胸元を飾るクロス
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キリスト教とは、どのような宗教なのかと問われれば、
それは、
そもそもイエス・キリストの十字架の出来事がすべてなのだと言いきることができるでしょう。
つまり、
神のひとり子イエス・キリストの死と葬りと復活という出来事。
すなわち、ひとりの人がすべての人のために死んだという出来事をです。
しかし、
クリスチャンすべてが、そのように答えるとはかぎらないかもしれません。
イエス・キリストの十字架の出来事の内容と意味とを、
正確に、詳しく解き明かすことができるとは限らないからです。
この日本においては、
誰もが知っている事柄ではありません。
あまりにも知られていないのがイエス・キリストの十字架の出来事なのです。
イエス・キリストが罪人として十字架にかけられ処刑され、
葬られ、三日目に死人のうちからよみがえったという出来事です。
キリストの生と死と復活という出来事です。
すなわち神の啓示の出来事なのです。
よく見なれた風景、女性の胸元を飾るクロス・十字架でさえ、
それがイエス・キリストの十字架の出来事に由来するものなのだと、
知っている人は、どれほどおられることでしょうか。
若者たちに人気のゴスペルと言われる音楽も、
実はイエス・キリストの出来事に深くかかわっているもの、
いや、そのものなのだということを。
どれだけの人たちが知っているでしょうか。
日本人は、「霊」や「占い」など、
超自然的なものにあこがれに近い恐れや興味をもっています。
しかし、こと宗教的なこととなれば拒否反応を示すのではないでしょうか。
うさん臭ささえ覚えているはずです。
しかし、イエス・キリストの十字架の出来事は、
超自然的な出来事ではなく、人間が理解できる具体的な出来事なのです。
まさしく人間の「救い」という問題の出来事なのです。
”” 救われなければ癒しもありません。””
「それから、イエスはペテロの家にはいって行かれ、
そのしゅうとめが熱病で、床についているのをごらんなになった。
そこで、その手にさわられると、熱が引いた。
そして女は起きあがってイエスをもてなした。
夕暮れになると、
人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとにつれてきたので、
イエスはみ言葉をもって霊どもを追い出し、
病人をことごとくおいやしになった。
これは、預言者イザヤによって『彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、
わたしたちの病を負うた』と言われた言葉が成就するためである。」
(新約聖書・マタイによる福音書・8章17節・口語訳聖書)
(旧約聖書・イザヤ書・53章4節・参照)
「するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、
イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。
み衣にさわりさえすれば、
なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。
イエスは振り向いて、この女を見て言われた、
『娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。』
するとこの女はその時に、いやされた。」
(新約聖書・マタイによる福音書・9章20〜22節・口語訳聖書)
イエス・キリストの奇跡としてよく知られた話しです。
このような奇跡は、聖書時代だけの話しではなく、
現代の教会でも、イエス・キリストを信じる者には、
病からのいやしはおきます。
さらには、霊的な囚らわれからの解きはなちもおきています。
「口でイエスは主であると公に言い表し、
心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、
あなたは救われるからです。
実に、人は心で信じて義とされ、
口で公に言い表して救われるのです。」
(新約聖書・ローマの信徒への手紙・10章9〜10節・新共同訳聖書)
私たちの本性的な性質にたいする、
私たちすべての人間が、生まれながらに負っている、
創造主なる神にたいする負債を原因とする、
神の怒りの裁きを、
私たちに代わって、その身に負ってくださった出来事こそが、
イエス・キリストが十字架の上で死に渡された出来事そのものなのです。
神の怒りの裁きからの救いこそ、
わたしたちのわずらいや病から解き放つものなのです。
私たちの身代わりとなった、
イエス・キリストを信じる信仰によって、
イエス・キリストを自分の主として受け入れることによって。
病からいやされ、霊的なとらわれから解きはなたれるのです。
このイエス・キリストの知られざる一面を、
霊的なことを信じている方なら興味を持たれることでしょう。
当時は医療も整っておらず、
悪霊に取り付かれることによって病気は起きると考えられていたのだと片づけるのもいいでしょう。
聖書で語られた奇跡など実際には起きなかったと見るのもいいでしょう。
奇跡そのものに疑問を持ち、
それを根拠に聖書そのものを否定するのもいいでしょう。
しかし、それは本質的なことではないのです。
イエス自身が語っています。
「だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、
すなわち、この者だけが、父を見たのです。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。
信じる者は永遠のいのちを持ちます。」
(新約聖書・ヨハネによる福音書・6章46〜47節・新改訳聖書)
ファッションにもなり、ふだんよく見かける十字架の風景ですが、
十字架があらわす本質的なこと、本来的なことを、
イエス・キリストの十字架の出来事こそが、
すべての人間の救いについて明らかにされたものなのだとは・・・、
知らされないままの日本なのかもしれません。
救いなくして癒しも起きないことを知らなければなりません。
いやしだけが独立したものではないからです。
北白川 スー
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Wrote up on August 09, 2016.