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back.gif「黄金の華の秘密」註解(5/7)

C・G・ユング
「錬金術研究」I

『黄金の華の秘密』註解

(6/7)





5.対象からの意識の離脱

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 われわれは、無意識を理解することによって、その支配から解放される。この書の目的も、根本においてはそこにある。弟子は、内奥の領域の光に心を集中し、あらゆる外的また内的な錯綜から自己自身を解放する仕方を教えられる。彼の生の意志は、それ自身は全く無内容でありながらあらゆる内容をその中に存在させ得る特異な意識性へとみちびかれる。『慧命経』はこの解放の境地について、次のようにのべている。

一つの光の輝きが精神の世界をつつむ
人は互いに忘れる、静かに、そして純粋に、力強く、そして虚しく。
空は天上の心の輝きに照らし出され
海の水はなめらかに、その面に月を映す。
雲は青空へ消え
山々は明るく輝く。
意識は観照の中に溶け去り
月輸はひとり安らっている。 〔慧命経、第8章〕

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 「完成」〔悟り〕についてのこのような描写は、おそらく、世界から意識が離脱した状態と、意識がいわば世界を越えた地点にまで昇った状態とを記述しているのだといえば、よくその特徴を示すことができるであろう。このように、意識は空っぽであるとともに充実している。それはもはや事物の像によってみたされてはいないで、単にそれらを含んでいるだけである。これまで直接に意識に対立していた世界の充満状態は、その豊かさと美しさを少しも失うわけではないが、それらはもはや意識を支配することはないのである。事物が及ぼす魔術的な刺戟が止んでしまうのは、世界の中にある意識の根源的錯綜がほどけたからである。無意識はもはや〔世界に〕投影されることはない。したがって、太初における事物との間の〔レヴィ=ブリュールの言う〕「神秘的分有」participation mystique の関係は終ったのである。したがって意識は、もはや強制する志向作用にみたされてはいない。中国の書物が美しくのべているように、ただ観照するだけなのである。

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 このようなはたらきは、どのようにして成立したのであろうか(われわれはここで、中国人の著者について次のことを前提している。第一に、彼は嘘をついてはいない。第二に、健康な感覚の持主である。そして第三に、非常な洞察力にとんだ人間である、ということである)。テキストに記述されているような意識の離脱状態について理解し、また説明を加えるためには、われわれは一種の廻り道をして考えてみる必要がある。東洋人の感受性をそのまま模倣しても無益だからである。こういう心理状態を美化してとらえるほど幼稚なことはあるまい。ここで取り上げるべきことは、私が自分の臨床経験からよく知っている作用である。つまり〔世界との〕「神秘的分有」関係から離脱する作用である。この離脱は治療のために有効なものであり、私が弟子や患者とともに解決に努力しているのは正にこの問題なのである。レヴィ=ブリュールは、独創的な手際で、未開人の心理の特徴を「神秘的分有」という概念でとらえた[38]。彼がこの概念によって示したのは、主体と客体の未分化な関係が無際限に大きく広がっている状態である。それは未開人の間には今日も広く認められる現象なので、意識の立場に立つヨーロッパ人の輿味をひくことは間違いない。主体と客体の区別が意識化されないかぎり、両者の無意識な同一性が支配する。そのとき、無意識〔の内容〕は客体へ投影され、客体は主体の中に取りこまれる。つまり内面化される。そうすれば、動物や植物は人間のようにふるまうことになろうし、人間は同時に動物でもあるわけで、すべての生けるものが幽霊や神々によって生気づけられるわけである。文化人は、当然のこととして、自分がこれらの事物をはるかに超越しているものと信じている。しかし彼はその代りにしばしば、一生の間、彼の両親と同一化してしまう。彼は自分の感情や偏見と同一化し、みずからの中には〔存在していても〕認めようとしない欠点を他人の中に認めて、恥しらずにも他人を責めるのである。要するに彼は、原始の無意識性、つまり主体と客体の未分化状態の残滓をもちつづけているのである。このような無意識性〔無自覚さ〕のために、彼は、無数の人間や事物や環境から、魔術的な作用を受けとってしまう。つまり無条件に影響されてしまう。このとき彼は、ほとんど未開人と同様に、妨害を及ぼす内容にみたされてしまっているのである。したがって彼は、未開人と同じように、危険をさける呪術を必要とする。ただし彼は、古い薬袋やお守りや犠牲獣を用いて呪術を行う代りに、精神安定剤や神経症、啓蒙精神、意志の礼讃などによって呪術を行うのである。

