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back.gif「黄金の華の秘密」註解(4/7)

C・G・ユング
「錬金術研究」I

『黄金の華の秘密』註解

(5/7)




4.道の諸現象

A.意識の解消

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 狭い範囲に視野を限定されている代りに、強くて一点に集中した明瞭な個人的意識が、集合的無意識の巨大な広がりと出会うときに一つの危険が生じる。なぜなら、無意識的なカは意識を全く崩壊させるほどの強い作用をもっているからである。『慧命経』によると、このような現象は中国的瞑想にはつきものである。この書は次のようにのべている。「個々の分離した想念が形態をとり、色と形が見えてくるようになる。全体としての魂の力が、その足跡を展開する」〔分念、形を成して色相を窺ひ、共霊、迩を顕〕〔慧命経、第6章〕。本書に添えられた図は瞑想にふけっている賢者を示し、その頭は燃えさかる火にかこまれている。そこから五人の人間の姿が現われ、その五人がさらに、もっと小さな二五人に分裂する〔慧命経、第6章〕。こういう状態が固定してしまえば、分裂病的過程に至ってしまうであろう。そのため、『慧命経』はこう教えている。「精神の火によってつくられた形態は、空虚な色と形にすぎない。本性の光は、根源的なるもの、真実なるものへと還帰しつつ輝く」〔神火、形と化して、空なる色相あり。性光、返照して、元真に復す〕〔慧命経、第7章〕。

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 これによって、「まわりを囲む円環」の保護がなぜ重要であるかということがわかる。円環は〔心のエネルギーの〕無駄な流出〔漏〕を防ぐとともに、無意識の力によって意識の統一が破壊されてしまうのを防ぐ役目を果すのである。さらに、中国的把握の仕方によれば、「思念された形」あるいは「分離した想念」〔分念〕は空虚な色と形なのであり、したがって、できるかぎりその力をそぐことによって、無意識に内蔵された意識を崩壊させる作用を弱めるようにすべきなのである。このような考え方は、仏教(特に大乗仏教)において展開し、チベット密教の『死者の書(バルド・ソドル)』の中にある、死に際しての教えにもみられるものである。そこでは、人間に対して好意的な神霊も、また悪意ある神霊も、共に克服されるべき幻影にすぎない、と説かれている。このような考えが形而上的〔論理的〕に正しいかどうかということを決定するのは心理学者の仕事ではない。心理学者にとっては、心的に有効なものが発見されればそれでよいのである。彼は、その姿が超越的な幻影であるかないかを気にかける必要はない。それを決定するのは信仰であって学問ではない。いずれにせよ、ここでわれわれは、これまで科学の領域の外にあるものと考えられ、そのため全くの幻として無視されてきた分野をとりあげているわけである。もっとも学問的にみれば、このような仮説は決して証明できないだろう。なぜなら、こういう事柄の実体は科学的な問題ではないからである。その実質は、いずれにしても人間の知覚と判断の能力の彼方にあるものであるし、したがってまたあらゆる証明可能性の彼方にあるからである。心理学者にとっての問題は、これらのコンプレックスの実体ではなくて、そのような心的経験〔の現象様式〕なのである。疑いもなくそれは、明確な自律性をもった、経験可能な内容である。なぜならそれは、恍惚状態の中で自然発生したり、強い印象や作用の下でひき起されたり、精神障害によって妄想観念や幻覚という形で定着し、人格の統一を破壊したりするような断片からなる心的体系であるからである。

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瞑想 第1段階
光の集中
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瞑想 第2段階
気穴に胎治生まる
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瞑想 第3段階
霊的身体が解放され、自立する
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瞑想 第4段階
諸条件の中心(縁中)

