経歴

 

Starting Point 私の原点】

 

京都府内の某鉄工所勤務を経て学校を卒業した年の年度中途で京都府の外郭団体に就職した私は、

この会社で実に様々なことを学ばせていただいた。

この会社は、京都府内にある中小企業に対して国や府の施策をあっせんするところであり、私の仕事と

言えば府内外の企業さんを訪問してまわり、支援し指導するというもの。

 

今にして思えば、たかだか20代や30代の世間知らずが支援などと言うのはおこがましいのだが、今で

も、この時に全国の約1200社の企業さんを訪問した経験が私を支えてくれている。

実に、中小企業さんはしぶとくてたくましい。

 

社長には個性的で前向きな方が多く、その考え方や行動力にはいつも圧倒されていたものだ。

企業さんを訪問し、社長さんや従業員の方々とひざを交えて話をして、工場の端から端まで見させて

いただく。

綺麗な工場が良い工場ではないことも、この時に学ばせていただいた。

 

不思議なもので、工場には独特の雰囲気というか、それぞれの主張がある。

製品への愛着というか、技術へのこだわりと言うのだろうか、そういった目に見えないところを感じさせて

くれる工場には、何かしら生き物のように心臓の鼓動が聞こえるような気がしてならない。

 

機械場の朝、澄んだ空気の中でブーンという暖機運転が始まる。旋盤やフライスの前では職人さん達が

声を出しながら機械の点検をしている。

そのうちに、機械油や切削油特有のいい香りがだんだんと漂ってくる。

私はそこで、それこそ何時間も話し込む。

こっちが好きだから熱も入るし、ほとんどの社長はそんな私を受けとめて応えてくださった。

 

何の目標も無くアルバイト、麻雀、そしてパチンコのためだけに通っていた大学。

私は、卒業後の将来設計も何もなく、ただ何となく年度の中途で会社に就職したのだが、仕事が好きで

好きでたまらなくなってしまった。

 

私が、まだ「自分を見つけていなかった」こともあったのだろうが、小さいながらも自分の城を持ち、大きな

ビジョンと夢を持って活動されている社長さんと、その社長を支える従業員の皆さんを見ているだけで元気

が出てきたものだ。

 

そして、私が悩み元気が無くなると「おい、松森、何をやってんねん」とハッパをかけてくださり、親身になっ

て相談に乗ってくださる。

こんな面白い仕事が他にあろうはずもない。この会社に私は約16年の間、在籍した。

 

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【Turning Point1 自分は何なんだろう?】

 

しかし、仕事一途で遊んでいなかったかというとそうでもなく、どちらかと言えば遊びで身を崩しかけていた

かもしれない。

学生時代にスナックなどでアルバイトしていた私は、元来が遊び好きだったようだ。

 

毎日のように祇園界隈のスナックに出かけては散財を繰り返し、スナックやホテルなどから出勤というのも

少なくなかった。

仕事は誰よりも一所懸命にやっていたという自負はある。昼間は仕事、夜は遊び。

 

この頃には、仕事以外でもいろんな人と知り合うことができた。今は皆、どこで何をしているのか知らないが。

アムウェイで儲けて外車に乗り、パブを何件も経営する20歳ほどの青年実業家。

それを羨ましがり、そして周りに群がる人々。

毎日、毎日、ウィスキーのロックを何杯も一気飲みするマスター。

店のチーフに惚れながら、客と毎日のようにホテルに行くホステスさん。

もう駄目だと言いながらギターを弾く年老いた流し。

お店を持ちたいと夢を語るソープランド勤めのお姉さん。

あんた位の息子がいるんやでと会うたびに語る、毎日のように店に顔を出す中年女性。

私が考えると何故?と思うほど特別な理由もなく精神を病んだ女の子達。

 

当然のことだが、見る見るうちに借財が自分の手には負えないようになってくる。ツケで飲み、給与はすべ

て返済にまわす。

「何をやってんだ、俺は」そう思えるまで、相当の時間を要してしまった。

そして、頭をガーンと殴られるような、人には言えないような事件もあり、転機が訪れた。28歳の頃である。

 