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 しかし、意識と並んで、ともに心を条件づける力として無意識を認め、意識的であるとともに無意識的(あるいは本能的)な要求についてもできる隈り考慮を払う生き方ができるようになれば、そのとき全人格の力の中心は意識中心としての自我ではなく、本来的自己Selbst と名づけてよいような、いわば意識と無意識の間にある潜在的な点へと移動する。この移動に成功すれば、結果として世界との神秘的分有が解消するに至り、〔人格を建物にたとえれば〕上の階では悩み多い出来事からも楽しみにみちた出来事からも全く離れていて、ただ下層の階でだけ悩みが生じているにすぎないような人格の境地にまで至るのである。

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 われわれの書物が「神聖な果実」〔聖胎〕や「ダイヤモンドの身体」〔金剛体〕あるいは永遠に朽ちることのない身体について語っている場合、その目ざすところは、このような上層の人格を樹立し、誕生させることなりである。こうした表現は、止め難い情動的混乱や、ひいてはとり返しのつかない打撃を受けることのない確乎たる態度、つまり世界から離脱した意識を象徴している。私は、こういう生き方は人生の後半に始まる自然な、死に対する準備であると考えるべき十分な理由をもっている。心的にみて、死は誕生と同じように重要なものであり、誕生と同じように人生にとって不可欠の部分なのである。解放された意識状態において究極的に何が起るかということは、心理学者が問うことのできない問題である。〔そういう問題に入りこめば〕彼は、どんな理論的立場をとるにせよ、彼の科学的権限の限界を、希望もなしに越えることになってしまうだろう。心理学者が指示できるのはただ次のことだけである。すなわち、解放された意識の無時間性についてのわれわれの書物の見解は、あらゆる時代の、また人類の圧倒的多数の人たちの宗教的思索と一致しているということ、そしてまたこのような考えを受けいれない人は人間的秩序の外に立つ者であり、したがって心的平衡の崩壊に悩むことになるであろう。私は医師として、患者が自己の生命の不死についての信念を確立できるように、特にそういう問題が眼前にさし迫っている年老いた患者たちがそうしう信念をもてるようにと、あらゆる努力を払っているのである。心理学的忠正しくみれば、死とは生の終りではなく目標なのである。したがって、太陽が子午線を通過するとともに、生は死に向い始めるのである。

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 われわれがとりあげているこの中国の瞑想(ヨーガ)哲学は、生の目標としての死に対して本能的準備をととのえる、という事実に基礎をおいている。そして人生の前半における生の目標、すなわち生殖と再生産や、物質的生活を永続させる手段と類比させつつ、この哲学は〔入生の後半における〕精神的実存の目的として、心的な霊的身体(微細身)[39]の象徴的な生殖と誕生を重んじている。その霊的身体は、解放された意識の持続性を保証するものである。ヨーロッパ人にとって、霊(プノイマ)的人間の誕生ということは昔からよく知られているが、彼は〔東洋とは〕全くちがった象徴や魔術的行為によって、つまり信仰やキリスト教的生き方によってそれを達成しようとする。われわれはここでも、東洋とは全くちがった基盤の上に立っているのである。われわれの書物の教えは、一見キリスト教的な禁欲的倫理と近いもののようにも思われる。しかし、キリスト教的な禁欲と東洋的修行を同じものと考えるほど大きな誤りはない。この中国の書物の背後には、何千年来の古い文化がひかえているが、それは原始的本能の基礎の上に系統的に形づくられてきたものである。したがってそれは、ごく最近文明化された野蛮人にすぎないわれわれ〔西洋人〕に適合した、無理矢理に強制する倫理などは全く知らないのである。したがって中国人の場合には、本能を無理に抑圧して精神をヒステリックに緊張させたり、毒性を及ぼしたりするような要因は全くないのである。本能に生きる者はまた、本能から自分を分離させることができる。それも、本能を生きた場合と同じように自然なやり方で、そうすることができる。英雄的な自己超克といった態度は、われわれの書物にとって全く縁のないものである。ところが、われわれ〔西洋人〕が中国の教えに文字通り従うとすれば、われわれは間違いなくそういう英雄的自己超克の態度におちいってしまうであろう。

