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back.gif「黄金の華の秘密」註解(2/7)

C・G・ユング
「錬金術研究」I

『黄金の華の秘密』註解

(3/7)




2.現代心理学が理解を可能にする

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 私の場合、自分が実際的な経験をもつことによって、東洋的な智恵に対する新しい、予想もしなかった道がひらけてきたのであった。その際 — これはよく言っておきたい点であるが — 私は、中国哲学について不十分ながら多少の知識をもっていてそこから出発した、というわけではない。むしろ私は、中国哲学については全くの無知のうちに、実地の精神科医として、また心理療法家として、自分の経歴を始めたのである。そしてその後の医師としての私の経験は、私が自分の技術によって、何千年来東洋の最もすぐれた精神の持ち主たちが苦労して開いてきたあの秘密の道へと無意識のうちに導かれていたのだ、ということを教えてくれたのである。これは全く勝手な私のうぬぼれと思われるかもしれない — 私がこれまで公表をためらってきた理由もそこにある。しかし中国の魂についてよく知っているヴィルヘルムが率直に右の一致を私に保証してくれたので、私は中国の書物について書く勇気を与えられたのである。この書物は全く、東洋の精神の神秘にみちた闇に属しているものである。しかしその内容は、同時に — これは大変重要なことであるが — 一人の中国人も入っていない私の患者たちの心の発展の過程で生じたことと、生き生きした対応を示しているのである。

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 この奇妙な事実を読者によく理解してもらうためには、次のような事実を指摘しておかなければならない。人間の身体があらゆる人種的相違をこえて共通の解剖学的構造を示すのと同じように、魂(プシケ)というものも、あらゆる文化と意識形態の相違の彼方に共通の底層を有しているものであって、私はそれを集合的無意識と名づけたのである。この無意識の魂は、意識化され得る内容から成り立っているものではなく、ある種の同一の反応へと向う潜在的な素質から成り立っているのである。集合的無意識という事実は、あらゆる人種の相違をこえて脳の構造が同一であるということの心的な表現なのである。そこから、さまざまな神話のモティーフや象徴の間に見出される類似性あるいは同一性、さらには人間の相互理解の可能性一般が同一性を示すという事実も、説明がつくようになるのである。心の発展のさまざまな方向は、一つの共通な根底から出発しているものであって、その根は、あらゆる過去の発達段階にまで達している。そこには動物との心的類似さえ存在しているのである。

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 純粋に心理学的にみれば、ここでは、表象(想像)し行動する本能における共通性が問題なのである。あらゆる意識的表象と行動とは、この無意識的範例の上に発達してきたものであって、いつもそれと関連しあっている。特に、意識がまだあまり高い明晰さにまで達していない場合、言いかえれば、意識がそのすべての作用において意識された意志よりもむしろ衝動に、また理性的な判断よりも感情によって動かされている場合がそうである。この状態は、原始的な心の健康を保証しているものであるが、しかしそれは、より高い道徳的行為を必要とするような状況が現われてくると、たちまち適応性を欠いたものになる。本能というものは、全体としていつも同じ自然状態のうちに埋めこまれている個体にとってしか、十分役に立つものではない。したがって、意識的選択よりも無意識的なものに依存する個人は、断乎たる心的保守主義に向う傾向がある。原始人の考え方が何千年にもわたって変化せず、あらゆる見なれないものや異常なものに対して恐れを感じる理由もそこにあるのである。場合によっては、彼らは不適応状態にみちびかれたり、それによって重大な精神的危機、つまり一種のノイローゼにおちいったりするかもしれない。異質なものを同化することによってのみ生じてくる、より高度の、またより広い意識は、自律的態度へと向い、古き神々に対する反抗へみちびく傾向もある。古き神々とは、それまで意識を本能への依存状態に止めた強力な無意識的範例に他ならないのである。

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 意識と意識された意志とが力づよいものになり、より明晰になってくればくるほど、無意識的なものは背景に追いやられてしまう。意識の形成のしかたは容易に無意識的範例から解放されてしまい、自由を得て、単なる本能に支配されていた状態を打ち破り、ついには本能から解放された状態、またはそれに反抗する状態にまで到達することもあるのである。この根を引きぬかれた意識は、もはや元型的イメージの権威に頼ることができなくなるので、一面ではたしかにプロメテウス的自由を有してはいるのだが、反面では神を信じぬ倣慢さをもそなえているのである。この根を失った意識は、事物の上を、さらには人間の上にも漂っている。個々の人間にとってすぐに転倒の危険があるというわけではないが、社会の中にある弱者たちは、プロメテウスと同じように無意識によってコーカサスの山に集団的にしばりつけられるようになってしまうのである。賢明な中国人ならば、『易経』の言葉を借りてこう言うであろう。「陽」のカが頂点に達すれば、その内部に「陰」のくらい力が生れてくる。なぜなら、夜は、「陽」が衰えて「陰」に移ってゆく正午から既に始まっているからである、と。

