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back.gif錬金術断片集

ギリシア語錬金術文献集成

TLG2019

ペラギウス

001
この神的にして聖なる術知について



人物

 紀元後3〜4世紀の錬金術師。
 後354頃〜420頃の、ブリタンニア出身、古代末期キリスト教の修道士ペラギウス派の祖と混同される(ベルトゥロ『錬金術の起源』p.113の訳註も)。


哲学者ペラギウスの〔書〕『この神的にして聖なる術知について』
(Pelagivou filosovfou Peri; th:V qeivaV kai; iJeravV tevcnhV)

(e cod. Venet. Marc. 299, fol. 62v)


2019 001 2 253 1t
哲学者ペラギウスの〔書〕『この神的にして聖なる術知について』

 高祖にして恋慕さる、影響力のある哲学者たちが謂ったのは、あらゆる術知は、その目的を生のために考案するということである。例えば、大工術が1つである所以は、椅子とか箱とか船とかを、材木という1つの自然から作るからである。したがって染色術が考案された所以も、一種の染色や性質を作るからであり、これがまたこの術知の目的でもある。残りもまた、古言から正しく由来していることを知るべきである。つまり、「銅は染色せず、染色される。しかし染色する場合は、染色する」。それゆえ同様にまた、あらゆる書き物が銅を強打しているが、それは染色するためである。なぜなら、染色するなら、そのとき浸漬し、染色しなければ、述べられているように、浸漬することはできないからである。それゆえ、銅が無影となるよう励ますのは、それの影をかなぐり捨てて、染色を受け容れることができるためである。そこで銅の影、つまり銅から銀の中に内生する黒色を考えよ。なぜなら、銅が処理され、銀に加えられると、内側からも外側からも、これを黒化させることを汝は知っているからである。そこで、この黒化をば、銀の中に生ずる影だと諸書は言っているのである。このためにこそ、銅は処理されなければならない。もはや黒色をつくることができなくなるまで、銀の中に投入されて。

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 かくのごとく、銅すなわち自然の金は処理されなければならない。銀の中に黒化を何ひとつ作りこまなくなるまで。それ故にデーモクリトスも言ったのである。「銅を、無影になったかどうか、検査せよ。万一、銅が無影にならなければ、銅を非難するのではなく、汝自身を非難せよ」。

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 銅が神的な水によって処理されるのは、発酵、粉末化、焙焼、洗浄によってである。「洗浄されるのは」と彼は謂う、「それのイオスが全体的に抜けるまでである」。そしてここにおいて哲学者たちが云っていることを思い出せ。「銅の脱イオス化、黒化、それから白化の後、黄化は確実となる」。そういうわけで、イオス化が神的な水に起こる。脱イオス化は、洗浄によって。黒化は、洗浄の前に黄玉が混ざったときに。精練は、黄玉によって粉末化された場合に。白化は、軽石で研いて乾燥される場合に。黄化が起こるのは、黄化することのできるものらを接触させたり、小さな牛糞の中に入れたりする場合である。これら6つの変化が銅に起こるのは、染色のためである。そして、すべて〔の変化〕が起きなければ、何ごとも起こらない。あたかも、無影の銅が黄色くならなければ、何ごとも起こらないように。

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 そこで先ず、銅を染色し、変化させ、打ちのめせ。そしてそういうふうにして神的な水によって完全なイオス化を実行せよ。完全なイオス化とは、発酵による金化〔金鍍金〕と考えよ。というのも、これを謎めかして個人は言った。「作る人は金のようなものを作る。しかし作らぬ人は、何ものをも作らぬ。汝が完全な金化を神的なものの中に見るとき、そのとき完全なイソス化を実現したと考えよ。神的なものの出現によって花開いた〔イオス化〕のみならず、深みに〔花開いたイオス化〕をも」。ところで、徴候はイオス化が始まるときにある。内部に起きたイソス化こそ、真実のイオス化であり、これはまた金のイオスが翻訳されたものでもある。<しかし>イオス化そのものが起こらなければ、何ものも起こらない。そこで、深みに起こるために考察せよ。さもなければ、イオス化は何もなく、これと黄化は、〔次のように〕言う哲学者によってとくに述べられている。「火石を取って、黄色くなるまで処理せよ」。銅を火石と呼ぶのは、自然の炎熱に曝されたものだからである。こういうふうにそれが生じなければならないのは、完全なイオス化が起こるためである。