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 われわれ〔ヨーロッパ人〕は、われわれの歴史的前提を決して忘れてはならない。われわれはようやく一千年あまり前に、素朴な多神教の始まりから、高度に発達したオリエント宗教の世界にいきなり入りこんだのである。そのため、半未開人の段階にあった空想的精神は、自己の精神的発達の程度をはるかに越えた高みにまで一挙に向上したのである。この高みを何とか保ってゆくためには、本能の領域をつよく抑圧しなければならなかった。そのため、〔西洋の〕宗教的修行と倫理とは、明白に強制的な、〔人間に対して〕悪意があるといえるほどの性格をおびるに至ったのである。当然、抑圧されたものは発達をとげないまま、無意識における根源的な未開状態に止まって増殖しつづけるのである。われわれは哲学的宗教の高みまで登ることを望んでいるが、それは事実上不可能である。せいぜい、そこまで成長することを願望するだけなのである。アムフォルタスの傷[40]とゲルマン人のファウスト的分裂は、まだ癒されてはいない。彼の無意識は、無意識から解放される前にまず意識化されなければならない内容を、依然として背負いこんだままでいる。私は最近、以前あつかったある女性患者から一通の手紙を受けとった。彼女は、わかりやすい適切な言葉で、この場合に必要な心的態度の転換についてこうのべている。
 「悪いものの中から、多くの善いものが私にやって来ました。じっと静かにしていること、何ひとつ抑圧しないこと、注意深くしていること、それと同時に — 現実を、私がそうあって欲しいと望むようにではなく、あるがままに — 受けいれること、こういった態度がすぐれた認識と、以前だったら思いもかけなかったような異常な力を私にもたらしてくれました。以前私は、いったん物事を受けいれてしまえば、それが何らかの形で私を圧倒してしまう、といつも思っていました。今は全くちがいます。人間は物事を受けいれることによってこそ、態度を決めることができるのです[41]。ですから今の私は、人生という遊戯を遊ぶつもりでおりますし、この一日と生活とがその時その時に私にもたらしてくれるもの、善いものも悪いものも、たえず交替している日光と陰とをそのまま受けいれています。そしてそれとともに、よい面もわるいめんもそなえた私自身の本質をそのまま受けいれています。以前の私は何と馬鹿だったのでしょう! あらゆるものを、自分の頭で考えた通りに従わせようとしてあくせくしていたのですから」。

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 まずこのような態度を基礎とすることによって、キリスト教的発展において獲得された価値を放棄せずに、むしろキリスト教的愛と忍耐をもって、われわれ自身の性質の中にある最も愚かしいものをも許容するような高い水準の意識と文化が可能になるであろう。このような態度こそ、本当の意味で宗教的なのであり、したがって心の悩みを真に癒し得るのである。なぜなら、あらゆる宗教は魂の苦悩と障害に対する治療なのであるから、西洋的知性と意志の極度の発達は、無意識の抗議に逆らって、ほとんど悪魔的な巧みさで、外見上そういう態度をうまくまねする能力をわれわれに与えたのである。そうなれば、反対の力がつよい対照をみせつつ、自己の立場を認知するように迫ってくるのは時間の問題である。形だけの物真似はいつも不安定な情況を生み、無意識によっていつでも崩されてしまう。確実な土台は、無意識の本能的前提に対して意識の視点に対するのと同じだけの考慮を払うことによって、はじめて成り立つのである。西洋的=キリスト教的、特にプロテスタント的な意識偏重の立場が、このような必要性を全く拒絶しているということは、もはや誰の眼にも明らかであろう。新しいものはいつも、古いものの敵であるように思われる。けれども、より深く理解しようとする者は、既に獲得されたキリスト教的価値を〔今日の状況に対して〕真剣に応用することなしには、新しいものも全く実現できないということを発見するであろう。