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 医師というものは、そのような運命の急転回を、生けるもののうちに文字通り移しかえて眺める立場にいるのである。たとえば、死や悪魔の危険を全く意に介しないで、欲するがままにすべてを獲得し、成功の高みにまでかけ上った成上りの実業家が、職業活動から引退するとまもなく神経症にかかってしまうような場合がある。そのために彼は、愚痴っぽい泣き虫女のようになってしまい、ベッドに縛りつけられて、いわば最終的に破滅してしまうのである。このような変化は完壁なもので、男性的なものが女性的なものに変り果ててしまう場合さえ見出されるのである。こういう例にぴったり対応しているのは、旧約のダニエル書にみえるネブカドネザル王の伝説であり〔ダニエル書第2章以下〕、また皇帝的妄想一般である。意識の立場が一面的に誇張され、それにともなって無意識の陰的反作用が生じてくるといった例は、現代の精神科医の臨床的実地経験の少なからぬ部分を占めている。意識され た意志を過大評価する現代では、"意志さえあれば道はひらける!"というわけであるから。誤解されては困るのだが、私は意識された意志のもつ高い道徳的価値を否定しているのではない。意識と意志とは、人類の最高の文化的業績として価値をもちつづけるかもしれない。しかし、道徳が人間性を破壊するまでに至っては、元も子もなくなるのではないだろうか。意志Wollenと能力Könnenを調和させることは、私には、道徳以上に重大なことのように思われる。どんな犠牲を払っても道徳を守る — というのは、実は、野蛮の徴候なのではあるまいか。私には、智恵の方がもっとよいもののように思われることが多いのである。もっともこれは、私が医師としての職業的眼鏡を通して見たせいかもしれない。医師というものは、文化的達成が過度に強調された結果生じてくるさまざまの障害を治療しなくてはならないからである。

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 いずれにせよ、一面的に昂揚された意識は、必然的に元型から遠く離れ、挫折してしまうのであって、これはさけられない事実である。錯誤の徴候は、破局的状況におちいるかなり前からはっきり感じられる。たとえば、本能的直観を喪失したり、神経過敏におちいったり、進むべき方向を見失ったり、およそ考えられないような状況や問題にまきこまれて混乱におちいってしまったりするのである。医師がまず発見するのは、無意識の力が意識された価値に対して全く反逆し、意識がそれを同化できなくなり、とり返しがつかなくなってしまった状態である。このとき人は、手のつけようのない葛藤に直面するようにみえる。人間の理性では皮相な解決に甘んじるか、いいかげんの妥協で我慢する以外に処理できなくなってしまうのである。そういう解決法を拒否する人は、必然的に、人格の統一を求め、それをどうしても必要とする状態にまで至る。ここで今や、東洋が太古から歩んできた道が始まるのである。それは中国人にはありえないような人格の分裂であり、分裂したものが互いにその相手を見失って、意識できなくなってしまうのである。中国人がみごとにすべてを統御できるのは、原始人の心性と同じように、「諾」と「否」が互いに離れることなく、根本的に接近しあっているからである。ともあれ、中国人は、対立するものが衝突しあっているのをはっきり感じていたので、その結果として、インド人がニルドヴァンドヴァ〔無諍、一切の争いのない状態〕とよんだ道、すなわち対立から自由になる道を探求せざるを得なかったのである。

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 われわれの前にあるこの書物が問題にしているのは正にこの道なのであり、その同じ道が、私の患者にあっても問題になっているのである。しかしこの場合、中国的瞑想を直接に試みさせることは大変な誤ちであろう。そんなことをすれば、西洋人の意志と意識が問題につき当るのであるから、意識は無意識に対して一層つよめられるだけになり、避けなくてはならない作用を逆にひき起してしまうからである。それでは神経症がひどくなるだけであろう。いくら強調してもしすぎることはないが、われわれは東洋人ではなく、したがってこういう問題については全く異なった基盤から出発しているのだ、ということである。また、これがすべての神経症患者のとる道であるとか、神経症的問題のあらゆる段階でたどられる道だとか考えるのも、大きな思いちがいであろう。さしあたって重要なのは、意識が異常に昂揚しており、そのため無意識から大きく離れてしまっているような場合である。このように昂揚してしまった意識状態が「必要な予備条件」conditio sine qua nong になるのである。無意識の力があまりに優勢になったために病気になった神経症患者に対して、このような道をとらせようとするほど誤ったやり方はない。まさにこの理由から、このような発展の 道を歩むことは、人生の半ば(ふつうは三十五歳から四十歳くらい)より前の年齢では、ほとんど意味をもたないばかりか、全く有害でさえあるのである。

