「黄金の華の秘密」註解(1/7)
C・G・ユング
「錬金術研究」I
『黄金の華の秘密』註解
(2/7) |
1.ヨーロッパ人が東洋を理解することは、なぜむつかしいのか
1
私はあくまで西洋的にものを感じる人間であるから、この中国の書物をつくづく奇妙なものであると感じないではいられない。たしかに東洋の宗教や哲学に関する私の少しばかりの知識は、これらの事柄を理解するに当って、私の知性や直観に助けを与えてくれる。それはちょうど、未開人の宗教的直観がもつ逆説的内容を"民族学的"に、あるいは"比較宗教学的"に把握することができるのと同じことである。これこそ正に、いわゆる科学的理解という隠れ蓑の下に、自分の内心をつつみ隠す西洋流のやり方なのである。われわれがこういう態度をとるのは、一つには「知者のあわれむべき気どり」が、対象に対して生き生きした共感の情を示すことを恐れるとともに嫌うからであり、また一つには、共感をもって把握する場合には、異質の精神との接触が真剣に対処しなくてはならない自己の体験にまでなってしまうかもしれないからである。いわゆる科学的客観性の立場からいえば、この書物は中国学者の文献学的明敏さにまかせるべきものであって、専門家的嫉妬心によって、他のどんな取扱い方も認めないということにならざるを得ないだろう。しかしリヒアルト・ヴィルヘルムは、中国の智恵のひそやかで神秘にみちた生命力について深い認識をもっている人なので、このようにすぐれた洞察を秘めた珠玉を専門科学の引出しの中にしまいこんでおくことはできなかったのである。彼が、心理学的な注釈を加えるようにと私を指名してくれたことは、私にとって少なからぬ名誉であり喜びである。
2
ただしこのように専門の壁をこえた認識をもつすぐれた宝は、それとともに、他の専門科学の引出しにしまいこまれてしまう危険もあるわけである。とは言うものの、西洋の学問がなしとげた功績にけちをつけようとする者は、ヨーロッパ精神のよって立つ枝を鋸でひき落すことになるであろう。科学はたしかに完全な道具ではないが、はかり知れない価値をもつすぐれた道具である。それが害を及ぼすようになるのは、科学が自己目的化してしまうときである。科学の方法は必ず役に立つはずのものであって、それが誤りに陥るのは王位を奪おうとする場合なのである。それは、並列する他の科学の諸部門に奉仕しなくてはならない。というのは、科学の各部門はそれぞれに足りないところがあるため、他の部門によって支持される必要があるからである。科学は西洋精神の道具なのであって、人はこれを用いることによって、素手によるよりも多くの扉を聞けることができる。科学はわれわれの得た知識の一部分をなすものであって、それがわれわれの洞察をくもらせるのは、科学による理解が唯一のものであると主張する場合にかぎられる。しかし東羊はわれわれに対して別の、より広く、深く、高い理解のしかた、すなわち生命を通じての理解を、われわれに教えてくれる。われわれはこういう理解のしかたについては、ぼんやり知っているだけで、それを宗教的な表現法から生れた単なる幻のような感情だと心得ているので、東洋的な"智恵"というものはよく引用符でかこまれ、信仰と迷信の交錯するあいまいな領域へと追いやられてしまうのである。しかしこのように扱ってしまうと、東洋がもっている「具体性(Sachlichkeit)」は全く誤解されてしまうことになる。それは決して、感情過多で過度に神秘的な、禁欲的隠者やひねくれ者の抱く病的なものと紙一重の予感といったものではない。それは中国的知性の精華が生み出した実際的な洞察であって、それを過小評価してよいような理由はどこにもないのである。
3
この主張は、あるいは大胆なものと思われるかもしれないし、そのために不信の念をひき起すかもしれないが、研究対象となる素材についてほとんど何もわかっていないということを考えれば、それも驚くにはあたらない。のみならず素材の異質さが非常にきわ立っているので、中国的観念世界をわれわれ西洋の観念世界と、どのように、またどこで結びつけることができるかという点について、われわれが困惑におちいってしまうのも無理はないのである。東洋の智恵を理解するというこの課題に立ち向うとき、西洋的人間がいつも犯す誤りは、『ファウスト』に出てくる悪魔にだまされた学生のように、科学を軽蔑してそれに背を向け、東洋的悦惚境に感じ入ってしまい、ヨーガの修行を文字通りに受け入れて、あわれむべき模倣をするようになることである(神智学はこういう誤りの例である)。それとともに彼は、西洋精神の唯一で確実な基盤から離れてしまい、ヨーロッパの頭脳から生れたものでもなければ、またヨーロッパの頭脳に有効に接木することもできないような、言葉と観念の混沌の中に迷いこんでしまうのである。
