一枚の絵から
銀座にある画廊を見て廻るという仕事があった。私には何かの成算があったのではない。また、そのなかの二、三の展覧会に関心があったわけではなかった。ただ闇雲に見て廻って美術雑誌に報告文を書くという仕事だった。
銀座には百六十軒の画廊があると言われている。その全部を見なければいけないというのではなかった。半分も廻ることができれば上等だったと思っていた。私に与えられた日数は二日間だった。
第一日目は、午後から三十軒ばかりを廻った。主に、晴海通りの北側、京橋寄りの画廊を訪れた。銀座一丁目、二丁目、三丁目、それに四丁目の一部ということになる。これは、晴海通りの南側、つまり、四丁目から八丁目にある画廊とは趣が変わっていた。北側は、前衛的、実験的ということになろうか。若い無名の人達の展覧会が多い。会場は、古くて小さくて汚いものが多いと言ったら叱られるだろうか。また、絵画ブームに便乗して、空いている一室を画廊にしたという感じの店もあった。
六月の初めで、雨催いの暑い日だった。股は脹れて固くなり、肩で息をする感じになった。足の裏は、靴底の皮をいやに固いものに感じていた。運動靴に履きかえ、上衣をどこかに預ければいいのだけれど、著名な画家や彫刻家の展覧会も開かれているので、そういうわけにもいかない。
エレベーターがなくて、細い急な階段をあがった四階にあるという画廊もあった。疲れてしまって椅子に腰をおろしていると、お茶やコーヒーを淹れてくれる店もあった。私は絵を見ているふりをしていた。疲れたのは、画廊を探して歩き廻ったり、階段を駆け上ったりしたためだけではなかった。それぞれの作品が、自分を主張し、私に語りかけてくるからだった。それは、かなり生臭い感じのものだった。どれもが、愛してください、理解してくださいと叫んでいるように思われた。ハッタリの強いものも、拗ねているものも、そっぽを向いているものも、本心はそれだと思われた。
会場にいる若い画家は、私をちらっと見て、お前なんかにわかるわけがないという顔をして、すぐに背をむけた。しかし、その背筋に全神経が集中していて、私を有名にしてくださいと訴えていることがわかった。彼は、本当は怯えているのだった。彼は祈っていた。これが私の内なる世界です。どうか理解者になってください……。それは決して悪いことではない。私は悪いと思っているのではなかった。ただ、そのことは、私を疲れさせた。私の神経は、展覧会場を廻るごとに、だんだんに、いっそう疲れていった。私の感想を、一言に約(つづ)めて言うならば、世の中にはいろいろな人がいるなあということになるだろうか。
おい、きみ、もう止(よ)せよ、とは私は言わない。どんな人の、どんな才能が、どんなことで開花するかわからないということを、長い間のことで知っているからだった。ただし、それは、千人に一人、一万人に一人のことになる。
第一日目の仕事を五時半で打ちきった。ひとつには雨が降りだしたからだった。私は酒場へ向かった。食欲がなかった。
ホテルで目がさめた。八時になっていた。それでも六時間は眠ったことになる。私は、ベッドの上でじっとしていた。十時にならなければ画廊は開かないだろう。いや、十一時かもしれない。今日は五十軒は廻らなければならない。テレビの天気予報は、夕刻から晴れると報じていた。
今日は、南側を廻ることになる。銀座の旧電通通り、並木通りには有名画廊が多い。号何百万円で売買される大家の絵をならべている店がある。それもまた、別の意味で生臭い世界だった。画商が結託すれば、一人の画家の絵の値段を釣りあげることができる。フランスで勉強して有名になった大家の絵の展覧会がフランスで開かれることはない。高すぎても売れないからである。安くすれば売れる。しかし、そうすると、フランスで勝って日本で売る画商があらわれるということになってくる。なぜ日本の大家の絵が高価であるかというと、贈答品や財産隠しに使われるからである。そんなことを考えると、旧電通通りや並木通りの画廊を歩くのも鬱陶しくなってくる。
ロビーでコーヒーを飲んで、十一時になるのを待ってホテルを出た。すぐに汗ばんでくる。
私は、その日に廻る順序を、だいたいのことろで決めてあった。最初は、銀座五丁目のギャラリー・ユニバースである。五丁目と言うより歌舞伎座の前と言ったほうがわかりがいい。現代彫刻の紹介で知られている店である。
