いま考えていること 201(2005年02月)
――三菱東京とUFJの統合――

統合後国内の店舗を統廃合するのは二つの銀行が一つの銀行になるのだから当然のことだと思いますし、6000人の従業員のリストラが起こるのも当然の成り行きでしょう。三井信託と中央信託の合併で0.33:1の比率の株式転換を経験した私にはUFJの株主の痛手に同情を禁じ得ませんが、株式の世界はそういう非情の世界なのです。そういう合理化を実施した後で何を目標とするのかと思っていましたら、収益性を高めて最終利益1兆円を達成する考えだと公言するのですから少々首をかしげます。その結果株価が上昇すれば確かに合併による損失も取り返せる時を迎えられるのですが、これはあくまでも株主の論理です。

バブル期の銀行の不始末の尻ぬぐいに、私たちはここ10年というもの預金金利ゼロという銀行との付き合いを余儀なくさせられてきたのです。最近の銀行の高利潤、不良債権処理の加速には、この庶民の犠牲があるのです。この根底には日銀の公定歩合がゼロで張り付いたままでいることがあるのでしょう。その結果日銀自体が金融政策の上で、不能者化してしまいました。アメリカではグリーンスパン議長が一端ゼロレベルに落ちた金利を立て続けに回復する路線を取って金融政策復活の基盤を整備していますが、我が日銀の幹部達はなすすべもなく従来の路線を歩み続けています。公定歩合が実効性を持つまでに回復しますと、一番大きく影響されるのは国債の価格で、既発国債の額面価格は大暴落しますから、政府を初めとして日銀もその他大量の国債を保有している金融機関は再び危機に見舞われるのは分かりますが、今のままの預金金利で銀行がどんどん収益率を挙げて行くのはどうも納得できないことです。現状からどう抜けるのか設計図を日銀総裁なり財務大臣は見せて欲しいものです。銀行が自分達の収益性の飛躍的な向上を、この状態の中でぬけぬけと公言しても許されるこの土壌を誰も疑わない我が日本は不思議な国です。

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いま考えていること 202(2005年03月)
――「ヨーロッパ並みに」という発想に――

科学的にと言うことには一方で客観性のしっかりした原理・原則を心にもちながら, 今起こっている個々の事象をよく分析して、そこでは原理・原則がどのような制約を受けて、言い換えればどういう条件の下でその事象を生じさせているのかはっきりさせていくことを意味します。そういう意味では科学的ということは一般的な原則だけではなくて、いつでも個々の事象が起こっている条件の考慮と言う、極めて個別性のある作業です。

このようなことを改めて書く気になったのは、「混合医療」について全国保険医団体連合会副会長さんからご意見を受け取り その中に「先進諸国の中では(わが国は)GDP比で最低水準にあることや社会保障費に対する公的負担の割合が少ないのも事実で、この点についてはヨーロッパ並みに引き上げる必要があると考えています。」と書いてあったことが引き金になりました。「社会保障をヨーロッパ並みに」という言葉は先だっての衆議院選挙でもどこかの政党のポスターで見た記憶がありますが、言いたいのはたとい現状日本の社会保障が遅れていても、日本とヨーロッパとを単純に比較してその改善を求めるのはおかしいと言うことです。それぞれの「社会保障」がどういう条件の下で行われているのかを無視しては、とても科学的な提言とは受け取れないのです。少し考えただけでも少子高齢化の状況、消費税のパーセンテージ、財政赤字、国債残高、医療制度、介護制度、徴税基準、インフラの整備度などの違いが頭に浮かびます。これらの条件の分析を抜きにして「社会保障をヨーロッパ並みに」と提言するのは無責任なことだと思います。わが国の現在おかれている状況をヨーロッパ並みに改めない限り比較はあり得ないからです。状況を改めたのにもかかわらず、異常にわが国の社会保障が低劣であれば、初めて「ヨーロッパ並みに」と主張できるし、国民も心からその提言を支持するでしょう。私の結論としてはすべての条件を揃えることは不可能ですから、それぞれが自分の国の今おかれている条件を分析して、それにふさわしい施策を考案するしか道はないと思います。つまみ食い的にある側面だけ取り上げて「ヨーロッパ並み」にとか「アメリカ並みに」というのは願望としては分かりますが、科学的な提言ではありません。

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いま考えていること 203(2005年03月)
――呼吸とセロトニン――

謡曲は体に良いと昔から言われています。謡曲の見台の両側には三日月と瓢箪が装飾されています。私が師匠から聞いたのには、瓢箪は風流を意味するだけでなく,謡曲の発声も暗示しているとのことでした。先ずお腹に息を溜めて、それをから、にゆっくり流していくという三段の呼気を象徴しているとのことでした。