4
ある古代中国の賢者はこう言っている。「正しい手段でも、誤った人間が用いれば、正しくなくなる」〔太乙金華宗旨、第8章42節〕。この中国の格言は、残念ながら、正にその通りなのである。こういう考え方は、"正しい"方法はそれを用いる人間に関係なく正しいと考えるわれわれ西洋人の信念とは、きわだった対照をなしている。現実には、この種の〔人生の〕事柄においては、すべては人間次第なのであって、方法のいかんはあまり関係がないのである。方法というものはただ、人間がえらぶ道であり、また方向であるにすぎず、彼がどのように行為するかというそのあり方こそ、彼の本質を真に表現しているのである。そうでない場合には、方法というものはただもったいぶるだけのもので、わざとらしくつけ加えられた、根もなければ生気もないものになってしまい、自分をかくすという不当な目的に仕えるだけのものになってしまう。そのような方法は自分自身をあざむく手段であり、みずからの存在を脅かすおそれのある無慈悲な法則から逃避する手段ともなってしまう。こういう態度は、中国的思考の大地に根を下した性質や真実さとは全く縁遠いものである。それは逆に、みずからの固有の本質を放棄することであり、見知らぬ不純な神々にみずから身を売ることであり、また〔方法で武装することによって〕心理的優越を無理に手に入れようとする臆病な手口であって、すべて、中国的な「方法」の意味するところとは、最も奥深いところで相反する態度なのである。というのは、中国的洞察は、完壁かつ純粋で真実にあふれた生き方に由来するものであって、奥深い本能的直観にもとづきつつ、首尾一貫して、本能的直観と離れがたく関連しながら成長してきた、あの太古の中国の文化的生から生まれ出ているのである。このような生き方は、われわれ西洋人に全く縁遠いものであって、到底まねのできないものである。
5
西洋人が東洋のやり方をまねすることは、二重の意味で悲劇的な誤りである。形だけの模倣は、ニューメキシコや幸福な南海の島々、そしてまた中央アフリカへと放浪する現代のヒッピーたちの行動と同じように、不毛であるとともに、心理学的と言えない誤解からきているからである。そういう場所にゆくと、西洋文化に育てられた人間が、彼自身の為すべきさし迫った課題 「ここがロードスなのだ、ここで飛べ!」という教訓 をこっそり避けて、大まじめで"原始"的な生活を演じているのがみられる。生命体として異質なものをまねしたり、さらにはそれを宣伝したりするようなことは重要ではない。大事なことは、さまざまの病気をわずらっている西欧の文化を、この西欧という場で再建して、たとえば結婚問題や神経症、社会的政治的幻想、あるいは世界観の方向喪失に悩んでいる現実のヨーロッパ的人間を、その再建された場所へ、西欧的日常性において連れ戻すことなのである。
6
本音をいえば、われわれ西洋人は、この中国の書物の浮世離れした性格を理解することもできないし、また理解しようとする気もないということを、はっきり白状した方がよいであろうと思われる。あの賢者たちは、彼らの本性からくる本能的要求を十分に満足させたからこそ、それほど妨げられることもなしに眼にみえない世界の本質を見通すことができたのであるし、またこのように内へ眼差しを向けることのできる心的態度によってこそ、あれほど世界から超然としていることができたのだということを、われわれは探り出せばいいのではなかろうか。もしかしたら、われわれを感覚的なものに縛りつけているあの欲望や野心や情熱から解放されることによって、そういう直観も可能になるのであろうか。そしてその解放は、まさに本能的要求の意味深い充足から生じるものであって、あせって不安にかられた本能の抑圧から生じるものではないのではあるまいか。精神的なものに対する眼差しは、大地の法則に従うときにのみ自由になるのではなかろうか。中国文化の歴史に眼を注ぎ、さらに、数千年来あらゆる中国的思考様式をつらぬいている智恵の書物である『易経』を慎重に研究した人ならば、このような疑問が起っても、そう簡単にそれを否定したりはしないであろう。さらに彼は、われわれのこの書物が意図するところは、中国人の感覚からすればそれほど突飛なものではなく、それどころか当然すぎる心理学的帰結であるということを知ることであろう。