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 既に示唆したよろに、私が新しい道をとる必要を感じた決定的な動機は、患者の本質を成しているもののどれか一つの側面に力を加えなくては、彼がおちいっている根本問題は解決できないように思われた、という点にある。私はいつも、根本において解決できない問題はないという、私の気質からくる確信を抱いて仕事をしてきた。そして経験が私の確信を証明してくれたのであるが、人によっては、他の人間なら完全に破滅してしまうような問題を、容易に克服してしまう人間もいるということを、私はしばしば観察したのである。私はそれをかつて「過大成長」と名づけたのであるが、さらに経験をつんだ結果、それはある意味の意識水準の上昇に他ならないことが明らかになってきた。つまり、より高くより広い何かの関心事が視界の中に入ってきて、地平線が拡大されたため、解決できなかった問題がその緊急性を失ってしまったのである。その問題は、それ自身としては、論理的にいえば解決されたわけではない。新しい、より力強い生の方向が出現したために、見劣りするようになっただけである。それは抑圧されたわけでもなければ、意識されなくなったのでもなく、新しい光につつまれて現われたのであり、そのために全く別のものになったのである。心のより低い段階では最悪の葛藤や破局的な激情の嵐をひき起すきっかけになったものが、より高い人格の水準に立ってよくみれば、高い山頂から見下した谷間の嵐のように思われたわけである。それによって雷雨と嵐が現実性を奪われたわけではないが、その人はもはやその中にはいないで、その上こ超然としている、というわけである。しかしわれわれ人間は、心という観点からみれば、谷でもあり山でもあるわけだから、自分が人間的なものの彼岸にいるように感ずるということは、ありそうもない幻想のようにも思われる。たしかに人間は激情を感じるし、それによって心をゆさぶられ、悩まされるということもたしかである。しかし同時にまた、高い彼岸的意識の存在が感じとられるということも事実なので、そのような意識状態は、人が激情にまきこまれてしまうことを妨げ、自分の激情を客観としてあつかって、「私は、自分が今悩んでいるということを知っている」と冷静に言うことができるのである。この書物は、怠惰について次のようにのべている。すなわち「意識していない怠惰と、意識されている怠惰とは、千里の差がある」〔昏沈にして知らざると、昏沈にして知るとは、相去ること奚んぞ啻に千里ならんや〕(太乙金華宗旨、第4章9節)。これは、激情についても全く同様にあてはまる言葉である。

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 この点に関連して時折生じたことであるが、ある患者がもやもやした可能性の中から成長して、自分自身を乗りこえてしまうといった例は、私にとって貴重な経験になった。その間に私が洞察することができたのは、人生の最大にして最も重要な問題というものは、根本的には、すべて解決することのできないものである、ということであった。こういう種類の問題は、あらゆる自己調節的システムには必ず内在する二元対立性を表現しているからである。それらは決して解決されるわけではなくて、ただ成長することによって越えてしまうだけなのである。それで私は、この過大成長の可能性、すなわち心のより広い発達という現象は通常の所与の状態ではなく、葛藤の中にとどまったままでいたり、その中にまきこまれるということが病的なのではないか、と自問してみた。人は誰しも、本来、より高い心の水準を少くとも萌芽としてはもっているに違いないし、恵まれた状 況の下では、この可能性を発達させることもできるに違いない。私がこれらの人びと、つまり静かに、そして何も意識することがないかのように、自分ひとりで大きく成長していった人びとの発達過程を観察したとき、私がみたのは、彼らの運命には何か共通なものがあるということ、つまりさまざまの可能性をもつくらい領域から新しいものが彼らに近づいてくる、そしてそれは外部からくることもあれば、内部からくることもある、ということであった。彼らはそれを受けいれ、それによって成長してゆくのであった。タイプを分けてみると、ある者はそれを外部から受けとり、他の者はそれを内部から受けとる。あるいはむしろ、こう言った方がいいかもしれない。ある人の場合には、外部からきたものが成長してその人のものになり、他の人の場合には内部からきたものが成長してその人のものになる、ということである。ただしこの新しいものは、全く外部からだけとか、全く内部からだけくるといった分け方はできない。外部からやってくるものでも、それはすぐに心の内奥での体験になった。また内部からやってくるものであっても、それは外的な出来事になったのである。しかしこのことは、決して意図的に、また意識して求めて得られたわけではなく、むLろ時の流れに乗って流れ寄ってきたものだったのである。