勝手な解釈ですが謡が体によいのはこの呼吸の仕方にあるのではないかというのが、私の考えです。現在毎朝寝床の中で軽く運動してから、前身の力を抜き、深く息をお腹に溜めて謡こそ謡いませんが、出来るだけゆっくり全部吐いていくのです。これを数回繰り返しますと、どういうものか尿意を催してきて、トイレに行き気持ちよく放尿できます。年齢のせいか尿がすっきり出ないで、残りがちなのですが、このときはすっきりするのです。

今朝(2005年3月4日)NHKラジオ第一“健康ライフ”では「いつまでも脳を若々しく」(浜松医科大学名誉教授…高田 明和先生)が放送されました。先生のお話では息を暫く止めると二酸化炭素濃度が脳で高まり、その結果セロトニンの濃度が増し、気持ちよくしてくれるということでした。

セロトニンは、脳の神経細胞間で情報を伝達する物質ですが、このセロトニンが少なくなると、うつ病になると考えられています。このセロトニンのおかげで、私たちは興奮したり楽しい気分になるといいます。謡が体によい原因は心地よい詞章を謡うことにあるのは言うまでもありませんが、謡うときの呼吸の仕方が軽く二酸化炭素の欠乏を起こしてセロトニンの分泌を促しているのかも知れません。呼吸では息の吐き方が吸い方よりも大事だと師匠から教えられたものです。吸うときは血液中の酸素濃度が高まるのですが、吐くときの仕方次第で二酸化炭素濃度が左右されます。ここに重要なポイントがありそうです。

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いま考えていること 204(2005年03月)
――日本テレビの問題を見て――

当然のことではありますが東京高裁の決定が本日出てフジテレビの増資の目論見は破れました。今回の事件はライブドアのやり口にも生理的な抵抗がないわけではありませんが、相互の持株というような絆を土台とする封建的資本主義から真の資本主義への移行の一つの象徴的な出来事とも感じます。マルクスの資本論を始め資本主義の弊害がこれまでも論じられてきましたが、日本ではこれまで真の意味での資本主義的社会はなかったと思われます。相変わらず自民党とその総裁である小泉首相との間の闘争は収まりそうもないように見えますが、おそらく1ヶ月後には満身創痍の姿にもせよ郵政民営化は実現するでしょう。それはかっての国家社会主義の最後の牙城の崩壊を意味し、正に時代の歩みに郵政民営化は合致しているからです。ライブドア側にも何も新しいビジョンが見られないという批判があるものの、西武の堤さんのやり方といい、これまでの封建的な側面を留めた資本主義の終焉を日本でもどうやら迎えたという感じです。おそらくこの事件を一つの象徴的出来事として、次第に日本社会はより純粋に資本主義的に変化していくでしょう。その結果が貧富の格差を増し、二極化社会は新しく問題を抱えていくでしょうが、一度は通らなくてはならない道なのでしょう。人間の世の中理想が実現することなど夢想であり、常に矛盾を生み、その狭間に苦悩することは避けられないのです。これまで世界で実現された社会主義に問題がなかったかといいますと、例えば人間はすべて働くことに喜びを感じるというような、現実の人間のだらしなさに目をつむった理想主義が根底にありますから、おそらくだらしない人間が安逸を貪り、その間に人間の生産活動の真摯さを失わせて、かってのソビエトロシアの例では、生産面での退嬰を招き、支配層の官僚的跋扈を招き、人びとの精神の自由を奪い去って崩壊を迎えたのでしょう。

中国の現実は古典的な社会主義の理想の姿とは著しく離脱していますが、資本主義の市場原理を大胆に取り込み、沿海部と奥地との貧富の差も是認するという大胆な政策が成功していると見るべきでしょう。13億の民衆はも必ずしも幸福ではないでしょうが、ともかくもすべての人が食べられ、統一した権威ある国家を保持している姿には見るべきものがあります。ある意味では典型的な資本主義社会後の実験的社会を歩んでいるとも見られます。

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いま考えていること 205(2005年04月)
――「現在」の位置――

今朝の「毎日新聞」は討論の広場で“若者の生きがいと格差社会”をテーマとし、また今夜のNHKは3時間にわたって“どう思いますか格差社会“という番組が予定されています。あるいはまた昨日発表された日銀短観を報じて「日本経済は「踊り場」からの上への一歩を踏み出せずにいる」(毎日新聞)と論評しています。