考えれば、その後も31歳の頃まで、何とも情けないことを幾度かやってしまっている。

「仕事は誰よりも一所懸命にやっていたし、事実、誰よりも仕事は出来た」それが、取り柄でもなんでもなく、

自分の武器にもならず、ましてや人から認めてもらえる要因にさえもならない。

仕事もそうだが、人に対しても「好きです、好きだから。」だけでは何にもならないということを、情けない事件

を起こす度に知ったような気がする。

 

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【Turning Point2 今のままで良いのか?】

 

そして結婚。すぐに子供が生まれ、育児に追われることになってしまった。

結婚を境に祇園もうではパッタリと止め、この頃から仕事に対しても少し考え方が変わってくるようになる。

その根底にあるのが、「今のままで良いのか?」という単純な思い。

先にも述べたが、私の仕事は中小企業の支援、指導を通じて振興するというもの。

相変わらず仕事は楽しい。しかし、いつも悶悶としている自分がいる。

 

全国には中小企業を支援すると銘打つ会社や団体は沢山ある。

私は、その沢山の支援団体の一つに勤務していたが、支援や振興という名目に安穏としていないか?

もしかすると、私は本質を忘れている、と言うよりも本質を知らないのではないか?

 

中小企業に対する支援は受益者負担であるとか、積極的な企業に対して支援するという、もっともらしい耳ざ

わりの良い言い回しが最初に付くことが多くなった。

曰く、「昔の施策は池に無尽蔵に餌をばら撒くようなものであった。池のすべての魚に、とりあえず餌を与える。

これからは、そんな税金の無駄遣いはやめて効果的な施策を展開していく」ということ。

 

積極的で先を見越した展開ができる企業さんを応援し、補助金などにより支援することに関して何も反対する

ことはない。

しかし、積極的ということがどういった意味を持つのか。

じっと仕事だけを一所懸命にすることは積極的ではないのか。

忙しいから営業に出られないというのは消極的な言い訳にすぎないのか。

私には、そんな簡単なものじゃないような気がするのだ。

 

経営状態が悪くとも、家族皆で一所懸命に仕事に取り組んでいるという、圧倒的に大多数の中小企業さんを、

もし、支援できないとするならば。

 

私は、本当に企業さんを支援していることになるのだろうか。

 

言い訳は沢山できる。自分には力が無い。京都には4人以上の事業所が3万数千社。個人事業所も含めれば

10万社。その全てを支援することは無理。が、そんな当たり前の言い訳は「やらないこと」の理由にはならない。

 

しかし、私も年をくう。

「いつまでも現場にいるつもりか?それならそれでいいけれど、出世は出来ないぞ。それにお前の出世が遅れ

れば、その下の者には迷惑がかかる。そんなこともわからないのか。」

経験を積むにしたがって、現場を離れなければいけないという矛盾。このままで良いのだろうか。

 

私も役職が上がるにつれて、事務所に座ることが多くなった。

毎日、毎日、事務所に座っていて、相談に来た方に決まって言うのは「もっと、営業しないと」「今はどこも厳しい

ですから」

たまに企業さんを訪問すると、知ったかぶって正論を吐き、勝手に相手の実情も知らずに本に載っている世間

一般の具体論をぶつという無責任さ。

 

でも、それでも中小企業の支援、振興という事業は遂行できる。

知らず知らずの間にそうなってしまったのか、そうならざるを得ないのか。

 

私がISOに出会ったのは1991年頃。当時、認証を取得した企業さんは日経や日経産業新聞などのトップ頁を

飾ることが出来た頃。

何故か私はISOに興味を持ち、1994年頃からはコンサルタントのような事を仕事が休みの土日にボランティア

で行うようになった。

私の会社は、公的な機関としてはISOの研究会を全国で初めて取り組んだところ。毎年のように新しいメニュー

を考えて研究会を開催し、それを実施する。

私も、ただ研究会の出欠を取るだけじゃなく、質問に答えたり研究会の会員企業さんを訪問するなどして、ISOに

関する業務を徐々に増やしていった。自負もある。

相手も真剣だから、こちらも真剣になる。1時間の予定が数時間になり、何度もお邪魔するようになる。

 