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 私にとっては、すべてのものから一つの目的と一つの方法をつくり出すという企てが非常に重要なので、ここで私はどんな予断も下さないために、わざと非常に抽象的な表現を使っているのである。なぜなら、私のいう新しいものとは、あれとかこれとか固定的に言えるものではないからである。もしそれを固定してしまえば、それによって"機械的に"復製できる処方箋がつくられるだろうし、それはまた「誤った人」の手に「正しい方法」を渡してしまうことにもなるであろう。私に最も深い印象を与えたのは、運命によって与えられた新しいものとは意識の期待にこたえるようなものではないし、さらに奇妙なことには、新しいものは、われわれがそれらを知るようになった根深い本能とも矛盾するものであるのに、それにもかかわらずそれは全人格のきわめて適切な表現であって、より十分な形では考え出すこともできないほど完壁な表現である、ということであった。

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 ところでこの人びとは、みずからの解放をもたらす進歩を達成するために、何をしたのであろうか。私が見てとることのできた限りでは、彼らは何もしなかったのである(いわゆる「無為」Wu WeiL[03])。ただ、物事が生じてくるままにしておいたのであった。呂祖師der Meister Lü Dsu がこの書で教えているところによれば、光は、日常の仕事を投げすでなくてもその固有の法則に従って回るからである〔太乙金華宗旨、第7章1節〕。物事を生じるがままにさせること、行為することなく行為する(無為にして為す)こと、つまりマイスター・エックハルトのいう自己放下は、私にとって道に至る門を開くことのできる鍵になったのである。人は心の中において物事が生ずるままにさせておくことができるにちがいない。このことはわれわれにとって真の技術なのであるが、多くの人びとはそのことを知らない。彼らの場合、意識は常に助力したり、矯正したり、否定したりして、介入しようとし、どんな場合にも、魂の過程が単純に生成してくるのをそのままそっとしておくことができないからである。仕事はたしかに、全く単純だといえるであろう(もっとも、単純ということほど難かしいことはないのであるが……)。ここでの仕事はただひとえに、まず魂の発達の過程で浮んでくる空想の断片を客観的に観察するところにある。これくらい簡単なことはないだろう。しかし既に、ここで困難が始まっている。見たところ、空想の断片など浮んできはしない — いや、浮んできたぞ — だが、あまりにも馬鹿げたことだ — そう考えるべき理由はいくらもある。こうして人は、空想の断片に心を集中できない — 退屈なことだ — そこで一体、何が出てくるというのだ — そんなものは「……でしかない」のだ — 等々。こうして、意識は大いに異論をとなえる。実際、意識はしばしば、自然に発生してくる空想活動を根絶することに熱心になっているように見受けられる。高い洞察に立って、魂の過程をそれが進行するがままにさせようとする確乎たる意図をもっているにもかかわらず、そうなってしまうのである。こうして、しばしば意識の極度の緊張が起ったりするのである。

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 こういう最初の困難をうまく克服することができても、その後から批判する気持が出てきて、空想の断片を解釈したり、分類したり、美化したり、あるいはその価値をけなしたりしようとする。このような気分にかられることには、ほとんど抵抗できない。正確な観察を行った後には、意識のあせりを抑制していた手綱をとき放ってしまうことができるし、またそうしなければならない。さもないと、厄介な抵抗が生じるからである。ただし〔心の動きを〕観察する際には必ず、意識の活動は、そのたびにあらためて脇へ押しやっておかなければならない。

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 このような努力の結果は、まず大ていの場合、あまりわれわれを勇気づけてくれるものではない。ここで問題になっているのは、どこから来てどこへ行くのか、はっきりわからない、まさしく空想の糸のつながりであるからである。おまけに、空想を獲得する道も、人によって異なっている。多くの人たちはそれを文章にかくのが最も容易であるが、他の人たちはそれを視覚化するし、また視覚化しつつスケッチしたり絵に描いたりする人もあれば、視覚化しない人もある、といった具合である。意識の緊張が高められた場合には、手だけが空想を生み出すことができる、ということもよくある。つまり手が、意識にとっては全く異様にみえる形をつくり出したり、スケッチしたりするのである。

