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back.gif「黄金の華の秘密」註解(3/7)

C・G・ユング
「錬金術研究」I

『黄金の華の秘密』註解

(4/7)




3.基礎概念

A.道(TAO)

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 この書〔太乙金華宗旨〕やこれと似た書物[04]を、ヨーロッパ人にわかるように翻訳することは非常にむつかしい。というのは、中国人の著者は、常に中心となる問題点、つまりわれわれならば頂上とか探究の最終目標、あるいは最も深い究極の洞察とよぶであろうような事柄からまず出発するからである。つまり、批判的知性の持ち主なら、笑うべき思い上りか、全く無意味な事柄を語っていると感じるにちがいないような意味にみちみちた観念を、彼らは最初の出発点においているのである。したがって、西洋的思考法によって、東洋の最高の精神がもち得たような最も深妙なたましいの経験について知的な論争を始めようとすれば、とんでもない誤りにおちいってしまうであろう。たとえば、この書物は次のような言葉で始まっている。「自己自身によって存在するものを道という」〔自ら然るを道という〕。また『慧命経』は「道の最も微妙な秘密は人間の本性と生命とにある」〔蓋し、道の精微なること、性と命に如くものは莫し〕(太乙金華宗旨、第1章1節。慧命経、1章)という言葉で始まっている。

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 そもそも、西洋の精神が「道」というような概念をもっていないということは、西洋の特徴である。「道」という漢子は、「首」をあらわす文字と「行く(?)」をあらわす文字から合成されている。ヴィルヘルムは、「道」Sinn(意味)と訳している[05]。しかし他の訳者たちはWeg(道)とかProvidence(摂理)、あるいはイエズス会土たちのようにのGott(神)とさえ訳している。このことは、彼らがこの言葉を訳すにあたって当惑を感じたことを示している。私には、「首」は「意識」を示し[06]、「行く」〔?〕は「道を進むこと」を示しているように解される。したがって「道」という言葉に含まれている観念は、「真に意識しつつ行くこと」あるいは「はっきり意識された道」ということであろう。これは、「道」が、「天上の心」〔天心〕であるところの「両眼の間に住む天上の光」〔太乙金華宗旨、第1章1節〕と同じ意味に用いられていることと一致している。また『慧命経』の著者柳華陽の場合には、本質(性)と生命(命)は天上の光の中に含まれており、それが道の最も重要な秘密なのである。今や「光」は、象徴的に、真の意識(慧)とひとしいものである。意識つまり心の真の本質は、光との類比によって表現される。『慧命経』は次のような詩から始まっている。

もし汝が、無駄に流出し去ることのない、ダイヤモンドの如き身体を完成せんと欲するならば
意識[07]と生命の根を加熱することに勤むべきである
汝は常に、近きにある喜びにあふれた大地を照らし輝かせよ
そこに、汝の真の自我が常に隠れ住むように、為すべきである

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 この詩は一種の錬金術〔錬丹術〕の教えであり、「ダイヤモンドのような身体」をつくり出す方法、あるいはそれに至る道を意味している。われわれの書物〔太乙金華宗旨〕も同じ意図に立っている。このためには「加熱」が必要である。すなわち、それによって精神の住む場所が「明るく照らし出 される」ような、意識の昂揚が必要なのである。ただし、意識〔心、慧〕ばかりでなくy生恥〔身体、命〕もまた高められなくてはならない。この両者が一緒になって、はじめて真の「意識された生」〔慧命〕が生れてくる。『慧命経』によれば、古代の賢者たちは真の意識(慧)と真の生命(命)の両方を養ったので、両者の分離を止揚し統合することを知っていた。このようにして"舎利"(不滅の身体)がつくり出される。そしてこのようにしてこそ、「偉大なる道(タオ)が完成[08]」されるのである。