しかし、私の所属している会社は専門家を望んではいない。

うちの会社には松森がいるからISOは大丈夫。しかし、「組織として」の対応だからISOの相談があっても最初に

呼ばれることはない。

 

その頃、世間ではISO9001に加えて環境のISO14001に関するニーズも高まって来た。

私は、ISO9001と同様に、ISO14000の審査員コースに参加した。

一週間も仕事を休むのは気が引けたが、今しかないと考えた。

 

 

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【Turning Point3 信念】

 

何でもそうだが、初期のころの研修コースには積極的な方が多い。

今のように、「わたしゃ落ちてもいいんだ。合格証でなくて終了証でいいの」なんていうのん気な人はいない。

皆、真剣であり私のように自費参加の方も大勢いる。

目指すものが同じであるから、年代を超えて話も合う。

上司部下という関係では無いので、単純に「何ができるか、何を考えているか」でお互いを評価する。

だから、嘘が無くて気持ちが良い。

何故か、しばらくの間、忘れていたことを思い出した。

 

機械油や切削油特有のいい香り。そこで、それこそ何時間も話し込む私。

 

そして、そんな私を受けとめて応えてくださる企業の皆さん。

 

自分のやりたいことを、自分の責任でやってもいいかなあ。

特定の組織の中だけに通用するテクニックを身に付けるよりも、もっと大きなところで自分を試したいな。

 

人は「お前、何考えてんねん?ええとこ勤めてるのにもったいないなあ。」とあきれて言った。

今までに何度か「辞めよう」と思ったことはある。しかし、今度は真剣にそう考えている自分。

いつになく、悩みに悩んだ。しかし何故か結論は決めている。そんな自分自身をごまかせない。たった一度きりし

かない人生。後悔しない生き方をしたい。これは自分の人生。他人の価値観じゃなくて、自分の価値観で生きて

みたい。

まあ、正直な話だが母親を説得するのに一番の労力が必要であったが。

これ、男の方ならば思い当たるふしがあると思います。

 

今は、現場で仕事をさせてもらいながら、各地の講演会や原稿執筆で生計をたて、ISO関連の集まりを企画し、

そして少しだがボランティアにも参加している。こんな生き方ができてとても幸せだ。

 

ただ、私に関心を持った大学生から「どうしたらコンサルタントになれますか?」と相談を受けることがある。

しかしほとんどの場合、カッコイイからとか流行っているからというのがその理由。汗を流す仕事に就きたくないだ

けというのが目に見えている。

事実、コンサルタント会社から、20歳そこそこの若者が派遣されてくることも少なくない。

この不況の中で就職戦線は厳しさを増し、若い人達は希望する就職先に入ることが難しく、人生の進路に悩んで

いる。

他人の価値観でなく、自分の価値観で人生を選択すべきである。

しかし、数年は我慢していただきたい。出来れば30歳くらいまでは、コンサル会社以外でこき使われてほしい。

理不尽な組織というものを身をもって体験してほしい。取引先の社長からもまれてほしい。

そうでないと、コンサルタントを受入れる企業さんが可哀想だ。

私の場合、いつも振り返れば「ああしとけば良かった」と悔いることが多い。30歳の頃も、35歳の頃も、40歳に

なっても、3〜4年前の自分のことを考えると、いつも「知識不足であり経験不足」に思える。

これは、原点としての「勤め」があったからこそだと考えている。

 

 

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【我社のポリシー】

 

ISO関係の仕事をやっていると元気の良い企業と出会うことが多く、どうにもならない不況感を感じないことが多い。

 

しかし、何故にISOに取り組むかを突き詰めて考えて行けば、その奥底にある、まったく先が読めないという経営者

の危機感にぶち当たり、その危機感を払拭してどうにもならない不況、どん底の状況の中で、「企業を存続させる」

という大前提の経営方針を達成するためにISOに取り組むのだという悲壮なまでの姿勢と決意が見えてくる。

 