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 まさしくこのようにして脱イオス化へと移行せよ、ここでもまた、「脱イオス化が起こるまで」と書き留められる。最初に黒化があり、それから脱イオス化が付随する。そこで黄玉1部分、マグネーシア3部分を取って、いかなる湿もなしに粉末化せよ。そうすればもはや白い硫黄に属するものは現れない。むしろ、書字用の黒〔墨〕のように完全に黒くなる。これを3日間放置し、それから水槽の中に取って、放置された染水で洗浄するべく投入し、こすりなおし、洗い流せ、そうすれば硫黄で包囲されるのを汝は目にしよう。いったいどのように処理されるのか。いったいどのようにして焼かれない 256.1 自然を得るのか。銅の火石を火を通さぬ硫黄の鉛と呼ぶからである。黄玉は毎年洗浄せよ、それのイオスが出て行くまで、と彼は謂う。まさしくそのようにして、銅が鉛の中に残留しても、何ものも立ち去ることがない。これこそが大いなる浄化と呼ばれるものである。これこそが脱イオス化と呼ばれると同時に黒化と呼ばれるものである。黒化とは、混合によって黒化されるからであり、脱イオス化とは、イオスからの脱出にして、洗浄とも呼ばれる分離ゆえである。かくしてこれを容器の中に受けて、固まるに任せよ。そうして染水を濾して、その澱を乾燥させよ、これが筆者用の黒〔墨〕のようになるのを見出すであろう。これを、完全な?色になるまで磨りつぶせ。これを引っ繰り返し、固体から4部分、?色1部分、鉛1部分をそうして、泥になるまで暫時湿らせよ。そうして、鉛が蒸発するまで少しずつ滴下し、乾燥するに任せよ。ここに観想を凝らせ。

 古のゾーシモスは言った。わたしは1つの処方を知っている。それは2つの作業を含む。1つは、固体性によって流動するためであり、第2は、鉛の湿性が乾燥させられるためである。そのように今も、乾燥させつつこしらえ方せよ。まさしくそのように軽石等量を投入し、ゲラニオスによる酸で、白くされるまで練れ。白ができるまでである。懈怠することなく白化の好機を注目せよ。というのは、懈怠が起こるのは、この白化によって銅が、その土的超越性や身体の嵩をすべて脱ぎ捨てて、無影となるという、あの美に注目しないからである。だから、銅が無影として白化され 257.1、霊的なものとなり、以降は他に何ものも残さないなら、何ものも欠けることはない。ただ乾燥され白化されるためだけのほかは。次のように思惟せよ。注がれたものはすべて、あらゆるものを脱ぎ捨てる。そうして、何ものもとどまらない。金と鉛と、黄玉と呼ばれるエテーシオス石以外には。そこで、乾燥剤を甘くして、甘くしたうえで、静置し、銅の花〔緑礬水〕3部分、マグネーシア1部分、銅1部分を等量にし、乾燥剤1部分を等量とせよ。日光の中で、7日間、白の酸から滴下しつついっしょに練れ。その後、乾燥させ、牛糞の中に埋めて、2ないし3日間焼けるに任せ、取り出せば、金が血のように火色に染色されたのを汝は見出すであろう。これこそ哲学者たちの硫化水銀であり、無影の黄色い銅である。次のように古人が言ったことを思い出せ。「銅は無影となると、あらゆる体を染色する」。それゆえ、哲学者も言った。「自然物が一であり、ひとつの自然が万物に打ち勝つとき、諸君と多数の質料にとって何があるか」。自然本性的に金である「自然物」のことを彼は言っているのだということに気づこう。なぜなら、自然におけるこの金こそが、前提となる体の全体に打ち勝つからである、あたかも、鉄とか銅を塗布されたものが、自然の金を鮮明にして、それらの出現に打ち勝つように。

 だから、神的な水によって分解されるのはかくのごとくであり、発酵するのは、パンの酵母のように、したがってまた均等に錬られた黄玉の〔酵母〕のごとくである。そうして、水がその自然にしたがって発散するのは流動性のせいであり、黄玉が得られるのは、自然体の絡み合いによってである。ゾーシモスが〔言った〕。「自然の金は、258.1 黄玉によって霊的なものとなって、自然に染色する」。また、銀も、神的な水によってわれわれが分解し、黄玉によって霊的にすれば、銅を白く染める、とも。このことは、他のものらによっても彼は言った。というのは、2つの染色は相互に何ら異ならず、ただ色のみ、すなわち、一にして同じ処理を有するのであり、それに基づいて、また神的な水によっても第一に錬られ、黄玉によって霊的乾燥剤となる。色の点で異なるのは、それらの各々は固有の自然にしたがって染色するということである。金は金を、銀は銀を。〔しかるに〕汝は、最古の人が言っているのを聞かない。「穀物を播く者は、穀物を生み収穫し、金は金を生む。同様に銀も銀を生む」。