6.完成

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 われわれ〔西洋人〕が精神的東洋をだんだん知るようになることは、われわれが、われわれ自身の中にある異質なものとの間につながりをもつようになり始めた、という事実を象徴的にあらわしているのであろう。われわれ自身の歴史的前提条件を拒否することは全く愚かなことで、もう一度魂の根底を喪失してしまう近道になることであろう。われわれはただ、みずからの〔西洋の〕大地の上にしっかりと立つことによってのみ、東洋の精神を同化することができるのである。

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 ある古代の賢者はこう語っている。「世の人びとは根を失って、梢にしがみついている[42]」。これは、秘密の力を蔵した真の泉がどこにあるか知らない人びとについてのベた言葉である。東洋の精神はあの黄色の大地から生じたものであり、またそこからのみ生れるはずのものである。そこで私は、しばしば「心理主義」と批判されてきた私のやり方で、この問題に近づいてみることにしたい。この言葉が「心理学」を意味するとしたら、私には喜ばしいことである。というのは、実際のところ、あらゆる秘密の教えに含まれている形而上的主張を無情にも押しのけてしまうのが私の目的であるからである。というのは、言葉〔概念〕によって力をふるう〔形而上学の〕隠された意図は、われわれが〔自己の本性について〕根本的に無知であるという事実と一致しないからである。われわれは、そういう自己の無知を告白する謙虚な心をもたなければならない。私の確乎たる意図は、形而上的と思われる事柄を心理学的理解という白日の下にさらし、大衆が〔形而上学の〕あいまいなカの言葉を信じないように、最善の努力をつくすところにある。キリストを信ずる人は、信仰をもつがよい。信仰とは、彼が引受けた義務であるからである。信仰をもたない人は、信ずるという恩寵〔恵み〕をとり逃した人なのである(おそらく彼は、生れつき呪われていたために、信ずることができず、ただ知ることができるだけの人間なのである)。したがって彼は、何か他のものをも信ずることができないのである。物事を形而上的に把握することのできない人でも、心理学的に把握することはできる。そこで私は、物事を心理的対象とするために、それからその形而上的側面をとりのぞくのである。それによって私は、少くともそこから何か理解可能なものを引き出してわがものとすることができるし、それによってさらに、象徴の背後に隠されていて、私の理解をこえていた〔問題の〕諸過程とその心理的条件について学ぶことができる。それとともに私は〔古人と〕類似した道を歩み、類似した経験を得る可能性にまで至るのである。そして、それでもなお最後にはっきりつかめない形而上的問題が背後にひそんでいるとしたら、それを明らかにする最良の機会が〔心理学によって〕与えられることになるであろう。

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 私は、偉大な東洋の哲学者たちに対して感歎する。私の気持はその形而上学に対する私の態度が不遜であるにもかかわらず、純粋なものである[43]。私は彼らを、象徴的な心理学者ではないかと考えている。彼ら〔の言葉〕を文字通りに解することは大きな誤りであろう。彼らが考えていることが本当に形而上的であるならば、彼らを理解しようと思ってもできないであろう。しかし彼らの考えていることが心理学的な事柄であれば、われわれは彼らを理解できるし、そこから最大の利益を得ることになるであろう。なぜならそのときには、いわゆる「形而上的存在」が経験可能になるからである。もし私が、神は絶対的な存在であってあらゆる人間的経験の彼方にあるということを認めるなら、神は私の心を冷たくする〔ような不可解な存在である〕。そのときには、私の心が神に向ってはたらくこともなく、神が私の心に対してはたらくこともできない。ところが、神とは私の心の内なる力強いはたらきであるということを私が知っているときには、私は神とかかわらなければならない。そのとき神は、じっとしていられないほど、重要な存在になるのである。それは現実に現れるすべてのものと同じように、おそろしいほどあたりまえの存在である、と思われてくるのである。