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 今われわれが「道(タオ)」を、分離されているものを統一しようとする方法、あるいはそのための自覚された手段と解するならば、この概念に含まれた心理的内容にかなり近づくことになるであろう。いずれにせよ、意識と生命の分離というのは、私が先に序論で、意識の偏向あるいは根底喪失とよんだ事態に他ならないことは明らかである。対立するものを意識化すること、すなわち「転換」の課題において最も重要なのは、意識されない生命法則との再統合をはかることであり、この統合が真に意識された生の達成を目ざすのである。これこそ、中国でいう「道(タオ)の実現」なのである。


B.回転運動とその中心点

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 これまでも指摘したように、より高い水準において対立するものを統合すること[09]は、理性的な事柄でもなければ、意志の問題でもない。それは象徴の中に自己自身を表現してゆく心理的な発達過程の問題である。それは、歴史的にみれば、いつも象徴の中で提示されてきたものであるし、今日でもなお、個人の人格の発達過程において、象徴的図形において具体化されるものである。このような事実は、次のような経験から、私に明らかになってきた。先にとりあげたような自然発生的なイメージの産出は、深められてゆくにつれて、次第に、抽象的な形象にまで凝縮してゆく。この抽象的な図形が、はっきりと「根源」Prinzipien つまり真に秘教(グノーシス)的な「もとのもの」(アルカイ)を示すのである。イメージが主として思考的に表現されている場合には、おぼろげに予感された法則、あるいは原理についての直観的な表出が現われてくるが、それらはまず、ドラマ化されたり人格化されたりして現われてくるのがふつうである(これについては後にとりあげることにしよう)。イメージを図に描くときには、主として、私のいう「マンダラ」図形[10]に属するような象徴が生れる。マンダラとは、円、より限定していえば魔法の円のことである。マンダラは東洋の全域にわたって広まっているだけでなく、われわれ西洋世界でも、中世以来おびただしく描かれている。キリスト教世界では、中世初期に特にマンダラ図形か多くみられるのであるが、それらはたいてい、中心にキリストが居て、四福音書の四人の作者、あるいは彼らの象徴〔鷲、翼ある牛、獅子、天使〕が四隅に配置されている。このような着想の起源は非常に古いものにちがいない。たとえばエジプトでは、四人の息子を従えたホルス神が、同じような形で描かれている(四人の息子を従えたホルス神の像が、キリストと四人の福音書作者の図形と近い関係にあることは、よく知られている事実である[11])。後代のものとしては、魂についてのヤコブ・ベーメの著作の中に、きわめて興味深いマンダラが見出される[12]。そこには、つよいキリスト教的傾向をおびた心理的宇宙の体系がとりあげられているということが、はっきりと看取される。ベーメはそれを「哲学的な眼[13]」とか「叡智の鏡」などとよんでいるが、これらの言葉は明らかに、秘密にされた知識の全隊を意味している。多くの場合、マンダラ図形は、4という数に向うはっきりした傾向を示す花とか、十字とか、輸の形などで示される(これはピタゴラス派が基本数とみなした「四つのもの」(テトラクテュス〉を思い出させる)。このようなマンダラは、プエブロ・インディアンが儀式のために用いる砂絵にも見出される[14]。最も美しいマンダラをもっているのはやはり東洋、とりわけチベット仏教である。われわれの書物にみられる象徴は、これらのマンダラの中に示されている。私は、精神病患者の場合にも、また右にのベたような関連について全く何もしらない人びとの場合にも、彼らがマンダラを描くことを見出したのであった[15]

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 私は私の患者の中に、マンダラを描く代りに踊ってみせた女性の事例を、いくつか観察したことがある。インドには、こういう状態を示すマンダラ・ニリティヤ mandala nritya = マンダラ・ダンスという術語がある。舞う姿は、図を描くのと同じ意味を表現しているのである。患者自身は、マンダラ象徴の意味について、ほとんど何も述べることができない。彼らはそれに魅惑されているだけであって、彼らの主観的な心の状態との関連において、それらが何か表現力豊かで有効であることを見出しているのである。