7
人間の精神と精神がもつ情熱とは、われわれ西洋人に固有のキリスト教的精神文化にとって、長い間たしかなものであり、追求するだけの価値あるものであった。中世が遠く没落し去ったあと、つまり十九世紀が経過する間に、精神は次第に知性に変質してしまったのであるが、ごく最近になって、知性主義の優越に我慢できなくなった反撥作用が起ってきた。もっともこの反撥は、当初、知性を精神と混同し、知性の悪行を精神のせいにして告発するという誤りを犯したのだが、これはいたし方ないことであった(クラーゲス[02])。知性が精神の後継者になろうと思い上る時には、それは全体的なたましいを傷つけてしまうようになる。知性には、精神の後継者になれるような資格はないからである。"精神"とは、知性ばかりでなく感情をも含むものであって、知性よりも高いものだからである。それは超人的な明るい高みへと向おうとする生の方向であり、また原理でもある。ただし精神には、それと対抗している女性的なもの、暗いもの、大地的なもの(陰)があって、それは、長い時間の深みの中へ、また肉体の大地との根源的連関の中へと降ってゆく暗い情動性と本能をともないつつ、精神に対抗しているのである。このようなとらえ方は純然たる本能的直観にすぎないけれども、人間のたましいの本質をとらえようとする場合には、なくてはならないものである。中国はまさにこういうとらえ方を必要としたのであった。中国は、その哲学史が示しているように、たましいの中心的事実から遠く離れて一つ一つの心的機能だけを一面的に誇張したり、過大評価したりするようなことは、決してしなかったからである。したがって中国は、生あるものにそなわった逆説性と二元対立性を認めそこなうようなことはなかったのである。相対立するものは常に均衡を保ちつづけてきた これこそ高い文化のしるしなのである。一面性というものは、たしかに衝撃的な力を与えはするが、それは実は野蛮のしるしなのである。西洋では今日、エロスを讃美し、あるいは直観を讃美して知性に反抗する反動的な動きが起っている。私のみるところでは、これはむしろ文化的な前進のしるしのように思われる。つまりそれは、暴君のように力をふるう知性の狭い限界を越えて、意識が拡大してゆくことにほかならないのである。
8
私は、西洋的知性のおそろしいほどの分化発展を過小評価しようなどとは思っていない。西洋的知性に比較すれば、東洋的知性など子供みたいものである(むろんこれは、いわゆる知能とは全く何の関係もないことだ)。もしわれわれが、現在知性に与えられているような高い地位に、別の、あるいは第三の心的機能をつかせることができるなら、西洋は東洋をはるかに越えるだろうという期待ももてるのである。したがってヨーロッパ人が自分自身を捨てて東洋のまねをして気どるなどということは、大変歎かわしいことなのである。ヨーロッパ人が自分自身でありつづけつつ、みずからの流儀と本質に従って、東洋が数千年の経過の中でその本質に従って生み出してきたものすべてをさらに発展させることができるならば、ヨーロッパ人は大変な可能性をもつことになるであろう。
9
一般的にみると、そしてまた知性の救いようのないほど皮相な立場からみれば、東洋が大きな評価を与えてきたものは、われわれ西洋にとってあえて望むほどの価値あるものではないようにも思えるであろう。単なる知性は、東洋的理念がわれわれに対してもつかもしれない実践的重要性を、さしあたり何とも理解できないからである。そのため知性は、東洋的理念を、哲学的また文化人類学的な骨董品として分類することしか知らない。こういう無理解はひどいもので、学識のある中国学者たちでさえ、『易経』の実践的適用について何も理解せず、この書をわけのわからぬ呪文のょせ集めとみなしてしまったほどなのである。
|