時刻が早いせいか、二階の広い会場には客が一人もいなかった。天井が高いこともあって、余計に閑散とした感じになっていた。外国の作家らしい作品が十五、六点ばかりなんでいた。
私は、すでにして、疲労していた。飲みすぎたのがいけなかったのだろうし、陽気のせいであるかもしれない。私は、中央にあるソファーに腰をおろした。五十軒も歩かなくてはいけないということが頭に重く伸(の)しかかっていた。
しかし、私は、容易に腰をあげることができなかった。会場には物音がしない。それは、単に音が扉で遮断されているだけではなくて、ならべられている絵が室内の音を掻き消しているかのように思われた。
私が動けないでいるのは、疲れているためだけではなかった。絵が私に語りかけていた。いや、静かに話しかけてくるように思われた。描かれている人物が私を凝視し、いまにも挨拶をするのではないかと思われた。奇妙に懐かしい感じのする絵だった。その人物は、すべて中年の男女であって、実際に、直立して正面を見ていた。
ウイスキイは、もとは胃の薬であり、鎮静剤の役割を果たした。一定量までを飲むならばという話しになるが……。私は、きわめて上等なウイスキイを、少しずつ舐めているような気分になっていた。私は、疲労が薄れてゆき、神経が柔らかく解(ほぐ)れてゆくのを感じていた。そのなかに、いくらかの昂揚もあった。
若い女性が、お茶を持ってきてくれた。そのあとで、初老の紳士が、ゆっくりと歩いてきた。彼は名刺を差しだした。村上政之と印刷されている。
「ボッカッチじゃありませんか」
と、私は言った。
「そうです。マルチェッロ・ボッカッチです。お好きですか」
「私の一番好きな画家です」
「それはよかった。実は、この展覧会はもうおわっていまして、これから片づけるところだったんです」
画廊の外にも、会場にも、マルチェッロ・ボッカッチ油絵展の標示の出ていないわけがそれでわかった。
「有難いなあ。……とても有難い。ボッカッチの絵を見たいと思っていたんです。……この十二、三年の間……」
「………」
「実は、私、ボッカッチの絵を持っているんです。一点だけですが」
私は外国人の画家の絵は、ボッカッチのそれ一枚だけしか持っていない。また、ボッカッチの他の絵を見たことがない。だから、一番好きな画家ですと言ってしまったのは少しおかしいのである。
私は、立ち上がって、一枚ずつ、ゆっくりと見て廻って、もとの席にもどった。
「ちょっと変ですね。ボッカッチは花の絵しかなかったはずですが」
「このごろ、少し変わったんです。人物を描くようになりました。それから、林の絵も描きます。その林のなかに、よく見ると、鳥がいます。また、木の下に狩人が鉄砲を持って立っているのがあります。あるいは、林の向うにトラックが走っていたりします」
また、二人で見て廻った。
「ボッカッチは変わったんです。色調が全体に暗くなったんです。あなたのお持ちの絵は何年頃のものですか」
「十二、三年ぐらい前のものです」
「その頃の絵が一番よかったんです」
「何と言うのか、もっと力強い感じがしますね。私のところにある絵はケシの花の絵ですが、壺の影が描いてあります」
「そうそう、そう……」
「しかし、私は、この会場にある絵もすきですね、シーンとするような」
「そうです。いま、ボッカッチは、大蒜(ニンニク)に凝っていましてね」
大蒜が白い。卵が白い。林檎さえも白いのである。
昭和四十二年のことだったと思う。私が退職した会社の秘書課の人から電話があった。社長が新築祝いに贈りものをしたいと言っているので、閑なときに取りにきてほいしといういことだった。私はその年に初めて家を建てた。
数日後に、私は秘書課を訪ねた。社長は不在だった。
秘書課の女性が五点の絵を運んできて、ソファーに立てかけた。
「このなかから、ひとつを選んでくださいと社長が申しております」
五点のうち四点がビュフェの絵だった。サインに特徴があるが、サインを見なくてもすぐにわかった。四点のうち三点が風景で、一点が人物だった。十号ほどの大きさだったと思う。
その頃、天才画家としてのビュフェの日本における人気は絶頂期にあったのではなかろうか。銀座の高級フランス料理店、高級酒場へ行くと、必ずと言っていいくらいにビュフェの絵があった。有名な西洋家具店にもそれがあった。多くは風景画であって、強い縦の線が印象的であり、スピード感があった。