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 「心理主義」という非難の言葉は、自分の心が自分の思いのままになると思っている愚かな人たちにこそ当てはまるものである。そういう人たちはいくらでもいる。心的な事柄を低く評価するのは、典型的な西洋的偏見である。人は、「心」という偉大な言葉をどのように使うかということは知っていても、その意味するところは知らない。私が「自律的な心的コンプレックス」という概念を使うと、読者の中から直ちに〔それは客観的事実でなく〕「心的コンプレックスにすぎないのだ」という意見が出てくる。一体どういう根拠から、人は、心とは「……にすぎない」などと確信しているのだろうか。われわれが意識しているすべての経験は心像であり、心像とは心であることを、人はまるで知らないか、とんと忘れているかのようである。神とは、心の中で心によって動かされるものであり、また心を動かすものである、その意味で「自律的コンプレックス」と考えてもよいものだと言えば、神の尊厳を傷つけると思う人もいるであろう。彼らは、克服しがたい衝動や神経症的状態に苦しめられるかもしれない。そこでは、彼らの意志や生活の知恵はすべて何の役にも立たない。しかしそれによって、心はその無力さを証明したのであろうか。マイスター・エックハルトは「神は永久に、心の中でくり返し生れなければならないであろう」と言っているが、〔私を心理主義と非難する人は〕彼のような人をも「心理主義」と非難するのであろうか。私の考えるところでは、「心理主義」という非難はむしろ、自律的コンプレックスの真の性質を否定し、それを既知の外面的事実の結果として、つまり〔心にとっては〕本来のものでないとして〔環境的条件から〕合理主義的に説現しようとする知的態度に対してこそ、浴びせるべきものである。そういう知性の判断は、「形而上的」主張と同じように一種の思い上りである。それは、われわれの心的状態の原因を、人間的限界を越えた経験不可能な神性に委ねようとするのと同じことである。そういう心理主義は、まさに形而上学の干渉と対応するものであって、後者と同様に幼稚なものである。要するに、私にとってより道理にかなっていると思われるのは、心に対しても、経験可能な現実世界と同じ価値を与え、前者に対して後者と同じ「現実性」を与えることである。つまり私にとって「心」とは、その内部に自我が包含されている広大な世界なのである。もっとも、自分は自分の中に海を包含していると信じている魚もいるのであろうが……。形而上的な問題を心理学的に考察しようとするなら、われわれがもっている習慣的幻想から離れなくてはならない。

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 ここでは、〔瞑想によって開いた〕黄金の華の中に、あるいは1インチ四方の空間〔寸田〕の中に、「ダイヤモンドの身体」〔金剛体〕すなわち永久に朽ちることのない微細身が生れるという観念が、形而上的に主張されている[44]。このような身体は、他のすべての場合と同じように、独特な心理的事実に対する象徴的表現なのである。その事実な客観拘なものであるからこそ、果実・胚芽・子供・生きた身体等々といった生物的生命に関する経験にもとづいた形態に投影されて現れるのである。このような心理的体験の事実を巧みに表現しているのは、「私が生きているのでなく、それが私を生きている」という言葉であろう。意識の優越についての〔近代人の〕幻想は「私が生きている」という確信にまで至りつく。しかし無意識の存在を認めることによってこの幻想が崩壊するときには、無意識は、その内部に自我を包含した現実的なものとして現われてくる。そのときには、無意識に対するわれわれの態度は、ちょうど息子の存在が自己の生命の死後の存続を保証すると信じている未開人の感情に似てくる。このような感情は全く独特なものであって、時には、ある黒人が自分の言うことをきかない息子に腹を立てて「そこに俺の身体をもって奴が立っているのに、ちっとも俺の言うことをきかない」と怒鳴った話のように、グロテスクな形をとることさえあるほど、特異な感情である。