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 この訓練は、意識の緊張がすっかりゆるむまで、言いかえれば、あるがままに〔空想を〕生じさせることができるまで、かなり長くつづけねばならない。このように放置することが訓練の次の目的になる。それによって新しい心構えがつくられるのである。つまり、非合理なものや不可解なものであっても、それは現に生じているものであるという理由で受けいれる、という態度である。このような態度は、そこに生起した事柄によって全く圧倒されている人にとっては毒になるであろう。しかしそれは、もっばら意識的な判断だけによって、そこに生じていることから意識にとって都合のよいものだけを選択し、そのため生の流れの本流から徐々に死せる淀みの中へとはまりこみつつある人にとっては、高い価値をもつものである。

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 ここで、右にのベた二つのタイプについて形勢を見ると、今や道が分れてくることが見られる。両者は共に、彼らのところへやってくるものを受けいれることを学んでいる(巴祖師が教えているように、「仕事がわれわれのところにやってくるならば、それを引受けなければならない。物事がわれわれのところにやってくるならば、それを根源に至るまで認識しなければならない」〔事、来らば、応に過ぐるを要す。物、来らば、識りて破るを要す〕太乙金華宗旨、第7章1節)。一方の人たちは、主に外からやってくるものを受けいれるであろうし、他の人たちは、内からやってくるものを受け入れるであろう。そして生の法則に従って、一方の人たちは、以前なら決して外から受け入れなかったようなものを、今や外から受けとるようになるであろうし、他の人たちは、以前なら常に排斥していたようなものを、内から受けとるようになるであろう。この本質的態度の転換は、それまで保持していた以前の価値が単なる幻想でなく、またこの転換に当っても捨て去らないで留めておかれるならば、彼の人格を拡大し、高みに引上げ、そして豊かにすることになる。以前の諸価値が捨て去られてしまうと、人は他の側面の力にとらえられてしまい、有能だったものが無能になり、適応していたものが適応できなくなり、意味あるものから無意味なものへと変ってしまうし、特に理性的であったものが精神的障害におちいるまでになってしまう。この道はしたがって、危険がなくはないのである。すべてよきものは高くつく。そして人格のゆたかな発達は、最も高価なものに属している。重要なことは、自分自身のあり方に対して断乎たる肯定 Jasagen をすること、— つまり自分自身のあり方を最も重大な仕事として提示すること、そして自分のすることを常に自覚していて、その疑わしく思える面はすべて、常に限前に見すえておくこと — これは真に骨髄に徹するほどの仕事である。

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 中国人ならば、ここで彼の文化全体の権威を頼りにすることができる。中国人は、長い道に足を踏み出す場合には、認められた最善のこと、一般に為し得る最善のことをする。しかし、もし西洋人が実際にこの道をとろうとすれば、知的、倫理的、そして宗教的な点で、あらゆる権威が彼に敵対してくる。そのため、中国的な道をそのまま模倣して、あつかいにくいヨーロッパ的心性はすててしまうことが、全くより簡単なやり方になるのである。あるいは、それほど簡単ではないが、キリスト教会が支配していたヨーロッパ的中世主義への戻り道を再び探して、ヨーロッパの外部に住んでいる哀れな異教徒や民族学的に診しいものを真のキリスト教徒から隔てている、ヨーロッパの防壁を再び建設する道をとってしまうことになる。生や運命との美的な、あるいは知的な戯れは、ここに至って突然終りを告げる。より高い意識へ歩み入る道は、あらゆる背面援護と防備をわれわれからとり去ることを意味する。人は、自分自身を全く犠牲にしなければならないのである。なぜなら、そのようなありのままの完全さからのみ、彼はさらに先へと進むことができるからであり、またそのような完全さだけが、その道が馬鹿げた冒険にならないという保証になり得るからである。

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 さて、人がその運命を外から受け取ろうと内から受け取ろうと、「道」の体験とその途上の出来事は何ら変りがない。したがって私は、自分でその無数の多様性を言いつくせないような、様々な外的および内的な出来事については、何も語る必要はないだろう。これから注解する書物のことを考慮に入れても、そうしたからといって不都合はないであろう。これに反して、これからの人格の発達にともなう心的状態については、多くのことを語らねばならない。というのは、われわれのこの書物では、この心的状態が象徴的に表現されており、しかもそれらの象徴は、私が長年の臨床経験からよく知っている象徴の中に示されているからである。

forward.gif3.基礎概念