 それゆえ、古人は次のようにも言った、「自然のものらを使おう」と。で、必然的なことは、金は自然に染色するのであって、それが神的な水によって先に分解されるとか、後から黄玉によって霊化されるとかいうことを例外としないということである。自然に固体とも呼ばれるものだからである。先にも分解され、後にも霊化されなければならない。まさしくそうしてあらゆる自然物によって染色するのである。というのは、その他の2つは固有の自然にしたがって回避され、火の中で焼かれると焼失するからである。このことから古のゾーシモスは言った。「これこそ金の染色(crusobafhv)の神秘であるということ。彫刻の際に霊的に染めるために、体でありながら霊となり、定着を帰属させないというのが。というのは、固体であるから、先ず液化し霊的とならないかぎり、染めることができないからである。これ〔固体〕を稀薄にするのは、先ずは神的な水である。後に霊化するのは、黄玉である。そこで、われわれは書き留めよう、2つの体の固有性に応じて2つの染色があるとき、その他のものらは仲介するかのように染色を変えたり分け与えたりする。変えるものとは、分解したり、霊化するものであり、分け与えるものとは、溶解炉である、と。また、われわれは残りを書き留めなければならない、塗布される金、あるいは銀、あるいは鉄、あるいは銅が、酵母によってあらかじめ腐蝕されなければ打ち勝つことがないように、金も銀もあらかじめ腐蝕されなければ、乾燥剤を滴下することのできるもの自体も、染水の中で腐蝕される  今このように打ち勝つこともない、と。それゆえ、自然は自然を喜ぶ」云々。

 すなわち、同じことが体についても、神的な水についても、金-石についても、腐食性の染水についても、理解されると考えよ。というのは、はたして体の自然は喜ばないのか。水の自然によって養われ、濃厚にされ、生長させられることで喜ぶ。はたして銅は、喜ばず輝かぬものであるが、神的な水の喜ばしき、このうえなく輝かしい自然の有性によって喜び輝くのではないか。はたして、より肥満にしてより地上的な身体の自然は、霊的にして大気的な黄玉の自然によって打ち負かされるのではないか。はたして、腐食性の酵母によって、塗布された金や銀のように、鉄ないし銅の中で支配されるのではないか。これらのことを万人に共通に同意しなければならない、鉄ないし銅が塗布されて腐蝕されなければ、金ないし銀が支配することはないが、260.1 腐蝕されれば、そのとき塗布され、そのとき、腐蝕するものの力によって支配するのだ、と。

 しかしながら、彼に向かって以下のことを述べる人がいる。金ないし銀が、2つの染色の作品のように乾燥剤としてつくられるなら、どうしてイオス化や脱イオス化や精練や黒化、次いでそういうふうにした後で白化が付随するのか。そのとき、先に書かれたことによって、乾燥化が確実となる。そしてわれわれが言うのは、両方の染色において、あらゆるものらが力に付随する。なぜなら、イオス化とは、神的な水の中での分解であり、脱イオス化も精練も、黒化も、生成後の白化も、その後の確実な黄化も、力によるのみならず、活動(ejnergeiva)によって、金が白くなることに先立ってすべてが付随するのであり、その後で黄化が確実となり、ついには霊的な目的が完成され、いっしょに理解されるであろう。だから、哲学者がこう言うのは、正しく言ったのだ。「おお、天的自然、諸々の自然の造物者たちよ」、造物の仕方で、神的なものらの2つの自然は、混合の湿により、有性の乾により、諸体の地上的自然を霊的にして染色的なものとして造物した。なぜなら、これら神的なものらの天的な諸自然は、力あるものらとして挙げられるとは解釈されないからである。故に続けて彼は言う、「雲と水を除けば、蒸留(a[rsiV)は何ものも残らず、何ものも欠けることはない、『他に期待されるものは何もない』と云う以外は」。彼は謂った、「他〔の蒸留?〕は、水の雲のように、体が篩にかけられ、再び水がそれから蒸留される、見よ、要素の構成されたものの全体を。

 蒸留とは、希薄化と解釈される、水の注入が、体の化合から 261.1 蒸留され希薄化される代わりに。しかし、言及の中では、2つの染色のために、乳鉢と乳棒によってつくることでわれわれは満足する。だが、銅のためには、祭壇型の酒盃の上で。また、このことについてゾーシモスが言ったということも。また、植えつけられた樹木、潅水される植物、大量の水によって腐敗させられたものと、大気の湿と温によって生長させられたものから花密を集め、多くの甘さと自然の性質によって収穫をもたらすことをも。

2014.11.09. 一応、訳了。




 
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