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 ここでは内的感情における変化が問題なのである。それはちょうど、息子が生れたとき父親が経験する感情に似ている。このような感情の変化は、使徒パウロの証言によって、われわれ西洋人にもよく知られているものである。「生きているのは、もはや私ではない。キリストがわたしの中に生きておられるのである」(ガラテヤ、二・二〇)とパウロは言っている。「人の子」としての「キリスト」という象徴は、これと似た心的経験を意味している。それは、人間的形態をもったより高い精神的存在が、自にはみえないが個々人の内部に生れる体験であって、その新しい身体はわれわれの未来の宿りに使われるべき霊的身体なのである。パウロがのべているように、人は、新しい身体を着物をきるようにまとうのである(「キリストに合うバプテスマを受けたあなた方は、皆キリストを着たのである」、ガラテヤ、三・二七)。個人の生き方と幸せにとってこの上なく重要な、こういう微妙な感情を、知的概念の用語で表現するのは容易なことではない。それはある意味で、「私の身代り〔分身〕」が存在しているという感情である。しかも、自分がそこから追い出されたという感じはともなっていないのである。いわば、自分の生の営みをみちびく点が、みえない別の中心に移ってしまったような感じである。「やさしい愛にみちた束縛の中で、しかも自由な」というニーチェの隠喩がぴったりする。宗教的な言葉は、自由な依存状態や静けさと献身といった感情を語るにふさわしい心像的表現にみちみちている。

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 私はこのような独特な経験の中に、意識の解放の結果として起る現象を認める。このような経験によって、主観的な「私が生きている」体験が客観的な「それが私を生きている」体験に変るのである。このような状態は、もとの状態にくらべると、より高い経験であると感じられる。実際それは、いわば神秘的分有関係のさけがたい結果である〔世界の事物からの〕強迫や、自分が負うことのできないほど大きな責任から解放される経験であるとも言える。パウロをみたしているのは、この解放の感情である。つまり、自分は神の子であるという意識、血の匂いの強制から解放された意識である。それはまた、そこに生ずるすべての事柄と和解しているという感情である。したがって、『慧命経』の表現をかりれば、完成せる者の眼差しは自然の美へと立ちかえるのである。

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 こうして、パウロ的なキリストの象徴において、西と東の最高の宗教体験は互いにふれ合うのである。悲しみにみちみちた英雄キリストと、宝玉の都の深紅の広間〔玉京の丹闕に咲く黄金の華 — これはまた何という対照であろうか! 想像も及ばないほどのちがい、お互いの歴史をへだてる深淵は何と大きいことか。これこそ正に、将来の心理学者たちが取り組むべき重大な課題である。

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 現代の宗教的諸問題の中で、つまらない問いとみなされている一つの問題がある。しかし私は、これこそ今日の主要な問題、すなわち現代の宗教的精神を前進させる課題であると考えている。この問題について論じようと思えば、「宝玉」すなわち中心的象徴の取りあつかい方について、東洋と西洋の間のちがいに注意しなくてはならない。西洋人は、キリストが人間として受肉したこと、またキリストの人格性と歴史性を強調する。これに対して東洋人は「生れることもなく消えゆくこともなく、過去もなく未来もない」〔生ぜず、減せず、去ること無く、来ること無し〕と言う〔慧命経、第8章〕。このような理解のちがいに応じて、キリスト者は、キリストの恩寵を望んで、すぐれた神のごとき人格に従う。これに対して東洋人は、解放は個々人がみずから行うわざによって起こるということを知っている。完全な「道(タオ)」は、個人の内から成長するのである。『キリストのまねび[45]』のやり方は、長い間たつと欠点が生れてくる。というのは、われわれは最高の「意味」を具現した一人の人間を神的な模範として崇拝するために、形だけの模倣におちいってしまい、われわれ自身の内にある最高の意味を実現すること — すなわち本来的自己の実現 — を忘れてしまうのである。自分自身の〔内なる〕固有の意味を放棄するということは、〔世俗的観点からみれば〕具合のわるいことではない。しかし、もしイエスがそういう生き方をとったならば、彼はたぶん評判のよい一人の大工として生涯を送ったことであろう。そして〔もし現代に生まれたとしても〕当時と似た状況にある今日の人びとに対して、宗教的反逆者となることもなかったであろう。