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 一般に精神病理学者は、一定の〔生理学的〕毒素とか、それに類したものを仮定して精神分裂病(精神病における精神の分裂状態)を説明しようとする傾向がある。その場合彼は、患者の心的内容には重きをおかない。これに対して(ヒステリー、強迫神経症、その他の)心因性の障害では、毒素の作用とか脳細胞の変質とかは考慮する必要がない。たとえば、夢遊状態でも〔ヒステリーなどと〕似たようなコンプレックスの分裂が、自然発生的に起る。フロイトはそれを、性の無意識的抑圧から説明しようとした。しかし彼の説明は、決してすべての場合にあてはまるわけではない。なぜならそこでは、意識が同化することができない内容が、自然発生的に、無意識から展開してくるからである。そのような場合、フロイトの抑圧説は役に立たない。さらに、これらの作用の本質的な自律性は、日常生活の中でも情動作用に即して研究することができる。情動はわれわれの意志や強い抑制の試みに反抗して、勝手に自分の存在を主張し、自我を圧倒し、それを自分の下に屈服させようとするものである。したがって未開人が、そこに霊魂の愚依やその変容〔妄執、怨念など〕を認めたとしても何の不思議もないのである。今日のわれわれの言葉づかいの中にも、そういう用語法は生きている。「今日の彼には、何かがついていたのかもしれない」。「悪魔がのり移った」。「またしても、あれが彼の調子を狂わせたのだ」。「彼はわれを忘れた」。「彼は何ものかに憑かれたように行動した」。法廷で犯罪を裁く場合でも、発作状態において人間の責任能力が部分的に減少することは認めている。したがって心的内容の自律性は、われわれにとっては全くよく知られている経験なのである。そのような内容は、意識を崩壊させるほどの作用をもっている。

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 ところで、ふつうよく知られている感情以外に、ふつうなら感情とはみなすことのできないような、微妙で複雑な情緒的状態が存在している。それらは、複雑になればなるほど、より〔固定した〕人格的特性をもつようになる錯綜した心の断片的体系である。それはまさに、心的人格の構成要素そのものであり、したがって〔徳性とか性質といった〕人格的特性をもたなければならないわけである。そのような断片的体系は、特に精神病や心因性の人格分裂(二重人格)、あるいはありふれた霊媒現象などによく認められる。それはまた、宗教的現象の中にも存在している。古代の多くの神々はそのため、次第に人格から人格化された理念へ、そして最後には抽象的理念にまでなったのである。というのは、生きた無意識の内容は、まず最初必ず外界へ投影された形で現われ、精神的発展の過程で、空間的投影を経由しつつ徐々に意識に同化されて、意識的理念にまで変形される。その際、意識化された理念は、無意識的内容が元来もっていた自律的で人格的な特性を失ってゆくのである。よく知られているように、古来の神々のあるものは、占星術によって単なる人格特性になってしまったのである(たとえば"戦闘的" martialisch という特性は軍神マルス Mars〔火星〕からきた語であり、"陽気"jovial はジュピター神〔木星〕の、"陰気"saturnine はサターン神〔土星〕の理念化であり、エロティックerotisch とか論理的 logisch とか狂気 lunatic 等の語も、同じような背景を有している)。

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 チベット密教の『死者の書』にみえる教えは、これらの自律的形姿の力によって意識が解体してしまう危険がどんなに大きいか、ということを知らせてくれる。死者は何度も次のように教えこまれるのである。こういう形姿を真実なものと思わないこと、その暗い外観を仏の「法身(ダルマ・カーヤ)」(真理の神的身体)[28]がもつ清浄な白光と混同しないこと、言いかえれば最高の意識のあの一つの光を具象化された個々の形姿に投影することなく、光をそういう自律的な断片的体系の多様性の中へと溶かしこむことである。もしそこに何らの危険もなく、断片的な体系が魂に脅威を与えるほどの自律的で分散する傾向性をもっていないのなら、こんな強い調子の教えは全く必要がないであろう。その教えは、東洋人の簡素で多神教的傾向をもつ気質にとっては、ちょうどキリスト教徒に対して、そうした幻影を唯一の人格神と思いこんだり、三位一体や多くの天使・聖人についてやたらに語ったりしないように、という教えを与えるのと同じような意義をもつものであろう。