「何をすれば良いのであろうか?」

 

ほんの数年前までは、企業規模の大小を問わず新製品・新技術を有する企業、大手メーカーの一次下請企業、

そして二次、三次下請企業ともに立派な経営戦略や生き残り勝ち残りの術について持っていた。

 

特に小規模企業においては、操業以来、一度も営業活動をせずとも受注は順調、その結果として息子を大学に入

れ、自分よりも大きな立派な身体にするまで飯を食わすことができた。そして、少しであっても貯えもできた。

 

毎日、こつこつと真面目に仕事をこなすことが経営戦略であり、生き残りの術という企業さんも多い。

 

しかし現在、この経営戦略や生き残りの術は否定され、規模の大小を問わず世の中の企業は淘汰されている。

淘汰されて当たり前とされている。

 

そして、「自社の強みと弱みを知り、戦略を考えなさい。確固たる経営方針を持ち、それに向かって具体的に数値目

標をもって努力しなさい。」と今まで何もしてこなかったがごとくに言われる。

 

この製造業を取り巻く環境が間違っていると私一人が言い張っても何の効果も無い。

 

時代は確実に変革している。従来の価値観や規範が急速に変化している。

 

従来発想の延長線上では考えられないことが起こっている。

 

できる限り早く、発想転換、意識改革することが企業経営者に迫られている。

 

今やらねば来年、再来年にきっと後悔するのだ。

 

今の状況が続けば、将来に後悔することは企業存続の危機につながる。

 

どうせ切磋琢磨して四苦八苦するならば、「仕事の無い中で仕事をくれと言ってメーカーに行かなければならない。

このときにお土産がなくてはメーカーは相手にしてくれない。

 

だから、自社をオンリーワン企業=お土産としてメーカーに持って行く。」と嬉々として公言できる戦略を考えてはどう

であろうか。

 

そして、製造業の原点に戻って「心を込めたモノづくりを目指す、QCDを良くするための活動は当たり前、それに加

えて人を基盤としたモノづくりを目指す」と大いに語るのだ。

 

ISO規格は万能薬ではないが、それらを実現するために活用することはできる。

 

企業規模や業態に違いはあれどISOをツールとしてマネジメントシステムを構築する過程が、従来発想を転換し、

意識改革するための一つの具体的な方法であることは間違い無い。

 

何かやらねば!そういう中小企業と一緒になって一緒に汗して涙して苦労して、そして企業も私自身も両者とも余裕

を持ちたい。

 

それがマネジメント・サポート社のポリシーです。

 

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【趣味】

 

チヌ(黒鯛)釣り 筏、磯、カセ 

ハエ(オイカワ)釣り 日本でも有数のハエ釣りのメッカ宇治川まで車で10分

登山 北アルプス専門で北穂高が好き ※最近は行ってません

読書 乱読傾向

その他、子供とお話をすること

 

 

【私のお師匠さん達】

 

司馬竜馬

 

ご存知、司馬遼太郎の竜馬がゆくの主人公。この本に出会わなければ、今の私は無い。

考えると私は十数年もの間、司馬中毒に陥っているようだ。

 

私と司馬氏との出会いは行き付けの本屋で「竜馬がゆく」を手にした時から。

立ち読みした瞬間からもう止まらない。

何かに取りつかれたように一気に読破、その後も読み終えるのがイケナイかのごとくに何度も何度も読み返した。

そして、それから坂本竜馬にどっぷりとはまってしまうことになる。

 

幸いにして竜馬の足跡が随所に残る京都という地に住んでいるため、その恩恵も思いきり謳歌している。

京都の繁華街のド真ん中には竜馬が遭難した近江屋、寓居跡、難を逃れた池田屋、土佐藩低跡、龍馬と中岡の

墓など、ほとんどが石碑のみ残っているだけの状態なのだが歩いて廻れる距離にあるため、人ごみに紛れながら

も少しずつ気持ちを高ぶらせていけば、幕末という夜明け前の雰囲気を味わうことが出来る。

 