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 われわれの書物は「偉大なる一者の黄金の華の秘密をひらく」〔太乙金華の宗旨を発き明らめる〕ことを約束している〔太乙金華宗旨、第1章2b〕。黄金の華は光であり、そして天上の光は道のことである。黄金の華とは、私が私の患者において、これまでしばしば出会ってきたマンダラ象徴である。それらは、規則的な幾何学的装飾として平面図に描かれるか、あるいは植物から花が咲き出てくる光景として描かれたりする。植物は、暗闇の背景から浮き出した、明るい輝く火のような色合いにとり囲まれた形を示すことが多く、その頂上にはクリスマス・ツリーの象徴に似た光の花がついている。この種の図形には、黄金色の花が生れたことが示されているわけである。なぜなら、『慧命経』によると、〔真人を受胎する〕「みえざる身体」〔竅、胞胚体[16]〕とは「黄色い城」〔黄庭〕、「天の中心」〔天心〕、「生命のテラス」〔霊台〕、「1フィートの家の1インチの場所」〔寸田尺宅〕、「宝玉の都市の深紅の広間」〔玉京の丹闕〕、「暗い通路」〔玄関〕、「暁の天上の空間」〔朝の飛昇〕、「海底にある龍の城」〔海底龍宮〕などに他ならないからである〔これらの引用については、太乙金華宗旨、第1章6節。慧命経、第1章。「寸田尺宅」は眉間の位置を指す。太乙金華宗旨、第1章5節〕。それはまた「雪の山の限界」〔雪山界地〕、「原初の通路L〔元関〕、「至上の歓びの国」〔極楽園〕、「果てなき土地」〔無極之郷〕、「意識と生命とがつくられる祭壇」〔慧と命を修むるの壇〕ともよばれている。「死につつある者が、このみえざる身体を知らなければ」と『慧命経』はのべている。「彼は千回生まれ、一万の時代を生きたとしても、意識と生命の統一を見出すことはないであろう」〔修士、此の竅を明らかにせずば、千生・万劫に、慧と命とは則ち覓むる所、無からん〕(慧命経第1章)。

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 始まりにおいては、すべてのものはまだ一つであるが、この始まりはまた究極の目標としても現れるものである。始めそれは、海の底、つまり無意識の暗黒の中に横たわっている。〔瞑想によって感得される〕みえざる身体の内部においては、意識と生命(あるいは本性と生命、すなわち「性」Sing と「命」Ming とはまだ一体であって〔二物相融合して一を為す〕、両者は「精錬炉の中の火花のように、分ち難く混り合っている」〔融々郁々たること、炉中の火種に似たり〕。「みえざる身体の中には君主の火がある」〔夫れ、竅の中に君火あり〕。「あらゆる賢者は、その仕事をみえざる身体で始めた」〔凡て聖は、此に由って起る〕〔これらの引用については慧命経、第1章〕。火との類比が注意をひく。私はヨーロッパ人が描いたマンダラ図形のシリーズを知っているが、そこでは、鞘につつまれた植物の胚芽のようなものが水中に浮んでおり、深みから火が胚芽をつらぬいてそれを成長させ、胚葉から伸び出た大きな黄金の花を咲き出させている。

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 このような象徴的表現は、精錬と精製という一種の錬金術的過程と関係している。暗黒が光を生み、「水の領域の鉛」〔水郷の鉛[17]〕から貴重な黄金が育ち、無意識の力は生命の過程および成長の過程という形をとって、意識にまでのぼるのである(これと全く同じ類比が、インドのクンダリニ・ヨーガ[18]にある)。このようにして意識と生命の根の結びつきが新しく生じてくるのである。

