福音は、律法とは別に、律法の外にある



そうしなければならない・・・とか、
そうあるべきだ・・・・とか。
そのようにすることが本筋であるかのように・・・、
そこから外れることを許さないかのように、

何か基準になるようなものがあって、
そこから離れないことが、
それが正しいと、
期待される理想の状態を保つことになる思い込んでいる。

何事においても、
昔から行なわれている様式として、
皆がそうだから従わなければならないと、
習慣とか風潮とか習俗として、
固定観念化されているのが日本の現状です。

さまざまな組織や共同体や社会の中にも根付いています。
それが共同体の秩序を維持する方法だと。
個人の利益を守る方法だと。

クリスチャンであっても例外ではありません。
何かと行ないに走りがちなのです。
そうしなければならないかのように。

しかし聖書・バイブルは次のように語っています。

「なぜなら、律法を実行することによっては、
だれ一人神の前で義とされないからです。
律法によっては、
罪の自覚しか生じないのです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章20節・新共同訳聖書)

そうあるべきだとかたく信じているのは、
それに反することを許さないと思っているからです。
そうあるべきだと、
認めさせようと押し通そうするなら、
そこにあるのは混乱だけなのです。

罪を罪と思わないものこそ罪の意識なのです。
それが罪だとは気付いてはいません。

行ないによってでは救いを得ることはできないと聖書は明確に語っているのです。

律法によってでは救いには至らないのです。

「なぜなら、わたしたちは、
人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、
信仰によると考えるからです。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章28節・新共同訳聖書)

「しかし、今は、律法とは別に、
しかも律法と預言者によってあかしされて、
神の義が示されました。」

 (新約聖書・ローマの信徒への手紙・3章21節・新改訳聖書)

律法と預言者によって証しされた神の義とは、
ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事、
イエス・キリストの十字架の死による贖いのわざという出来事の他のなにものでもありません。

律法の協力なしに、
律法とは別に、
律法の外に福音が明らかにされたのです。

今まで隠されていたものが、
カバーが外されたという意味ではなく。
最初から明らかにされ、最初から存在していたのです。
ただ、私たちの目が閉じていただけなのです。

しかし、私たちは大きな不安に落されます。
そうしなければならないと思っていたものが、
そうではなく、
言いかえれば、
形式や行為や行動に走っていたことを止めろと聖書は語っているのです。

そうあるべきだ思っていたものが、
そうではないと・・・・・。
そうしなければならないと思っていたのですが、
それこそ、罪がなせるわざなのです。

聖書・バイブルは、
律法の外にこそ福音があるのだと明確に語るのです。

何ごとも事を広げるのではなく、
原点に戻ることを要求しているのです。
立ち止まって、
神の聞き従えと・・・・・。
神の言葉に耳を傾けよと・・・・。

何と難しい方向転換でしょうか。
180度の方向転換を求められているのです。

しかし、そこにこそ解放が待っているのです。
何事にも縛られず囚われない解放が。
神と共にある生が・・・・・。


北白川 スー

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Wrote up on February 14, 2013.