極めつけは伏見の寺田屋。

京都の市街から離れてはいるが、竜馬の常宿であったこのお宿は現在でも宿泊が可能で、薄暗いその部屋で

桃山時代から酒の街として知られる当地の地酒をチビリチビリとやろうものならもうたまらない。

完全に竜馬と自分をオーバーラップしてしまう。

 

そうなると、土佐の高知に出向くのは時間の問題で、桂浜にたたずんで物思いにふけり高知城で記念撮影。

私などは4回も仕事を理由に高知に出かけ、一度は竜馬に興味の無い方と桂浜にご一緒したため「寒いよ〜。もう

帰ろうよ〜。」で現実に引き戻されたことも・・・。

 

ある方がおっしゃっていたのだが、歴史家は現実や史実を追求し、小説家は真実を追求するらしい。

史実を調べると、龍馬に関する様々な悪しき現実を知らされる。

しかし、司馬氏が追求した真実は多くの若者達に夢と希望と勇気を与え続けてくれている。

それは、中年のおっさんになってしまった私にも分け隔てなく与えられる。

 

私は、何かに行き詰まった際には司馬竜馬を読み返す。

時間が無くともこの最後の一文だけは読むようにしている。その一文とは、

「この夜、京の天は雨気が満ち、星がない。しかし、時代は旋回している。若者はその歴史の扉をその手で押し、

そして未来へ押しあけた。」というもの。

 

私は、この終わりの一文を、竜馬は遭難したが後世の人々に進むべき道を示したという意味ではなくて、死してなお

未踏の大地に歩みを進めて行くのだと勝手に解釈している。

私は、これからも紆余曲折しながら生きていくだろう。

そんな私を部屋に貼りつけたでっかい桂浜の竜馬の写真が、いつも「小さいことでクヨクヨしたらいかんぜよ。」と、

励ましてくれている。

 

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【稲盛和夫氏】

 

偉くなっても初心をお忘れにならないお姿に感動してからの心の師匠。

稲盛さんは私のことなど忘れておられるだろうが、私は忘れない。

以前、中小企業の展示会を企画して実施した際に、稲盛氏に講演をお願いした。

京都のベンチャー企業達の憧れの方だからという理由から。

もちろん、私の憧れでもあった。

 

超過密なスケジュールにもかかわらず快く快諾をいただいたのだが、なんと講演会の前に展示会をご見学されると

のこと。

出展者一人一人に声をかけていただき、半分ほど廻っていただいた時に講演会の時間となった。

しかし、それでも展示会を見ていただいたという興奮さめやらぬ気持ちでボーッとしていると、講演会が終わってから

も見学に来られるという。

 

まだ見ていない半分の企業さんを是非とも見学したいとのことで、講演会の前に案内した若いの(私です)に案内せ

よとのお達しがあったらしい。

説明が分かり易かったとのことである。ここで私の心が踊った。

稲盛氏は、1社1社、出展者に丁寧に挨拶され身を乗り出すように出展製品をご覧になり、熱心に話をされる。

 

例のごとく稲盛氏の周りには行政の役人が大勢ついて廻っていたのだが、稲盛氏が熱心に企業さんと話をしておら

れる際に役人達は稲盛氏の顔を見ながらニコニコとご機嫌うかがいをしている。出展企業など見ようともしない。

このギャップに私は打ちのめされた。

私は、この時の稲盛氏の姿に京セラ発展の根っ子の部分(理由)を感じたのだ。

 

もはや大手企業となった京セラの会長が、名も無い中小企業を相手に何と楽しそうに話をされるのか!