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 私の患者たちがこのような絵を描く場合には、もちろん何かそういう示唆を受けて描くわけではない。こういう絵は、私が東洋の修行法との関係やその意味を知る以前から、ずっと描かれていたものである。それらは全く自然発生的に生れたものであるが、これには二つの場合が区別される。一つの場合は、マンダラを生む源泉は無意識的で、自然発生的に、そのようなイメージを生み出すのである。もう一つの場合は、何事かに全く没頭し切っているとき、個人の人間的本質を成す本来的自己 Selbst についての予感が与えられるのである。本来的自己〔真我〕が感得されるときには、それが素描として表現されるのである。一方、前者の場合には、自己の生き方に没頭するように強制する力が生れる。これは東洋的なマンダラの理解と全く一致しているのであるが、マンダラ象徴は単に心の表出の方法であるばかりでなく、それ自身がある作用を合せもっているからである。つまりそれは、〔描くことが〕描き手に対して作用を及ぼすのである。その中には、太古の魔術的作用が潜んでいる。それは根本的には、魔術でいう「固いこむ輪」とか「魅惑する輪」に由来するものであって、このような輸を用いる魔法の実例は、無数の民間伝承の中に保存されている[19]
 マンダラ図形は、はっきりした目的をもっている。それは「原始の溝」sulcus primigenius つまり中心をめぐる魔術的な溝であって、最奥の人格の本質という神殿 templum あるいはテメノス〔ギリシアの聖域〕を描くことなのである。それは心のエネルギーの"流出"〔漏〕を防ぎ、あるいはまた外的影響から生じる偏向を防ぐ予防手段なのである。魔術的儀礼というものは、元来、心の出来事の投影に他ならないのである。ここでは、それは一種の魅惑するカとして、心が自分自身の人格中心に向うように、〔外へ向おうとする心の動きにさからって〕逆方向に適用されるのである。言いかえればそれは、直観がみちびき作用するままに注意力が集中すること、より厳密にいえば、関心が心の中なる聖域へと引き戻されることなのである。この内なる聖成は、心の源泉であるとともに目標でもあり、生命と意識の失われた統一をなお保存しているのであって、今やその統一を再び見出さなくてはならないのである。

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 内と外の両者の統一が「道」であるが、その特質を象徴するのは、中心部にある白い光であろう(これはチベットの『死者の書(バルド・ソドル)』にみえる光に似ている[20])。この光は1インチ平方〔寸田〕あるいは「顔」の中に、つまり両眼の間に住んでいる。これは魂の作用の「創造的中心点」を具体的に示しているのである。この中心点は空間的延長はもっていないが、質的な強度をもっており、1インチ平方の空間〔眉間部〕と何らかの形で結合した象徴であると考えられる[21]。つまり量的〔空間的〕なものと質的〔心的〕なものの両者を統合したものが「道(タオ)」なのである。本性または意識(「性」)は光という象徴で表現され、したがって質的な強さである。生命(「命」)はしたがって、量的な広さと相応ずるであろう。前者は「陽」の、また後者は「陰」の性格を有している。先に引用したが、私が三十年前に観察した十五歳あまりの夢遊病の少女が描いたマンダラでは、中心部に、空間的延長のない「活力の泉」が見られる[15]。この中心部は〔空間性をもたないのだから〕外的流出について考える際には、相対抗する空間原理と直ちに矛盾する。これは中国の文書の根本理念と全く類似している。

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 「囲いこむこと」あるいは「循環運動」circumamblatio は、この書物では「回転」〔回光、光を回転させる〕という観念によって表現されている。回転は単に円運動を意味するばかりでなく、聖域を隔離する意味をもつと同時に、固定し集中する意味をも有している。太陽の車輪がまわり始める、つまり太陽が活気づけられてその軌道をめぐり始めるということは、言いかえれば、道(タオ)が活動し始め、主導権をとり始めたことなのである。かくて行為は無為へと変化する。すなわち、すべての周辺的なものは中心的なものの指揮下におかれるのである。それ故、次のように言われる。「運動とは克己の別名である」〔動とは(中略)即ち、制の字の別名なり〕[22]。心理学的にいえば、この循環は「自分自身の周りを回ること」であろう。そのときには、明らかに自分自身の人格のあらゆる側面が、ともに活動するに至る。「光と闇の両極は、円運動へともたらされる[23]」。すなわち、昼と夜の交替が生ずるのである。