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 分裂の傾向が人間のたましい(プシケ)に固有な特質でなかったならば、こうした心の断片的体系が分裂するようなことは全くなかったであろう。言いかえれば、〔たましいがそういう傾向を有しなかったならば〕霊も神々も〔われわれの体験の中には〕決して存在しなかったことであろう。したがってまた、われわれの時代は、神々の存在を認めず、神聖なものを汚しても意に介しないのである。それは言いかえれば、無意識の心というものに対してわれわれが全く無理解であり、意識だけを礼讃している、ということなのである。今日のわれわれの真の宗教は意識という一神教なのであって、われわれはいわば意識にとり憑かれているとともに、自律的な心の断片的体系が存在することを、狂信的に否定しようとしているのである。ただし、われわれ〔現代人〕と仏教的ヨーガの教えが異なっている点は、〔そういう体系を幻影視することよりも〕われわれが断片的体系の経験可能性さえも否定している、という点にある。そこに大きな危険が待ちかまえているのである。というのは、われわれの場合には、〔意識の統制がつよいために〕断片的体系が抑圧された内容となって動き出すからである。抑圧された内容は、もっともらしい形をとって再び意識に現われてくるために、それらは必ず誤った態度をひき起してしまうのである。こういう事態はすべてのノイローゼにはっきり認められるものであるが、また集合的〔集団的〕な心理現象についても当てはまるものである。われわれの時代は、この点について致命的な誤りを犯している。つまり現代人は、宗教的事実というものを知的に批評できると信じこんでいるのである。たとえぽ現代人は、あのラプラス〔Pierre Simon Laplace (1749-1827) フランスの天文学者、物理学者。星雲説によって太陽系の生成を考えたことで有名〕のように、神とは知的に処理できるもの、つまり肯定か否定かによって処理することのできる一つの仮説のようなものであると考えている。その際、人は次のことを全く忘れている。人間が「精神(ダイモン)」を信じるのは、外界にあるものとは何の関係もなく、ただ自律的な心の断片的体系がもっている強力な内面的作用を素朴に知覚したことにもとづくということである。この作用は、われわれがその名称を知的に批判したり、それを迷妄であるとみなしたりしたところで、〔その存在を〕否定できるものではない。その作用は、集合的に、常に存在しているものである。この〔たましいの〕自律的体系は、常にはたらきつづけている。なぜなら、無意識の基本構造というものは、一時的な意識の表面的作用によってかきまわされることはないからである。

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 〔神々とか幽霊といった〕名称を批判することによってこの断片的体系を拒否できるものと考えて、その体系の存在を否定してしまう場合には、それにもかかわらず存続している作用を理解することは不可能になるし、したがってまた、それを意識に同化することもできなくなるのである。それは説明不可能な障害をひき起す要因になる。というのは、その場合、人は結局、どこか心の外部にその原因があると考えるようになってしまうからである。それによって断片的体系の外部への投影が生まれ、それとともに危険な状況が生み出される。今や、妨害する作用は、われわれの外部にある〔他者の〕悪意に帰せられてしまうのである。その他者はもちろん、どこか別のところ〔霊の世界〕にいるわけではなく、正にわれわれの近くにいる他人、つまり"川向うの奴ら"の中に見出されることになる。こういう事態は集団的な妄想形成、戦争の原因、草命など、一言でいえば破壊的な集団的精神病発作に通じるものなのである。

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 妄想とは、このような意味において、意識に同化され得ない無意識的内容による憑依現象なのである。その無意識的内容は、意識がその存在を否定するために〔かえって〕同化できなくなるのである。宗教的に表現すれば、人はもはや「神への畏敬」をもたず、すべては人間の判断に委ねられている、と考えられているわけである。この倣慢さ、ないし意識の偏狭さこそ、精神病院に至る近道なのである[29]

