シュネシウス
[人物] 錬金術師の最初のグループの中には,神秘説の人そして崇高な人物,つまりヘルメース,イシス,アガトダイモーンが入っている。すべてこれらの名は,エジプトと,グノーシス派やポイマンドレースが援用するひとびとの系列に結びつけられている。トトと同人異名のヘルメースは,科学と古代エジプトの学術の保護者であった。あるものの言によれば2万,他のものの言によれば3万6500の古い書物に,彼の名がつけられていたのである。私は,アレキサンドリアのクレメンスによって前に荘厳な行列の情景を描いたが,その行列の中では,これらの本は儀式に使われたのである。魔術,占星術,化学についての秘密の著作品がヘルメースに由来するとされていた伝統は,長い間残った。 物を変質させうる作用物として,はじめはスズ,後に水銀が,彼によって認められていた。化学は中世までヘルメースの科学という名がつけられていた。事実ヘルメースの名をつけた錬金術の著作品がいくつかあった。これらはゾーシモスによって、ステファヌスによって、またわれわれの写本の他の多くの著作家たちによって引用されている。 (ベルトゥロ『錬金術の起源』p.128-129) 謎(表題なし) (Aenigma)(sine titulo) (e. cod. Venet. Marc. 299, fol.95) 4525 001 2 115 10 2009.03.08. 訳了。 [参考] ルランドゥスはこう書いている、「想像 imaginatio」とは「人間の内なる星辰、すなわち天体ないし超天体である astrum in homine, coeleste sive supracoeleste corpus.」。この驚くべき定義は、「作業 opus」に随伴する空想過程に、まったく常識を超えた、独特の照明をあてる。つまりわれわれは空想像というと、つい実体のない妄想のようなものを考えがちであるが、「作業 opus」に随伴する空想過程の場合は決してそのようなものと受取ってはならず、体(corpus)をそなえたもの、すなわち半ば霊的性質の一種の霊妙体(corpus subtile〔捕捉しがたい神秘体〕)と考えなければならないのである。経験的な心に関する心理学がまだ存在しなかった時代には、心的事象を有体と見るこのような具象化は必然の成行であった。というのも無意識的なものはすべて、それが何らかの活動を起せば必ず物的なものに投影されたからである。つまり無意識は内からではなく、物的なものを通じて外から人間に歩み寄ってきたからである。無意識はいわば、未開人の心理によく見られるような精神と自然との間(あい)の子(geistig-physisches Zwitterwesen)、すなわち一種の具象物であった。そういうわけで「想像imaginatio」もまた自然的行為の一つとして物質的諸変化の循環の中に位置しており、物質の変化に影響を及ぼすとともに、逆に物質の変化から影響を蒙るのである。錬金術師はこのような形で単に無意識と関係を持っただけでなく、物質とも、それも直(じか)に関係を持ったのであって、彼らは「想像 imaginatio」によって物質を変化させたいという希望を懐いたのであった。「人間の内なる星辰」という文句の「星辰 astrum」という特異な表現は、もともとパラケルススの用語であるが、ルランドゥスの文脈ではほぼ「精髄 Quintessenz に近い意味に使われている。それゆえ「想像」とは、人間の肉体的かつ心的なもろもろの生命力を一つに集めたエッセンスである。このように考えれば、真正の術者は健康な体質をしていなければならないという要求も、容易に肯ける。つまり錬金術師はほかならぬ自分自身の精髄を用いて、自分自身の精髄を通じて作業を行うわけであって、それゆえ彼みずからが自分の行う実験の欠くべからざる条件なのである。ところで、自然的なものと精神的なものとの融合というまさにそのことのゆえに、錬金術過程における究極的な諸変化は、これを主として物質的領域に求めようとしているのか、それとも主として精神的領域に求めようとしているのか、この点は常に暖味なままであった。しかし実は、このような問を立てること自体がそもそもおかしいのである。あの時代にとって「あれかこれか」などというものは存在しなかったからである。存在したのはただ、物質と精神との中間領域、すなわちもろもろの霊妙体から成る心的領域だけであった。そして、精神的な現象形態であろうが物質的現象形態であろうがどちらも等しくとりうるというのがこれらの霊妙体の特徴だったのである。唯一このように見てはじめて、錬金術的思考過程の矛盾や不合理はわれわれの理解の手の届く範囲内に入ってくる。むろんこの中間領域は、人々がいかなる投影をも排して物質それ自体を探究し始めると、その時点でたちまち存在しなくなる。そして、霊妙体から成る中間領域は、人々が物質と心のそれぞれについて究極的なことを知っていると信じ込んでいる間は、非存在のなかにあり続ける。しかし自然の学〔自然科学〕が「未だ人智の及ばざる、また人智の及ぶべからざるもの」に突き当る瞬間、と同時に心理学が、個人の意識が獲得しえたものの他にも心の存在形態はあるのだということを認めざるをえなくなる、換言すれば、心理学が自然の学の場合と同様に測り難い闇に突き当る瞬間 この瞬間が到来するやあの中間鎖域は再び新な生命を獲得し、自然的なものと心的なものとは再度融合して分ち難く一つに結びつく。われわれは今日、まさしくこの転換点のすぐ手前まで来ているのである。 |