天国の澄明さは、深く恐しき夜と替る (『ファウスト』)

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 したがって円運動は、人間本性にそなわったあらゆる明るい力と暗い力とに活気を与え、ひいてはどんな種類のものであれ、あらゆる心理的対立物に活気を与えるという、倫理的意味をも有しているのである。それは自己受胎(タパス)[24]による自己認識に他ならない。このような完全な存在についての類似の原像としては、プラトンが説いている完全な球形人間があげられる。この球形人間はまた、男女両性を具有する存在でもある。

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 ここにのべた事柄に最もよく類似している例の一つとして、アンナ・キングスフォードの協力者だったエドワード・メートランドが自分の重要な体験についてのベた記事[25]があげられる。できるだけ、彼自身の言葉を追ってみよう。彼がある一つの考えについて省察していると、それと関連のある考えが、長い系列をなしつつ、いわば眼に見えてくるのであった。その系列はその本来の源泉へと戻ってゆくように思われたが、彼にとっては、その源泉が神的な精神なのであった。この系列に精神を集中することによって、彼はその根源にまで迫ろうと試みたのである。

 私がこの試みを始める決心をしたとき、私は何の知識も、また期待も、もってはいなかった。私は単に、自分のこのような能力をもって実験をしただけであった。……私は、連続した形で起る出来事を書きとめておくために、書き物机の前に坐った。そして、外面的で周辺的な意識をしっかりと持ったままにし、自分がどこまで私の内面的で中心的な意識の中へ入り込めるかということは、気にしないことに決めたのである。というのは、もし私が外面とのつながりを一度ゆるめてしまったなら、そこへ再び戻れるかどうかわからなかったし、また経験した出来事を思い出せるかどうかもわからなかったからである。意識の二つの極を同時にしっかりと保持する努力は、つよい緊張をひき起しはしたが、私は苦労の末に、やっと成功することができた。

 私は最初、一つの体系の周辺部から中心点に向って長い梯子を登っているような感じをもったが、その体系というのは、私自身の、太陽系の、そして同時に宇宙の体系でもあった。この三つの体系は、異なっていながらしかも同一でもあった。……やがて私は、最後の努力をふりしぼった。……私は、私の意識が放射する光線を、望み通りの焦点に合せることができた。その瞬間、突然、点火によってすべての光が一つに融合したかのように、すばらしい、形容しがたい輝きを帯びた白い光が私の前に立った。その加は非常につよくて、私は突き倒されそうになった。……この光をこれ以上探求することは無用であると感じはしたものの、私はもう一度、たしかめてみることにした。それは、ほとんど私を盲目にせんばかりだったその輝きを貫き通して、その中に含まれているものを見たかったからである。……大変な苦労の末、私はやっと成功した。私がそこにあるにちがいないと感じていたものが現われてきた。……それは御子〔キリスト〕の二重性であった。……隠れていたものが明らかになり、定義できないものが定義され、個別化できないものが個別化されたのである。主なる神はその二重性によって、神は実体であるとともに力〔作用〕であり、愛であるとともに意志であり、女性的であるとともに男性的であり、母であるとともに父であることを示していたのである。

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 彼は、神が人間と同じように「一における二」であることを発見したのであった。さらに彼は、われわれの文書〔太乙金華宗旨〕も強調していることであるが、「呼吸の静止」に気がついた。彼はこうのべている。通常の呼吸は止まってしまい、一種の内的な呼吸がそれに代ったが、それはあたかも、「私の身体組織とは別の誰か他の人が、私の中で息をしているかのようであった」。彼はこのような存在のしかたを、アリストテレスのいう「エンラレケイア」(完全自足態)また使徒バウロのいう「内なるキリスト」に当たるものとみなしている。彼は言う。「精神的で実体的な個性が、身体的また現象的な人格の内部に生まれる。それはしたがって、超越的段階における人間の再生を示しているのである」。