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 知的訓練を受けたヨーロッパ人は、『慧命経』に次のように述べられているのをよんで共感するかもしれない。「精神の火によってつくられた形態は、空虚な色と形にすぎない。」〔神火、形と化して、空なる色相あり〕。この句は全くヨーロッパ風に聞こえるし、われわれの理性にふさわしいように思える。実際われわれは、われわれ現代人が既にこういう明晰さの高みに到達したと自負できるものと思いこんでいる。人間は、はるか以前に、そのような神々の幻と別れてしまったからである。しかしわれわれが克服したのは言葉の幽霊であって、神々が生れる原因になった心的事実は克服されていないのである。われわれはいまだに、みずからの内なる自律的な心的内容にとり憑かれている。それは〔新しい〕神々のようである。それは今日では、恐怖症とか、強迫症とか、言いかえれば一般に神経症的状態とよばれているものである。神々は病人になってしまったのである。ゼウスが統治する場所はもはやオリンポスの山ではなくて太陽神経叢である。それらは医学的面接における標本をつくる機会になったり、あるいは、無知なままに集団心理的伝染病を流行させている政治家やジャーナリストたちの脳をかき乱しているのである。

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 そういう観点からいうと、西洋人は、東洋の賢者の隠された洞察について、はじめは、あまり多くのことを知っていない方がよいのである。なぜならそれは、「誤った人間の手に正しい方法を与える」例になってしまうからである。精霊とは幻である、とあらためて自分自身に確信させるよりも、西洋人の場合は、まずこの幻の現実性をもう一度経験しなくてはならないのである。彼は、その心的な力をもう一度承認しなくてはならない。彼の気分や神経質や妄想観念が、彼を苦しみにつき落して、彼が自分の家の唯一の主人ではないのだということをはっきりさせるまで待っているべきではない。分裂傾向とは、それなりの相対的現実性をもった、現実の心的人格〔のあり方〕なのである。それは、それを現実的なものとして認めず、外に投影するときには、逆に〔否定できない〕現実的なものになる。それを意識に関係させる((宗教的にいえば儀式を行う)時には、それは相対的に現実的なものになる。さらに、意識がその内容から解放されるに至る場合には、それは非現実的なものになってゆくのである。ただしこの最後の場合は、次のようなときに限られる。その人間が、精魂つきるほどに献身的な態度で彼の人生を生きぬき、もはや彼の生き方に対してそれ以上の義務といえるようなものは何も存在しなくなり、そのため彼は、世界〔との関係〕から内面的に超越しようとするときには、どんな〔世俗的〕要求でもためらうことなく犠牲にしてしまえるまでに至っているので、それが最早何の邪魔にもならない、といった場合である。この点について、自分自身を欺いてみても何の役にも立たない。執着がまだ残っていれば、彼はまだ何かにとらわれているのである。そしてとらわれているということは、より強いものがまだ存在していて、彼を支配しているということなのである(「よくあなたに言っておく。最後の1コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない」[30])。人があるものを「病癖」とよぶか「神」とよぶかは、つまらない問題ではない。病癖に仕えることは忌わしく、価値なきことである。これに反して神に仕えることは、より高い見えざるものや精神的なものに従うことであるから、非常に意義深く、また、よきものに出会う展望がもてるわけである。人格化することは、それだけで既に、自律的な断片的体系のそれなりの相対的現実性を認めることであるし、ひいては、それがもっている生命力を同化し、非現実化してゆく可能性をもたらすからである。神を認めないときには、利己的な病癖が生まれ、病癖から病気が生まれるのである。