アナリストにも今までの日本社会のある種の平等感が失われていく現実から小泉改革の失敗を指摘する人もあります。私はホームページの中でも述べていますように、戦後60年間余脈を保ってきた、戦中日本の国民の生命財産についての全権を国が掌握することの代償に、革命を含む国民の不満の爆発を避けるために社会として最低限の生存保証をしてきた国家権力万能の社会主義的体制がどうにも現実に合わなくなってきて、今、崩壊の時期を迎えていると思っていますから、小泉改革は小泉さんの英知の産物などというものでなく、時の流れの現実が小泉さんを動かしていると判断しているのです。いわば必然性を持った流れが今動きだしていると見ているのです。国民全体がこの大きな流れの中に否応なく巻き込まれて、しかし動きは止められない現実があるのです。誰にも確たる未来への展望は描けない時期なのです。いくら空想の未来図を描いてもその実現性はあまりにも期待できないのです。あまりにも問題が大きすぎるからです。戦後の数年はみんなほぼ平等に貧しく、飢え、しかし民主主義が絶対的価値を携えて日本社会に持ち込まれ、昨日まで生命喪失の危機に日夜さらされていたところに戦争の永久放棄という考えが持ち込まれましたから、古い権力の全否定の中に私たちは異常な明るさを感じ、「良しこの路線で進もう」という合意がとりわけ若い世代にはありました。荒廃の中に新しい建設をしようという意欲が溢れていました。当時の社会の現実は泥棒もあり闇市で我先に欲しいものを手に入れようとするエゴももちろんあり、聖人君子の社会からは遠いものでした。爆撃で親を失った幼い子供でさえ、ひったくりをしてでも自活を迫られていました。

ニート・フリーターといわれる人たちが何百万もいることは決して今の日本は私が見てきたような貧しい社会ではなく、社会全体としてみると極めて豊かな社会で、ニートやフリーターを抱え込んで生活できています。戦後少なくともここ京都ではマイカーというものは島津の社長がGS(島津源蔵)バッテリーで走らせていた一台の黒い背の高い電気自動車くらいなもので、「アメリカでは街の中には自家用車があふれている」と聴くと遠い世界の話のようで、まさか日本にそういう日が来るなど夢にも思えなかったものです。現在の日本は貧しいといわれる人たちでも多くは自家用車を持ち、明日の食べ物を心配する必要は先ずありませんが、私にとっては不思議な世の中です。人間貧しさから抜け出そうという程強力なモチベーションはありません。今の日本はこの種のモチベーションは生まれない社会なのです。ある意味ではモチベーションを持てない不幸な時代です。

それでも現実の社会は動きを止めません。「日本経済は「踊り場」からの上への一歩を踏み出せずにいる」といっても私から見ると企業ごとの経営能力の違いが明瞭になってきているだけで、既にユニークな能力を世界に問うている企業が続々現れている反面、哲学の欠けた企業は取り残されているのだと見ています。日銀短観そのものの評価見方を考え直さなければならないのかも知れません。結論としては「今」はあるべくしてあり、今後どのような変化が起こるか預言は出来ませんが、必ず現れて来る変化(「万物は流転する」ヘラクレイトス)に対応できるように、どのような環境にあっても、日頃心して、洞察力の上でも知識の上でも体力の上でもまじめに体に蓄えていくことを怠ってはならない時だと思っています。自分に授けられている能力に忠実に耳を傾け、それを発揮しようとするのはいわば人間の本性であり、どのような環境に置かれてもついには開花の時期を迎えるものなのです。

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いま考えていること 206(2005年04月)
――近隣諸国との信頼関係――

ここ2,3日の中国での反日行動は極めて重要だと思います。何といっても少子高齢化を控えて「その時」を乗り越えて行こうとすれば、好みに合う合わないの問題ではなくて、日本はアジアの諸国と手を携えてその国々の発展と共同歩調を取らない限り衰亡の道を辿るほかないという現実です。その提携の本になるのは共通した相互理解しかなく、過去百年の日本の歩みに対する真剣な反省と進路変更の証ししかないのです。現憲法はこの進路変更の証しとして大変有効な憲法です。イラクの自衛隊がオランダが撤兵するとイギリス・オーストラリアに警護を依頼しなければならなかったのはその証しでもあります。過去の歴史から見て総理の靖国参拝が、どんなにアジアの犠牲になった国々の人びとに取って心情的に許すことのできない行動であるか、小泉さんには分かっていないのです。被害にあった人びとの心のレベルに日本人の考えが変化しないと相手は反省として受け入れてはくれないものです。過去の日本の責任を回避するためにアジアの人びとに「未来志向の重要性」を唱えてもそのまやかしは日本人である私にも読み取れます。