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 この疑いようのない体験[26]は、われわれの書物の中にあるあらゆる本質的象徴を含んでいる。このような現象そのもの、つまり光のヴィジョンは、多くの神秘家たちに共通した体験であって、その体験は疑いもなく最も高い意義をもっているものである。なぜならそれは、あらゆる時代と地域において、最大の力と最高の意味とをみずからの中で一つに結びつける無制約的なものであることを、はっきりと示しているからである。その神秘家的体験を全くぬきにしてもすぐれた人物であるヒルデガルト・フォン・ビンゲンは、彼女の中心的ヴィジョンについて、全く同じようにこう述べている。

 「子供の時から」と彼女は語った。「私はいつも、私の魂の中に光を見るのです。それは外的な眼で見るのでもなければ、心の中の考えによって見るのでもありません。外的な五官は、この視覚には関係がないのです。……私が感じる光は場所的なものではなくて、太陽を運ぶ雲よりもずっと明るいのです。私はそこに、高さも、広さも、あるいは長さも、区別することができません。……私がそういうヴィジョンの中で見たり学んだりすることは、いつまでも私の記憶の中に残っています。私は見、聞き、そして同時に知るのですが、私は、私の知ることをいわば瞬間のうちに学んでしまうのです。……この光の中には、全くどんな形もみつけることはできません。もっともその中に、ときどき、私が生ける光と名づけた別の光を認めることはあります。……私がこの光を見ることに恍惚としている間、あらゆる悲しみと苦悩は、私のの記憶から消え去っているのです。……」〔Hildegards Briefe an Monch Wibert von Gembloux über ihre Visionen. (1171).〕

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 この種の経験について、自分自身の体験から知っている人たちを、私自身もいくらか知っている。このような現象について私が何か理解することができるとすれば、ここでは、ここでは、集中的であるとともに抽象的な意識の鋭い状態が問題になっているのである。つまり、ヒルデガルトが適切に示唆しているように、いつもは暗黒に蔽われている心的現象の領域を意識面まで押し上げる「解放された」意識(後述参照)が、ここでは問題になるのである。それとともに、しばしば一般的な身体感覚が消失するという事実は、そのための特殊なエネルギーがそこ〔暗黒の領域〕から引き上げられて、おそらく意識の明晰さを強化するために用いられているのであろう、ということを示唆している。その現象はたいてい自然発生的に起るものであって、それ自身のイニシアティブでやって来たり、去って行ったりするのである。その作用はほとんどいつも、必的葛藤を解決し、それとともに内面的人格を情動的また知的な困難から解放し、ひいては一般的に解放と感じられるような存在の統一性を創り出すという点で、おどろくべきものである。

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 意識的な意志の力では、そのような象徴的統一性を達成することはできない。なぜならこの場合、意識は敵対者だからである。敵は集合的無意識なのであって、意識の言葉を理解しないからである。それだからこそ、無意識に語りかけるあの、原始的類比を含んで「魔術的に」作用してくる象徴というものが必要なのである。この象徴を通じてのみ、無意識に到達してそれを表現へともたらすことができるし、したがって個性化 Individuation も象徴なしには決して達成できないのである。象徴は、一方では無意識の未熟な表現であるが、他方では意識の最高の予感に対応する理念でもあるのである。

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 私が知っている最も古いマンダラ図形は、最近ローデシアで発見された旧石器時代のいわゆる「太陽の車輪」である。それはやはり同じように、4という数に基づいたものである。人類の歴史のはるか昔にさかのぼるような事柄は、当然のことながら、無意識の最も深い層に触れるものであり、意識の言葉が全く無力であることが明らかになったところで、無意識をつかまえもことができるのである。そのような事柄は、頭で考え出すことのできるようなものではない。意識のもち得る最も深い予感と精神の最高の洞察とを表現するには、そういう事柄そのものが忘却の暗い深みから再び上へと昇ってこなくてはならない。それによって、現代的意識の一回性と生命の太古から伝わっている根源的過去性とを融合させることができるのである。

forward.gif4.道の諸現象