この人は凄い!それから稲盛氏の本は欠かさず読んでいる。

私の永遠の心の師匠である。

 

 

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【やまのい和則】

 

2000年の衆院選(比例代表)で当選した、私よりも年下の新人議員。

私は遠くから見ているだけで、ちゃんとお話さえしたことも無いのだが、その新人議員は「報われずとも」「人が見て

いなくても」活動を止めない。

 

その活動は多くの人に支えられているからこそできるであろうが、反面、その活動の様子が見る多くの人を感動さ

せている。

なぜならば、嘘が無いから。

「政治はミッションだ」なんて恥ずかしいことを言う政治家で、だから私は目標としている。

 

その政治家からは、頻繁に活動報告のメールマガジンが届くのだが、少しだけ紹介すると、

・・・・・

今日は、初登庁の日。

午前9時すぎに登庁。京都新聞とKBS京都の取材を受け、国会へは正面玄関から入った。

事務所スタッフのみなが、カメラ片手に一緒に来てくれた。

午後12時半から○○党の代議士会。初めて。

午後2時に本会議に出席。初めて。

本会議場では、さすがに"とうとうここまできたぞ"と気分が高まった。

全国250万人の寝たきりや痴呆のお年寄りやそのご家族、あるいは、弱い立場の方々の代弁者として頑張ろう。

「私が国会に行って福祉や介護保険が変わった」、と言ってもらえるように。

初日は、議長選挙、副議長選挙の投票と、首班指名選挙。

投票の際に、目の前で森首相をみた。初めて。

そのあと、○○党の控室で、○さん、○さん、○さんなどと、介護保険の見直しなどについて、30分ほど議論。

このひとときは嬉しかった。

形式だけの本会議よりも、介護保険の議論が有意義である。

○さんや○さんから、

「○○党は1年生からどんどん仕事をしてもらう」

「○君、介護の問題頼むよ」と言われた。

期待に添えるようにしたい。

これから介護保険の問題点や見直し点を整理せねばならない。

特に、利用者や現場からも問題点の指摘が多い。

選挙後の支持者の方々との再会、ミニ集会や地元のこと、介護保険の数々の難問題、両立させたい。

やる気まんまんで今日一日が終わろうとしている。明日も午後1時から本会議がある。

すぐに特別国会は、終わるので、必死に限られた期間で勉強し、即、仕事ができる国会議員になりたい。

今日、私の尊敬する方から次のような嬉しいお便りを頂いた。

 

「祝 ご当選 熱烈にこの日をいかほどに待ったでしょう。どうしてこんなに行儀の悪い祖国になったのでしょう。今、

選挙戦でも○○党は卑しすぎます。政治の究極のよるべきは美だと青臭く思っています。古い言葉ですが、世直しを

託しています。」

 

「美」という言葉は私は大好きだ。昔聞いた話だが、「美」という言葉は、「羊」が「大きい」と書く。「羊」とはいけにえ、

すなわち自己犠牲の象徴。

つまり、おのれを捨て,社会のために献身する姿が美しいのだ。

たった二日の国会議員の経験だが、いまの政治の根本的な病は、

「選挙に勝つための政治」

「政権を維持するための政治」

「自分(の政党)のための保身の政治」にある。

 

国民の税金で雇ってもらった国会議員が私利私欲のために動いているのでは、これはたまらない。

「次の選挙の当選だけを」最大の目標としているならば、それはほとんど詐欺であり、税金泥棒だ。

「○○を国民の税金で、国会議員として雇ってよかった!」と感じて頂けるよう、精一杯働きます。

・・・・・

どうですか?私はこの男が羨ましい。

自分のまわりに、見ているだけで夢と希望を与えてくれる存在は多いと思う。

 

 

【私の父と母】

やんちゃばかりやっていた、勉強嫌いの息子をここまで大きくしてくれた。

28歳でようやく「これではいかん!」と悟る息子を、諦めずに育ててくれた

忍耐強さに感謝。

 

 

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追伸

私は「人」に恵まれている。

いろいろ教えてくださる方々が非常に多い。

考えれば、私の周りのすべての方々はお師匠さんと呼ぶべきだろう。

ただ、私はどちらかと言えば「誰からも得るものはある」という気持ちをあまり持ち合わせていないタイプ。

だから、好き嫌いも激しい。場合によっては無礼な奴だ。

しかし、男の深情け(表面はそうじゃないですが)なのかなと思う時も多い。

決めているのは、決して皆さんの期待を裏切らぬように日々、精進をかさねたいということ。

皆さん、これからもよろしくお願いいたします。

 

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