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 ヨーガの教えは、神々を承認するのを当然のこととしている。その秘密の指導は、意識の光が生命力から解放されようとする段階に至った者にしか与えないことに決められている。それは究極の分ち難い統一、つまり「空の中心」〔空心〕に入るためである。われわれの書物がのべているように、そこは「至高の空と生命の神が住みたまう場所である[31]」。「このような教えをきく機会は、千劫を経ても得がたい」〔聞くは千劫に逢ひ難し〕。明らかに「幻(マーヤ)」のヴェールは、単なる理性の決定によって取り払うことなどできないものである。そのためには、徹底的で、長い時間のかかる準備作業が必要である。それは、人生の負債すべてをきちんと払うということである。なぜなら、「肉欲」cupiditas にもとづく捨てがたい執着が残っているかぎり、ヴェールは挙がらないし、それらの内容や幻から解放された意識の高みには達し得ないからである。どんな術策や不正手段を用いてみても、魂の解放に至ることはできない。最終的には、それは死においてのみ実現され得る理想なのである。無意識のカが生み出す現実の、また相対的に現実的な形姿は、その時に至るまで存在しつづけているのである。


B.アニムスとアニマ

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 この書によれば、無意識の諸形態には、神々ばかりでなく、アニムスとアニマも見出される。ヴィルヘルムは、「魂」Hun という言葉をアニムスと訳している。実際、私が用いているアニムスという概念は「魂」にぴったり適合している。その字形は「雲」をあらわす字〔云〕と「悪魔」をあらわす字〔鬼〕から構成されている。つまり魂は、雲のようなデモン、高いところで息吹する霊というような意味であり、「陽」の原理に属しているから男性的なものである。死後、「魂」は天に昇って「神」つまり「みずから拡大して示現する」霊、または神(かみ)となる。これに対して「魄」は「白さ」をあらわす字〔白〕と「悪魔」をあらわす字〔鬼〕で示されている。「魄」はアニマである。それは「白い幽霊」であり、地上的な身体にともなう霊であって、「陰」の原理に属している。したがってそれは女性的である。死後、「魄」は下方へ沈み、「鬼」すなわち「(大地へと)帰る者」、いわゆる亡霊あるいは幽霊になる。このようにアニマとア二ムスが死後分離してばらばらになってしまうということは、中国人の意識にとって、両者がさまざまの作用をもつものとして、互いにはっきり区別できる心的要因であったことを示している。両者は元来「作用する真の存在」としてみれば一つのものであるにもかかわらず、「創造的な力の宿る場」としては、二つに分れているのである。「アニムスは天上の心の中にある。それは、昼は両眼の間(つまり意識)に住み、夜は肝臓の中で夢みる」〔魂は、昼は目に寓り、夜は肝に舎む〕〔太乙金華宗旨、第2章8節〕のである。それは「われわれが大いなる空の中から手に入れたものであり、その形姿において原初とひとしいものである」〔此れ太虚より得来り、元始と形を同じくす〕〔太乙金華宗旨、第2章11〕。これに対してアニマは「より重く、濁ったもの」であり、身体的肉的な作用と結びついている。「肉欲と怒りの衝動」がその作用である。「目覚めているとき、憂欝になったり不機嫌になったりする者は、アニマにとらわれているのである」〔覚めて則ち冥冥たり、淵淵たるは(中略)即ち、魄に拘はるるなり〕〔太乙金華宗旨、第2章8〕。