日本が現行憲法の非武装を土台とする平和主義に徹してこそ、新たに国連安保理事会にはいることの意義があり、ユニークな世界平和への貢献も期待でき、諸国の賛同も得られるのでしょう。現状では、日本の国連安保理事会入りはアメリカの票のウエイトを倍増するだけのものだという見方を私も否定できません。まして「日本は国連で拠出金が多い方から二番目だから」常任理事会に入って当然だというに至っては国連創設の根本精神さえ理解していない拝金亡者の戯言です。日本国にいても日ごと過去への回帰を感じさせられる昨今ですから。

韓国との間の竹島問題も鬱陵島問題との関連で論じられなければならない性格の問題のようですが、竹島は隠岐よりも鬱陵島に近く歴史的にまだいろいろ検証する必要がありましょう。まして正式に日本領としたのは明治政府でしたから、当時の日韓双方の力関係が絡み、本来韓国領であったという韓国の言い分も否定はできないのかも知れません。

この問題は尖閣諸島の問題とも合わせて、我々も真剣に口先だけでなく具体的な歴史検証行動を中国・韓国とも共同で行わなければなりません。その中から相互信頼も生まれ相携えて未来への平和的な展望も開けていくのでしょう。アジアに信頼されたかたちで日本が受け入れられないと少子高齢の日本は経済的にも崩壊するでしょう。ここ2,3日の大幅な株価の低落は日本の未来の予告的縮図だと思います。

今回の事件で中国学生のデモは暗黙の内に中国政府の応援があったかのような論調もわが国マスコミには見られますが、一党独裁の中国体制下ではかっての天安門事件のように本質的に民衆の自由なデモは政府にとって忌むべき物であり、抑えることがあっても政府が歓迎する動きでないことは分かり切ったことです。マスコミの一部のこういう見方は自らの不明を証明するものです。中国の官製マスコミが揃ってこの事件を報道していない事実がこれを裏付けています。

あるいはまた今回の学生の動きの原因として中国での愛国心教育の強化が槍玉に挙がっていますが、現在憲法改正の自民党内での論議で「愛国心」教育の強化が論ぜられ、東京都石原都政を中心に各地で国歌・国旗の強要教育が、今春も話題に上りました。この点も中国の態勢だけを軽々しく御都合主義で批判することは避けなくてはなりません。愛国心教育の弊害を経験した私からはどの国を問わず官製の愛国心教育は止めさせたいのです。愛国心は私がいま考えていること 142―日本の心―に書いたような自分が惚れ込んだ国を愛する、自分の心から自然に生まれてくる平凡な心なのです。この愛国心は単に教育で強制的に植え込まれた物ではない強烈な愛国心なのです。

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いま考えていること 207(2005年04月)
――京都迎賓館の完工――

赤坂の迎賓館はネオバロック様式でフランスのベルサイユ宮殿をモデルとして建てられた旧離宮です。昨日開館披露式典を挙げた京都迎賓館は純和風で日本にふさわしい 形態を持っています。計画段階から200億も使うのは社会保障費増額など必要な民生を無視したものだとか、御所の少年野球場を壊し市民の憩いの場を奪うとか批判が強く、反対の行動もとられたものですが、私は日本の迎賓館がフランスまがいであることに抵抗を感じていましたので、純和風の迎賓館ができることに賛意を抱いていました。場所が京都御所であることも新しい用地買収の必要もなく歴史的にも環境的にも適地はここしかないと思ったものです。京都は伝統工芸の保存地でもあり、京都でなければこのような大規模の工芸の集積地はありません。現に「能」の衣裳などの復元、新調も全国的に見て西陣でなければできません。しかし西陣は今滅びの道を辿っています。いくら市長が着物を着ても、和装は特殊な職業例えば演歌歌手、日本の伝統芸に携わる人、茶人などにしか機能的に適しませんから、一般の人が和装で日常の仕事に使うことなど考えられません。また純和風の木造建築も庶民のふところ勘定に乗りませんから先ず建てられません。しかしこの国には法隆寺を始め古い和風建築が数多くあり、仏像その他美術品に至るまで、古くからの技術が廃れては修理を伴う維持はできなくなります。これらの技術はいくら国が借金を抱え、社会保障を犠牲にしてでも維持し保存して行かなくてはならないのです。それが文化というものです。法隆寺の解体修理、法輪寺の五重塔の再興、消失した金閣寺の再建、薬師寺西塔の復元その他の新たに巨額の費用を投じて進められた事業はこういう必要な職人の技術の保存・養成の機会としても意味のあることでした。今回の迎賓館建設も同様の大きい意義をもつものです。

折角造った日本文化を象徴する和風迎賓館ですから、国もいろいろな機会に赤坂迎賓館よりもこちらを使って欲しいものです。

目先にだけ捕らわれない長い目で見て意味のある贅沢は、国と言わず個人でも心がけたいものです。それが精神も含めた真の豊かさなのです。

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