私は興奮をおさえることが出来なかった。一新築の客間にビュフェの絵が掲げられる。誰でもそれはビュフェだと一目でわかる。
なかでも、ピエロだと思われる横向きの人物画には圧倒的な力強さがあった。線も強く色も強い。風景ではなく、人物というのが面白いじゃないか。
しかし、私は、こうも思った。
「この絵は強すぎるのではあるまいか。これは展覧会用の絵ではあるまいか。あるいは、フランス料理店の壁に合うような絵なのではなかろうか。初めはよくても、だんだんに飽きてくるのではなかろうか。画家の主張がうるさくなってくるのではあるまいか」
また、いまよりもずっと若かった私は、こうも考えた。
「何様でもあるまいし、へっ、客間にビュフェの絵だって?そいつは成金趣味ではあるまいか。厭らしいじゃないか」
私はビュフェを貶(けな)すつもりは少しもない。最初にビュフェを見たときの感動を忘れてはいない。
五点のうち四点がビュフェであり、残りの一点は知らない画家の絵だった。それは白いケシの花と薄茶色の菊の絵だった。その花はブルーの円筒形の壺に活けられていた。バックは灰色で、床は焦茶色だった。
強さとかスピードとか、ある種の主張とは無関係の絵だった。その絵には物音がなかった。見たことのない奇妙な絵だったと言っても言いかもしれない。
私は主にビュフェの絵を見ていて、そのなかから選ぶつもりだったが、片方の眼が、いつでも、その三号にも満たない、見栄えのしない小さな絵を把えていた。その絵は、無言で私に何かを話しかけていた。
結局、私は、その、知らない画家の小さな絵を貰うことにした。五分間ぐらい考えていたことになるだろうか。私に他意も邪心もなく、その絵に惹かれただけのことであるが、ちょっと俺は依怙地(いこじ)かなあとも思った。
「何かのことで金が入用になったとき、ビュフェならすぐに換金できるのに……」
私は、秘書課の女性に、これをいただきますと言って、端にある小さい絵を指した。彼女は、笑って、こう言った。
「それ、社長が一番気にいっている絵なんです」
家に持って帰ると、箱のなかに一枚の説明書が入っていて、それによると、作者は、イタリアのマルチェッロ・ボッカッチという画家であり、聾唖者であるという。そうして、花の絵しか描かないと書かれてあった。その説明書を私は紛失してしまった。
ボッカッチの絵は、いつでも客間に掲げてあるのだけれど、いままで、その絵に感動したのは、彫刻家のS先生だけである。
「これは素晴らしい絵です。この絵のわからない人は駄目な芸術家です」
私は、村上さんに、その話をした。
「ビュフェだって、いいものはいいです」
「ええ。私もそう思います。しかし、客間の壁に掛けるとなると……」
「……」
「いや、私は、だんだんにボッカッチが好きになったんです。あれを選んでよかったと思っています。だから、ずっと、他の絵を見たいと思っていたんです」
「日本ではフランスの画家のほうが人気がありましてね。イタリアは、どうも……」
ボッカチの絵はルソーに似ているところがる。そう言うと、全然違うと言う人があらわれるにちがいないのだけれど、少くとも草花の花や葉の執拗なまでの描きこみ方は共通していると思われる。それに、物音がしない。トラックも馬車も、走っていても音が聞こえてこない。
人物は、正面で、中央に描かれる。男は自画像であり、女は夫人なのではあるまいか。いつでも大きく目を開き、唇を固く結んでる。下塗りはダーク・ブルーである。暗くなったというのはそのためではるまいか。
たとえば林の絵で、前方に四本の大きな樹があったとする。そうすると、四本の木は、画面を四等分する形で立っている。こういう絵を描くと、絵の先生には叱られる。人物も花も壺も、大蒜の入った鉢も、必ず中央にある。それに、ほとんど遠近感がない。
村上さんが図録をくださった。そのなかで、彼は次のように書いている。
ボッカッチさんは四年前に、生まれ育ったフィレンツェの市街から車で小一時間ほど山には入った田舎に移ってしましました。静かで心が休まるからそうです。深い谷を越えてなだらかな丘陵が続く南斜面の陽だまりに、小さな石積みのアトリエと母屋、ニワトリ、アヒル、キジ小屋、谷にそって葡萄園がつくられ、四季の花が咲きほこります。画家の安らぎの城郭なのです。
