障害のある人々のスポーツの歴史

 障害のある人々のスポーツ(身体運動)の源流は、古くは古代エジプト時代の医療訓練にまでさかのぼることができます。しかし、より直接的には16世紀以降欧米を中心に発展した近代医療訓練と、18世紀ごろから英国を中心に発達した近代スポーツ(現在世界で実施されている競技スポーツ)が、その母体と考えられます。
 まず、耳の不自由な人々のスポーツは、18世紀半ばからイギリスの紳士階級が近代スポーツを発展させていくなかで、そのスポーツから「紳士でないから」と疎外された耳の不自由な人々が、「自分たちも同じようにスポーツがしたい」と考えるようになり、それが世界最初の障害のある人々のスポーツ組織「ろうあ者スポーツクラブ」(1888年ベルリン)の旗揚げとなったのです。そして、これが1910年の「ドイツろうあ者スポーツ協会」の創設へと発展し、同様な動きがドイツ近辺の各国にも起こり、ついに1924年の「第1回世界ろうあ者競技大会」の開催(パリ)にいたるのです。なお、同大会は第二次大戦中を除き以後4年毎に、「ろうあ者のオリンピック」として現在も開催されています。また、前記第1回競技大会開催中の会議で、世界最初の障害者スポーツ国際組織「国際ろうあ者スポーツ委員会(CISS)」も設立されています。
 もう一方の医療訓練からの発展としては、第一次・二次大戦での戦傷者へのリハビリ訓練へのスポーツの採用が、今日の障害者スポーツの形成に大きな影響を与えています。ちなみに、第一次大戦中のドイツ陸軍野戦病院では、シェーデ他四人の軍医が戦傷者のリハビリ訓練に、スポーツを採用したとの史実があります。第二次大戦ではこれが各参戦国に広がり、その訓練を受けた戦傷者達が帰郷後に自国でスポーツを実施し、各国で「戦傷者スポーツ連盟」を結成しています。これを世界歴戦者連盟(戦傷者の国際組織)が統合して、「国際身体障害者スポーツ機構」(ISOD)を1962年に設立しています。同組織は独自の国際競技大会を開催するほか、後述のパラリンピックの主催団体にもなっています。
 また、イギリスの国立戦傷脊髄損傷者病院の院長であったL.グットマン博士は、同病院の戦傷者の治療にスポーツを積極的に採用し、このとき戦傷者達に与えた言葉「失われたものを数えるな、残されたものを最大限に生かせ!」は、障害のある人々をスポーツを通じて励ます言葉として、現在も世界中で語り継がれています。そして同博士は、1948年7月のロンドン・オリンピックの開会式当日、同病院に入院中の26名の戦傷者にアーチェリーの試合をさせられたのです。同競技会は以後毎年開催されるようになり、そのなかで競技種目も次第に増えていきました。さらに1952年からは国際大会となり名称も「国際ストークマンデビル競技大会ISMG」と呼ばれるようになりました。そして、1960年には「国際ストークマンデビル競技連盟」(ISMGF)も設立され、現在では40数カ国が加盟(もちろん日本も加盟)しています。
 グットマン博士はこの大会をオリンピックの年には、その開催国で実施したいと考えてIOC(国際オリンピック委員会)等に強く働きかけました。それが1960年のローマ・オリンピックから実現したのです。そして、その次の東京オリンピックからは、「パラリンピック」の愛称のもとに開催され、現在にいたっています。ここから同博士は「パラリンピックの父」と呼ばれるようになったのです。
 このような耳の不自由な人々や戦傷者のスポーツの発展は、他の障害のある人々、すなわち目の不自由な人々・脳性マヒの障害のある人々・知的発達に遅れのある人々のスポーツにも強く影響し、後述のように第二次大戦後次々と国際組織が設立され、それぞれが独自の大会等を開催すると共に、「パラリンピック」の主催団体にもなっています。
 日本の場合は、大正中期から昭和初期にかけて、目や耳の不自由な人々の近畿大会や全国競技大会が開催されていました。しかし、満州事変(1931年)以後、日本の対外侵略戦争の開始のなかで、「兵士になれない」障害のある人々のスポーツは、当然のように行われなくなりました。そして、それが本格的に行われるようになったのは、1964年の「東京パラリンピック」以後です。その意味で同パラリンピックの開催は、わが国の障害のある人々のスポーツの発展に、極めて大きな影響を与えたと言えます。
 そして、同パラリンピック翌年の1940年には、「財団法人・日本身体障害者スポーツ協会(現在の日本障害者スポーツ協会)」も設立され、同協会の最初の仕事が同年秋の「第1回全国身体障害者スポーツ大会(愛称身障者国体)」(岐阜県)の開催でした。同大会は2000年の富山大会まで36年間にわたって、毎年秋の国体後に開催されてきました。また、これとは別に知的発達に遅れのある人々の全国大会が、1990年から2000年まで「ゆうあいぴっく」の愛称のもとに開催されてきましたが、2001年の宮城国体からは上記両大会を統合して「全国障害者スポーツ大会」と名称も変更して開催されるようになりました。
 上記各大会の開催が契機となって、わが国の障害のある人々のスポーツは大きく前進しました。ちなみに2004年現在、都道府県・政令指定都市の障害者スポーツ協会は、62団体存在しています。また、日本車椅子バスケットボール連盟等の競技別全国競技組織も48団体にのぼっています。さらに障害者総合スポーツ・センターが全国に22カ所、スポーツ施設の設置が義務付けられる障害者総合福祉センターが20カ所、勤労身体障害者体育施設が30カ所、勤労身体障害者教養文化体育施設が33カ所設置されています。そして、日本障害者スポーツ協会所属の公認障害者スポーツ指導員は、全国に19,735名存在しています。
 以上の結果、2004年のアテネ・パラリンピックでの日本選手団は、金17・銀15・銅20(合計52個、世界第10位)の成績をあげています。ただ、上記の競技スポーツに参加できる人は、若くて比較的障害の軽い人や単純な障害の人(聴覚・視覚・脊損等)に多く、真にスポーツ(身体運動)を必要とする障害の重い人や高齢の人には参加できない場合が多く、これらの人々を含む「すべての障害のある人々」にスポーツ(身体運動)を保障するためには、今後さらなる検討と努力が必要です。