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 ヴィルヘルムがこの書物のことを知らせてくれる何年も前から、私は、「アニマ」という概念に含まれた形而上的仮定は別にして、この概念を、中国語の定義と全く類似した形で使っていた[32]。心理学者にとって、アニマは何も超越的なものでなく、全く経験可能な実体である。というのは、中国語の定義もはっきり示しているように、情動的状態は直接的な経験なのであるから。しかしこの場合、なぜ人は、アニマ〔という人絡化された像〕について語って、気分については語らないのだろうか。その理由は次のような点にある。情動作用は、範囲を限定できる意識内容、つまり人格の一部である。それらは人格の一部であるので、当然、人格的特徴をもっている。したがってそれは容易に人格化され得るのである。先にあげた例が示しているように、それは今日もなお進行している過程なのである。情動をかき立てられた個人は、中立的になることができず、ふだんの性格とは全くちがった、一定のはっきりした性質を示すようになる。その意味で、〔情動作用を〕人格化することは、無意味なつくりごとではないのである。この場合、慎重にしらべてみると、男性では、情動的性質が女性的特徴を示すことが明らかになる。「魄」についての中国人の教えは、私のアニマについての理解と同様に、こういう心理学的事実に属している。深い内省や恍惚の体験は、〔男性の]無意識領域に女性的な形姿が実在していることを明らかにする。したがって「心」には、〔昔から〕アニマ、プシケ、ゼーレといった女性名詞が用いられているのである。アニマは、男性が女性に関してもつあらゆる経験からつくり出されたイメージ、ないし元型、あるいは沈澱物である、と定義することもできるだろう。したがってアニマ像は、きまって〔現実の〕女性に投影される。よく知られているように、文学作品はいつもアニマ像〔理想の女性など〕を描き出し、また歌ってきた[33]。中国的理解に従ったアニマ〔魄〕と幽霊の関係は、反対の性をもつ者によってそれらがコントロールされることが多いという点で、超心理学者にとって興味深レものである[34]

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 ヴィルヘルムが「魂」をアニムスと訳したことは、妥当であるとは思うが、私は、意識の明晰性や男性的性質に特徴があらわれる男性の精神を示すために、時には「ロゴス」という表現をえらんだ。アニムスという語は、ふつうの場合にはむしろ適切な表現なのであるが、私にとってはそれ以上に、時としてロゴスという表現を用いた理由が重要であった。この点、中国の哲学者は、〔そういう二つの概念を使い分けなければならない〕西洋の心理学者を苦しめる困難から免れている中国の哲学は、古代のあらゆる精神活動と同じように、もっぱら男性的世界に属するものである。[35]。それらの概念は心理学的に理解しにくいし、したがってそれがどの程度女性的な「心(プシケ)」にふさわしいものかということは、これまで検討されないままである。けれども心理学者は、女性の存在を無視するわけにゆかないし、女性固有の心理というものを無視することはできないのである。私が男性における「魂」を、時に「ロゴス」と訳そうとする理由はそこにある。ヴィルヘルムは、中国語の「性」Sing に対してロゴスという訳語を用いている。「性」はまた「本性」(本質)とか「創造的意識」とも訳せる語であろう。「魂」は死後、「神」Schen となる、つまり哲学的にいえば「性」に近い霊になる。中国語の概念というものは、論理的な表象ではなく直観的な表象を用いるものであるから、その意味は文脈上の用語法や漢字の象形から、または、「魂」の「神」に対する関係から、うかがうことしかできないのである。したがって、「魂」は、男性にみられる意識の光や理性的性格に近いものであろう。それは根源的にみれば、「性」という種子的ロゴス""[36]から発し、死後、「神」の段階を通じて再び「道」へと還るものである。「ロゴス」という表現は、このような使い方をする場合に特に適切であろう。なぜならロゴスという概念は、その中に普遍的存在という観念を包含しているし、男性の意識の明晰さや理性的性格が〔本来は〕個々人に特殊化されたものでなく、何か普遍的なものであることを示しているからである。それは個人的なものでなく、最も深い意味で超個人的なものであるから、厳密な意味において、「ア二マ」と際立った対照をなしている。ア二マは全く個人的なデモンであって、気分にまず現われてくるものである(「敵意」Animositäという言葉はここからきている)。