私が初めてその作品を前にしたとき一瞬、真空の中に身を落としてしまったような不思議な感覚におそわれたことを十五年も過ぎた今でもはっきりとおぼえています。幼年の頃に事故で聴覚を失い、音の消えた世界にボッカッチさんの心象の花々は咲いたのです。
これまでは日本に紹介された作品のほとんどが花ですが、ボッカッチさんは人物・静物も生涯のテーマとして手がけています。花も木も静物も恋人たちも、皆この画家の精神の城に住む、愛するファミリーなのです。今回の個展がボッカッチさんの仕事の輪郭なりともお伝えすることが出来ましたならば望外の喜びです。
私は、ずっとギャラリー・ユニバースの椅子に坐っていたかったのだけれど、そういうわけにはいかなかった。なにしろ、五十軒の画廊を廻らなければならない。それに、ボッカッチの絵は、間もなく片づけられてしますのである。
私は、この偶然を喜んだ。その仕事を引き受けてよかったと思った。ただひとつ困ったことには、どの画廊へ行っても、どんな大家の絵を見ても、ボッカッチの絵が頭から去っていないことだった。
汗水たらして、息せききってという具合に画廊を駆けめぐった。それが最後と決めてあった画廊の一階上にもう一軒の店があることがわかったが、私の足は、もう動かなかった。
数日後に、私は、自分が、もう一枚の有名画家の絵を持っていることを思い出した。それは三岸節子の絵である。その絵は、ずっと額縁屋へ行ったままになっているので、すっかり忘れてしまっていた。
その絵が私のところに来るようになった経緯(いきさつ)について書いてみる。
昭和二十一年の秋から、目白の日本女子大学の正門の前にあった出版社に勤めることになった。私は十九歳だった。
会社から目白駅にむかって、三、四百メートルばかり歩いたところの左側に、Tというオデン屋があった。目白通りに面している小さな店だった。いま目白通りは若者に人気があるそうであるが、当時は人家も疎らで空地があり、店屋は数えるほどしかなかった。飲食店はTだけだったかもしれない。
Tの開店は私が就職した翌年の昭和二十二年であったかどうか、それもよく憶えていない。たぶん、その頃だったと思う。
私が、もっともよくTに通ったのは、昭和二十四年の五月からの一年間である。なぜならば、二十四年の五月に結婚して、会社の近くの洋服屋の二階に住むようになったからである。
Tは、女主人が一人で経営していた。私は、その人のことをおばさんと呼んでいたので、ここでもおばさんと書くことにする。
私が初めてTへ行ったとき、おばさんは三十歳ぐらいだったのではなかろうか。あるいは、三十代の初めだろうか。小柄で痩せていて、色の浅黒い美人だった。目の美しいひとだった。優しい目なのであるが、時には鋭く光るようなことがあった。どこなに江戸っ児ふうのところがあった。歯切れがいいという感じがあった。しかし、およそ商売人としては無愛想と思われるくらいに極端に無口な人だった。私は、飲みに行って、一言も口をきかないで帰ってきたことが何度かあった。怖いくらいに思われることがあった。それでもずっと繁昌を続けたのだから、おばさんの優しさが客に通じていたのだろう。無愛想ではあるが、体から優しさがにじみでてくるという感じの人だった。それに、何よりも、一種の清潔感が快かった。むろん、繁昌したのはオデンの味に親身なものが感じられたことと、安直な店であったためであるけれど。
私は三日に一度ぐらいの割でTへ通った。本当を言うと、それぐらいしか行かれなかった。私がつかった金は、百円から二百円の間である。時に百円以下で済ますこともあった。二百円あればリッチなものだった。Tに行かれる日は、昼頃からそわそわしていた。金があれば毎晩でも行きたかった。
私がTに行くと必ず会うお客がいた。私は、一杯か二杯の焼酎をのむのであるが、その人は三杯も四杯も飲んだ。半代(はんがわ)りというのがあって、私は一杯半のときが多かったように思う。私には、その客が大金持に見えた。また、酒が強いということで、とてつもなく偉い人にも思われた。なぜならば、そんなにまして飲みに行ったのに、私は、食べたオデンごと、そっくり吐いてしまうこともあったからである。毎晩飲みにくる客は新聞記者で、肝硬変で亡くなったことを後になって知った。
