聖書)


 私はクリスチャンですと言う人があるとすれば、

 つまり、私はキリストに属していると言うならば、

 それは、キリストの十字架の死によって贖われたということです。

 では、そのキリストの十字架の死による贖いのわざという出来事を、

 その内容と意味とを自分の口で言い表すことができますか・・・・・。

 言い表すことができるなら、

 それが信仰を支えているということなのです。


 「 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章10節・新共同訳聖書)


 クリスチャンの生活の中で、

 ”世の楽しみ”とは正反対なことこそが、

 ”世の習い”とは正反対のことこそが、

 この世の欲望にとらわれているのではなく、

 魂の喜びを知っている生活こそ、

 キリスト者としての創造的で建設的な暮らしなのです。

 では、日本のキリスト教の事情はどうなのでしょうか。

 日本のクリスチャンの事情はどうなのでしょうか。

 多くの場合、初めて教会にやって来た人の思いは、

 自分の生き方にたいしてプライドが高く、

 自分の行いはすべて正しいと信じて疑わず、

 自分の思う通りにならないから、

 自分の生き方にたいして肯定的な評価や言葉を求めて、

 それを教会に期待して・・・・・。

 自分自身の本性的な性質なんて・・・・、

 そんなこと知らない、私には関係ない・・・・という姿勢で。

 教会は、自分の存在に評価を与えるところだと・・・・。

 それでは、いつまで経っても救いは得られません。

 この世界を創造された神は、

 自分はすべて正しいと信じて疑わない人間を、

 もっとも嫌われるのです。

 神が人を求められているのであって、

 私たちが神を探すのではありません。

 それも自分の思い描く神を・・・・。


北白川 スー

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Wrote up on 22 June 2011.