日本人の宗教心とクリスチャン



日本という社会に暮らす私たちの人生の節目ふしめには、
多くのまつり事が待ちかまえています。

子どもを授かれば安産祈願に始まり、誕生となれば宮まいりへ・・。
成人式、人生の大きな節目である結婚式に披露宴へと・・・、

商売にかかわることであったり、住まいを建てたり直したりするときも同じです。
暮らしを支える大切な柱とも言えるもので、
生きて行くうえで最も影響を与えるものとして。
人生において、
もっとも大切にしなければならないとものとして認識されるものだからです。

長かった人生は死で終わりますが、
葬儀式の後にも、週ごとに、四季おりおりに、
また年ごとに法事が待ちかまえています。
まつり事に熱心なのと宗教心とは別ものなのかもしれませんが、
宗教心が際だっているわけではないにしても、
人の死後にいたるまで深くかかわるまつり事に、とても熱心な国民性なのです。

生活に根差した、
日本人の深い生活の知恵として信仰が形作られてきたと言えます。
共同体の秩序を維持する、共同体の平和を保つための大切な知恵だったのでしょう。

イスラムやキリスト教の人たちは、
この世界は「絶対的な神」が治めているという大きな広がりの中で、
共同社会を考え、経済を考え、人間関係を考え、暮らしを考えます。

ところが日本では、まず「家」のことから始まります。
「家」という単位を基本とした、
血縁関係を強く意識した共同生活を送っているという強い意識があります。
結婚の披露であれ、葬儀あれ、法事であれ、みなそうなのです。

言いかえれば、人々は ”まつり事によってつながれているという信仰によって ”結ばれているのです。
人と人との、家と家との横のつながりを強く意識した、
・・「まつり事に熱心」・・という信仰によって支えられているわけです。

私たちが、この日本で生きていくための、お互いの信用とか信頼とか結束とか絆とか言われるものを、
まつり事を通して確認しあっていると言えなくはないでしょう。

そうだとは気づいていないかもしれませんが、
暮らしのすみずみまで、まつり事にとても熱心な、
宗教的?な日本人の姿なのです。

新年会や忘年会や町内会などの寄り合いで酒を酌み交わす・・・・、
それらは、寺や氏神というものに直接つながっているわけではありませんが、
これもまた信仰によって結ばれていると言っていいのです。

キリスト教では、毎日曜日ごとに教会に集まり、神をたたえ、あがめ、礼拝します。

7日ごとにめぐってくる日曜日に教会に出かけて行く、
雨であろうが雪であろうが嵐であろうが、これは大変なことです。
決して、節目節目にあわせる顔と顔とによってお互いを確認し合うというようなものではありません。

日本におけるキリスト教の現状に目を転じてみれば、
布教の歴史は古く、長い年月を経ているにもかかわらず、
クリスチャンの数は、全人口に比べて1パーセントと言われています。
1億2千万人の内のわずか120万人ということになります。
歴史あるキリスト教が、この日本の社会に広まらない理由というものは、
布教を妨げている原因はいったい何でしょうか。

人と人との横のつながりや血縁関係に重きを置いている民俗意識にあるのではないかとさえ思わされるのです。

では、私たちが印象として持っているキリスト教のイメージはどのようなものでしょうか。

冠婚葬祭や酒の席での、クリスチャンの付き合いの悪さにあらわされています。
クリスチャンは言います、・・まつり事は偶像崇拝だから避けるべきだ・・・と。

クリスチャンにだって、”宗教的なまつり事によってつながれる ”ことへの苦しみや抵抗があるのです。

その姿は、宗教的に熱心なお付きあいにたいする、
葬儀や法事などへの態度や対処の仕方にあらわれています。
日本の多くの行事の裏には、寺や神社や民族信仰に裏打ちされた習慣があるからです。

祭りごとへの、クリスチャンの姿勢や態度だけを見せつけられたのでは、
多くがノンクリスチャンである日本の人たちとって、
・・・・キリスト教の信仰を支えている根本的で原理的な存在であるところの・・・・・。
クリスチャンとイエス・キリストの十字架の出来事とは結びつかないでしょう。
決して、クリスチャンと、
イエス・キリストの十字架の出来事というイメージと重ね合わされたものではありません。

日本のクリスチャンの日常の態度や姿が、
キリスト教そのものとでも言えるイエス・キリストの十字架の出来事をあらわしているとは言い難いのです。

もしも、日本のキリスト教に、
日本人の宗教的な熱心さや、まつり事への熱心さに負けないほどの、
多を圧するかのようなものがあれば・・・。
心を支配するかのようなものがあれば。

そうです。
イエス・キリストの十字架の出来事の輝きが、十字架の言葉が響いていれば、
クリスチャンの生きざまに、ひかり輝いているならば・・・。
クリスチャンの言葉や立ち居振る舞いを見て、
キリスト教と言えば、まず”イエス・キリストの十字架の出来事 ”というふうに結びつくはずなのです。

イエス・キリストへの信仰というものが、
もし仮にも、十字架の出来事の証しを通さずに、
もし仮にも、十字架の出来事が語られないままに。
そのようにして、日本人の暮らしの中に入って来るとすれば、
日本人にとってキリスト・イエスの十字架の出来事というものは、
存在しないのと同じなのです。

もしそうだとしたら”まつり事によってつながれる ”ことへの苦しみしか残らないのです。
もしそうならば、”救われた者 ”にとって何が意味をなすのでしょうか。

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、
わたしたち救われる者には神の力です。」

(新約聖書・コリント人への第1の手紙・1章18節・新共同訳)


北白川 スー

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Wrote up on September 30, 2015.