私は、その新聞記者のように、毎晩Tで飲めるような身分になりたいと思っていた。私には功名心が希薄で、有名になりたいとか世に出たいという気持はまるでなくて、安定した暮らしだけを望んでいた。その新聞記者以上の生活を考えたことはなかった。
ワイシャツが一着千円という時代で、一日に三十円か四十円ずつ溜めていって、一ヶ月に一着ずつワイシャツが買えればいいのにと思っていた。それくらいの身分になりたいと思っていた。しかし、千円あれば私は競馬場へ行ってしまっていた。
私が気分が悪くなって吐くようなときに、おばさんは決して厭な顔をしなかった。黙って裏の扉を指した。私はそこから抜け出して、早稲田大学に向かう崖っぷちで吐いた。そこでバカヤローと叫ぶときもあり、小便をすることもあった。そういうとき、おばさんは笑っていた。
亡くなった新聞記者も寡黙な人で、向こうから話しかけることは一度もなかった。おばさんも私も黙っている。常連ばかりの店であって、風呂屋帰りに金盥を持って飲みにくる人もいた。Tに行くと、必ず私より先に新聞記者が来ていた。それで、彼と私とが最後の客になることが多かった。そんなふうに、ゆっくりゆっくり飲んでいるのに、翌朝、頭があがらなくて、つい目と鼻の先にある会社に出られないことがあった。
おばさんには、まったく、男っ気というものがなかった。おばさんに結婚歴があるのかないのか、子供がいるのかいないのか、そういうことは皆目わからなかった。親類の人が訪ねてくるということもなかった。そんな店でも、仕入れに行って、下拵えをしてといいう商売は重労働である。どうしてそんなことになったのか、手助けする人がいないのか、そういったことは、まるでわからない。おばさんの過去を知る人は一人もいない。
私の会社にも、私ほどではないにしても、常連に近い感じになる同僚がいた。当然、そのことが話題にかることもあった。また、私の目の前で、露骨におばさんの過去を訊きだそうとする客に会うこともあった。こうなると、常連の間に、一種の競争心が生ずることになる。
私も、酔っぱらってしまって、ついつい、余計な口出しをするようなことがあった。
あるとき、客が私一人になってしまったとき、私は、そのことを言った。たった一度だけのことであるが、これは私の勘で言うのだけれど、おばさんは、そのとき、いまにも過去を話しだそうとする感じになった。体がやわらかく艶に傾くという風情があった。
しかし、次の瞬間に、おばさんは、飛び退(すさ)って、
「そんなこと聞いてどうするんです」
と、叫んだ。おばさんに叱られたのは、そのときだけである。
昭和二十九年の三月以降、私はTへ行ったことがない。別の会社に移るようになったからである。
私は、何度、Tへ寄ってみたいと思ったかわからない。しかし、何と説明したらいいかわからないような恥ずかしさが私を押しとどめた。
私の先生は目白に住んでいる。先生も一時はTの常連だった。先生と二人で相撲見物に行くときは、往復ともTの前を通ることになる。私が誘ったこともある。
「あそこは、常連の行く店だろう。二人で入っていったら、みんな、いっせいにこちらを見るだろう。それが厭なんだ」
私の思いも同じだった。常連の集まる呑み屋は、それ自体、ひとつの文化だと考えるようなところが私にはある。別の文化圏に入ってゆくのは、まことに気詰まりなのである。
また、Tはいよいよ繁昌してくるように思われた。相撲見物の帰りのとき、それがわかるのである。外に人が立って待っているようなこともあった。Tの暖簾はふくらんで威勢よく翻(ひるがえ)っているように見えた。それは喜ばしいことであるが、いよいよ行き辛い。
音羽町にある講談社の人もよく行くようになったという話を聞いた。これは近年のことである。そのなかに、ごく親しくしている編集者がいた。
彼は、おばさんが私に会いたがっていると言った。おばさんは、昔の私の名刺を持っているという。行ってあげなさいよ彼は言った。私は行き辛くなっているわけを話した。
彼は、常連の来ない時間、空いている時間を調べてきてくれた。私も行ってみる気になっていた。そのときにどういう顔をして、どういう挨拶をすべきかを考えたこともあった。しかし、私は行かなかった。
その編集者は、電話番号を知らせてくれた。せめて電話ぐらい掛けなさいよと言った。電話で話をして、それで行くきになったら行けばいいじゃないかと言った。