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 こういう心理学的事実を考慮に入れて、私は「アニムス」という表現はもっぱら、女性心理の性質を示すために用いた。それは「アニマ〔女らしい心〕をもたない女性は、その代りにアニムス〔男のような心〕をもつ」mulier non habet animam, sed animum.という有名な問題に答えるためである。女性心理は、男性におけるアニマ像に類似した要素をもっている。それは元来は感情的性質のものではなく、疑似的な知性的存在ともいうべきものである。「先入見」という言葉が、その特徴を最もよく示している。女性の意識の本質には〔本来の意味の〕男性の「精神」よりも、男性における情動的性質が対応している。〔つまり、女性の意識のあり方は情緒的である〕。そして「精神」Geist は「心」Seele をつくり上げる。より正確にいえば、それは〔女性の心の中に〕女性におけるア二ムスをつくり上げる。そしてこの場合、男性のアニマ像がさしあたり劣等な衝動的関連から構成されているのと同じように、女性におけるアニムス像は、低級な判断とか、よく言って思いこみの意見 Meinungen から構成されている(くわしくは、先に引用した私の論文〔注58参照〕を参照されたい。ここでは一般的なことしか説明できない)。女性のアニムス像は多くの先入見から構成されており、したがって一人の姿で人格化されることはなく、むしろ集団や多数によって代表される(こういう事例についての超心理学上の典型的な例は、パイパー夫人にみられた、いわゆる"皇帝"グループである[37])。〔女性における〕低い段階のアニムスは低級なロゴスである。それは男性的精神のカリカチュアなのである。これは〔男性における〕低い段階のア二マが女性的エロスのカリカチュアであるのと同様である。さらに対応関係を追ってゆけば、「魂」はヴィルヘルムがロゴスと訳した〔高次の〕「性」Sing に対応しているが、これと同じように、女性のエロスはさしあたり「命」Ming に対応している。「命」は運命、宿命、天命などと訳される言葉であるが、ヴィルヘルムはこれをエロスと解釈している。つまりエロスとは結びつけるものであり、ロゴスとは分離と独立のはたらきであり、物事をはっきりさせる光である。エロスは関連性であり、ロゴスは区別と分離である。したがって、女性のア二ムスには低級なロゴスが現れる。それは〔事柄の本質には〕全く関連のない、したがってどんな説得も受けつけない頑固な先入見といった形で、あるいは問題の本質にかかわりのない〔細部について言い立てる〕、人をいらいらさせるような意見〔借りものの臆見〕といった形で現われてくるものである。

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 これまで私は、神話学でやるのと似たやり方でアニマとアニムスという概念を人格化し〔実体化し〕ているとして、しばしば非難されてきた。しかしそういう非難は、私がこの概念を心理学的に使用する場合にも神話学的に具体化して用いているという証拠が提出された場合にしかあてはまらない。私がここで説明しておかなくてはならない点は、人格化というやり方は何も私が考え出したものではなくて、ここで問題にされている現象の本質に固有のものだということである。アニマ像が心理的な、したがって人格的な断片的体系であるという事実を無視することは学問的ではあるまい。私を非難した人も、〔夢をみたときには〕何のためらいもなく「私はX氏の夢を見た」と言うだもう。しかし正確にいえば、彼は〔X氏そのものではなく〕X氏に関する表象について夢をみただけなのである。そういう意味で、アニマとは、問題になっている断片的な自律的体系の人格的本質についての表象にほかならない。この断片的体系が、超越的意味において、つまり経験の領域の彼岸において何を意味しているのかということは、われわれには知ることができないのである。

