0 隣人愛


隣人愛



”隣人愛 ”クリスチャンでなくても世間ではよく知られた言葉です。
あなたのとなり人を愛しなさいと。
人は、互いに愛し合いなさいと。
なんとも品性の美しい言葉です。
しかし実際に行なうとなれば、むずかしいものです。

多くの人は、自分の義を主張し合い、
自分の思う通りに事は運ぶものだと、
自分の考え方ややり方は正しいと、
それが食い違いを生み出し、
人間関係の摩擦やきしみの原因となっていることに気付いていない。

自分が正しいと思えばこそ、不安や苦しみは増し加わるのです。

自分が正しいと思っている人には、
相手の考えや立場などを認め受け入れることなど出来はしない。

そのような人に隣人愛を説くとなると、
火に油を注ぐことになりかねない。

「あなたがたに新しい掟を与える。
互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、
あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

(新約聖書・ヨハネによる福音書・13章34節・新共同訳聖書)

イエスは言われた。
私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛しなさい。
これが隣人愛の語源ですが、
単に、互いに愛し合うことをすすめられただけではない。
この言葉には伏線があるのです。
イエスは前もって言われている。
・・私があなた方を愛したように・・と言われた。
これは、イエスの十字架の出来事、
ひとりの人がすべての人のために死んだと言う出来事を現わしています。
つまり福音なのです。

キリスト・イエスが、すべての人が負っている神への罪を、
その身に負い、十字架に死なれたという出来事です。

私たちは、等しくイエスからの距離は同じなのです。
人は、すべて横並びなのです。
イエスの言葉にたいしては、
人には、上下関係や地位や立場の違いなどありません。

このキリストの福音であるところの、ひとりの人がすべての人のために死んだという、
キリストの十字架の死による贖罪という出来事が、広く説かれ解き明かされるなら、
隣人愛の意味も受け取り方も違ってくるでしょう。

すべての人は罪深いのだから、お互いに・・・、

・・罪を犯した者は、つぐなわなければならない・・

キリストの福音は、だれひとりの例外もなく、
すべての人は罪深い性質を負っていることを明らかにしている。

「次のように書いてあるとおりです。
・・正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
善を行う者はいない。
ただの一人もいない。・・」

(新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章10〜12節・新共同訳聖書)

家庭や職場や学園や地域社会における人間関係などで、
悩まされ、苦しめられ、傷つき、悲しみの中にある人に向けて、

ただ単にその人をなぐさめ、はげますだけでは、
その人の考えややり方に肯定的な言葉を与えるだけでは、
何の解決にも、救いにもならない。

福音が説かれ解き明かされていれば、
福音とは無関係に見える物事が、
すべて福音によって説明できること、
何ひとつとして説明できない問題はないことが明らかとなるのです。

しかし、クリスチャンであっても、
そのように考えることに抵抗を持っている人は多い。

福音は、すべての人は罪人だと説くわけですから、
自分には理があると、自分は正しいと思っている人には、
福音は受け入れがたいものなのです。

福音とは、
決して、その人の考え方ややり方が正しいと認めるものではない。
それが決して救いではない。


北白川 スー

関連記事・「こころの風景」

表紙にもどります。

アーカイブスへ。


http://web.kyoto-inet.or.jp/people/s-ktsrkw/
Wrote up on July 08, 2014.