一昨年、彼から、Tがいよいよ閉店になると知らせてくれた。閉店になる前に、一度は顔を見せるべきだよと言った。
同じ頃、Tの近くに住んでいて、Tの常連になっている週間誌の記者から、同様なことを聞かされた。彼は電話番号のほかに、住所と名前も教えてくれた。私は初めておばさんの名前を知ったのである。電話が厭なら、ハガキを書けばいいという意味だろう。
「四時か五時に行けば客は誰もいませんよ。その頃に山口さんが行くかもしれませんよって言ったら、おばさん、待っていますって言ってましたよ」
週刊誌の記者はそんなことを言った。
昨年の七月、Tは遂に店じまいすることになった。お別れパーティーがあるので、その時に寄ってあげたらとも言われた。私は行かなかった。Tの閉店は週刊誌の記事になった。やはり、それはひとつの文化だった。
その週刊誌の記者が、おばさんに頼まれたと言って、三岸節子の絵を持ってきてくれた。汚れていて粗末な額に入っていた。
そうして、その絵がおばさんの手に渡ったのかということになる。
昭和二十四年に女性雑誌の発行権を持っている人が入社してきた。彼は、私などからすると、はるかに大人びていて世慣れた人物だった。顔も広かった。たちまち、おばさんと親しくなった。どうも、彼が入社したのは、紙の配給権と関係のあることであったらしい。宗教家で学者肌の社長とはソリがあわないようだった。その雑誌が三号で廃刊になって間もなく退社した。
三岸節子の絵は、黒バックでオダリスクふうの女性の顔を描いた水彩である。彼は三岸節子と親しくしていた。女性雑誌の創刊のとき、三岸さんがお祝いにくださったものである。あるいは表紙の原画であったのかもしれない。その絵を彼は、おばさんにプレゼントして去っていった。
私は、三岸節子の絵を額縁屋に渡した。銀座のYという額縁屋で、凝るので有名な店である。絵はひどく傷んでいた。戦後直後の悪質な紙に書いた水彩画を洗うとなると、大変に手間がかかるらしい。それに、折り畳んで額縁に入れたときの筋目なども消さなければならない。
私は、三岸節子の絵の礼状も書かなかった。週刊誌の記者も、もはやあきれはてているだろう。
今年の二月の中旬に、私は北海道へ行った。帰るときに、おばさんに紅鮭でも送ろうと思った。しかし、私には、それを購(もと)める伝(つて)もなく、探しだす時間の余裕もなかった。それで、月並みだけれど、安全ということも考えて、バターとチーズの缶詰の詰めあわせを送った。
これは、いかにも唐突なことになる。それで、東京へ帰ってすぐにハガキを書いた。気は心ということで、バターを送りました。どう言っていいかわからないような恥ずかしさがあって、とうとう、お店へは行かれませんでした。
一ヶ月以上も経って、おばさんから手紙がきた。
バターをたくさんいただいたのに、礼状も書かずに申しわけなし。三岸先生の絵の由来。あら一ぺん逢いたいわと齢甲斐もないことを口走ったお詫びのしるしに受けとられたし。私の好きな絵ですが、父が嫌って物置へ放り込んであったのです。父が亡くなって、本棚に飾っていました。呑気な一人暮らしですが、老化を防ぐために和菓子の学校に通っています。……そういう文面であるが、最後は、次のように結ばれている。
「お葉書の様になんとも恥ずかしくてと言ふお気持ちは昔と一寸も変つて居られない様な感じです」
私がボッカッチの展覧会へ行った数日後に、おばさんのことを思い出したのは、一枚だけ持っている有名作家の絵ということからの連想であったに違いない。
しかし、おばさんもまた、極端に無口な人であったということも無関係ではないような気がしている。また、ボッカッチが都会を嫌って山の中へ入ってしまったということも……。ボッカッチの婦人像は、目が鋭く澄んでいて、怖いような顔になっている。その背景は、ダーク・ブルーに沈んでいて、林の中の鳥は動かない。
マルチェッロ・ボッカッチは、一九十四年の生まれだから、今年、六十五歳か六十六歳ということになる。私は、おばさんも同年齢だろうと思っている。
『一枚の絵から』山口 瞳著 オール讀物 昭和五十五年八月特大号(54ページ〜64ページ) 株式会社文藝春秋
なお、掲載に付きましては著作権継承者である山口治子さんのご好意で了解頂いております。