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 一般的にいえば、私はアニマを無意識の人格化と定義した。したがってアニマは、無意識〔領域〕への橋渡し、つまり無意識に対する関係の機能としてとらえられる。こう考えた場合、われわれの書物の考え方は興味がある。この書は、意識(すなわち個人的意識)はア二マ〔魄〕から出てくるものと考えている。西洋的精神は意識の立場からしか考えないので、アニマを定義する場合には、私がこれまでやってきたような〔アニマをかくれた無意識の作用と解する〕やり方で、解釈しなくてはならない。ところが東洋は逆に、まず無意識の立場に立って考えるので、意識とはアニマのはたらき〔の産物〕であると見なしているのである! たしかに〔東洋が考えているように〕、意識は元来無意識から生じてくるものである。われわれ〔西洋人〕は無意識についてほとんど考えようとしないので、「心(プシケ)」を一般に「意識」と定義したり、そこまでゆかなくても、無意識は意識の派生物か、それに従属する作用であるといつも考えようとする(たとえばフロイトの抑圧説)。しかし右にのべてきた理由からいっても、無意識の現実的作用を取り去ることはできないし、また無意識から現われてくる形姿は、そこに作用している〔心のエネルギーの〕量と考えるべきである。心(プシケ)の現実的作用が何を意味するかを理解できた者は、そう考えたからといって、古くさい悪魔学に逆戻りするのではないかという心配をする必要はない。無意識の形姿が自然発生的に作用する〔心的エネルギーの〕量であるということを認めない場合には、人は結局のところ、一面的な意識信仰にとらわれたり、極度の緊張状態におちいってしまう。その時には、破局的状態がやってくるにちがいない。人はこれまであらゆる意識〔の予感〕にさからって、くらい心的カを無視してきたからである。しかし、くらい心的力は、われわれが人格化するのではなく、もともと人格的性質をもっていたのである。こうした基本的な事柄が認められた上で、われわれははじめて、それを非人格化することができる。つまり、この書物がのべているように、「アニマを支配する」〔魄を制する〕〔太乙金華宗旨、第2章9節〕のである。

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 ここで再び、仏教〔の空の哲学〕とわれわれ西洋人の知的態度の間の大きい相違が見出される。それも見かけは一致しているようにみえるので、かえって危険なのである。ヨーガの教えはあらゆる幻想的内容を拒否する。われわれも同じである。けれども東洋は、われわれとは全くちがった理由にもとづいてそうするのである。東洋では〔普から〕創造的想像力を豊かに表現する考え方と教えがゆきわたっている。したがって人間は、この場合、幻想が過剰にあふれすぎることに対して身を守らなくてはならないのである。ところがわれわれ西洋人は、幻想をくだらない主観的白昼夢であるとみなしている。無意識的な形姿というものは、あらゆる想像上の装飾を取り去った抽象物として現われてくるものではない。逆に、途方もなく多彩で、混沌たる幻想(ファンタジー)のみちあふれた織物の中に埋められ、編みこまれて現われてくるものである。東洋がこれらの幻想を拒否するのは、はるか遠い昔からそれらの幻想に含まれている精髄を抽出して、深い智恵の教えにまで凝縮させていたからである。ところがわれわれは、こうした豊かな幻想をまだ一度も経験したことがないし、ましてそれらから抽出されたエキスなど何ももっていないのである。ここでわれわれは、あらゆる実験的体験の断片をあつめて、〔東洋に〕追いつかなければならない。そして、見かけは無意味にみえるものの中に意味ある実質を発見した後に、はじめてわれわれは、価値あるものとつまらないものとを選別することができるようになるのである。われわれ〔西洋人〕がわれわれ自身の体験から抽出するエキスは、東洋が今日われわれに提供しているものとは違ったものになるだろうということは、われわれにとって一つの心の安らぎであるかもしれない。東洋は外的世界については子供みたいに無知であるが、その代りに、内面的な事柄についての知識を得たのであった。われわれはこれに対して、おどろくべき厖大な歴史的・自然科学的知識に支えられながら、魂(プシケ)とその深みを探求してゆくことになるであろう。目下のところでは、外的世界についての〔過大な〕知識は内省に対する最大の障害なのであるが、心の要求はあらゆる妨害を克服してゆくことであろう。われわれは既に、一つの心理学を構築しつつある。東洋が心理的例外状態を通じて〔そこに至る〕入口を発見した領域について、それをひらく鍵を与える科学〔即ち深層心理学〕を構築しつつあるのである。

forward.gif5.対象からの意識の離脱