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 「キリストのまねび」は、形だけでなく、より深く理解することもできるであろう。すなわち、個人の気質の最も十全な表現であるその人の確たる信念を、イエスが示したと同じような勇気と犠牲を払って実現する義務を引受けることである。幸いなことに — と、われわれは言わなければならないだろうが — すべての人が人類の教師とか偉大な反逆者としての使命をおびているわけではない。だから結局は、個々人が自分なりのやり方で自己を実現することができるのであろう。この大いなる誠実さが、おそらく理想となるのかもしれない。新しいものは常に、思いもよらないところで始まるものであるから、たとえば、現代人が昔の人ほど裸体を恥かしがらないということが、あるべき姿を承認する始まりを意味しているかもしれない。さらには、かつては最も強いタブーだった事柄が、一層広く承認されるようになるであろう。なぜなら、大地の現実性は、テルトゥリアヌス〔Tertulianus (160?-222)〕のいう「ヴェールをかぶった処女」のように、永久におおわれたままに止まることはないであろうからである。道徳的な自己暴露は、このような方向に向かっての単なる一歩を意味するにすぎない。人は、あるがままの現実の中に立って、みずからに対して自分自身を告白する。その場合、もし彼が何の意味もなしにそうした自己暴露をすれば、彼は混乱した愚者であるにすぎない。しかしもし彼が、自分のしていることの意味をよく理解していれば、苦しみに耐えてキリストという象徴を実現する高い人間になり得るのである。宗教的に低い前段階において全く即物的なタブーや魔術的儀礼にすぎなかったものが、より高い段階に移ると、魂の問題や純粋に精神的な象徴に変わるということは、しばしば観察されることである。外面的規則だったものが、心の発達にともなって、内面的態度の問題になるのである。そうすれば、歴史的空間の中で自己の外に見出される人格としてのイエスが、その人自身の内なるより高き人間に変わるというような事態が、〔そういう東洋的認識とは正反対の態度をとる〕プロテスタント的人間の上に起こるかもしれないのである。そうすれば、われわれはヨーロッパ的態度によって、東洋理解における開悟に対応した心理的状態に到達したことになるであろう。

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 すべてこうしたことが、未知の目標へ至る途上に見出される高い人間的意識の発達の段階なのであるが、それは通常の意味における形而上学ではない。さしあたりそれは「心理学」にすぎないけれども、そこまでは経験可能であり、そして理解可能でもあり、また — ありがたいことに §£151; 現実的でもあるから、それによって何かを為すことができる現実であるとともに、そういう予感をともなっているが故に生きた現実でもあるのである。心理的に経験可能なものに満足し、形而上的なものを拒絶する私の態度は、洞察力をもった人なら誰でもわかることであろうが、決して信仰やより高い力に対する信頼をあてこすった懐疑論や不可知論の態度ではない。私が言っていることは、カントが、認識不可能な「物自体」を「単に否定的な限界概念」とよんだ場合とほぼ同じ状況なのである。どんな場合でも、超越的なものについて語ることはさけるべきである。なぜなら、そういう態度は常に、みずからの限界を意識できない人間精神の愚かしい思い上がりにすぎないからである。したがって、神あるいは「道」を魂の活動であるとか魂の状態であるという場合には、それは認識することのできる何事かについて述べているにすぎないのであって、認識不可能な事柄について語っているわけではない。認識不可能なものについては、何ひとつ解決することもできないのである。


7.結論

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 私の注解の目的は、東と西の間に、内面的で心的な理解の橋を懸けようとすることである。あらゆる現実的理解の基盤をなすのは人間であり、したがって私は、人間的な物事について語らなくてはならない。私はごく一般的な問題だけを扱い、特殊な技術的問題には立入らなかったが、これはそのためなのである。技術的な指示は、カメラがどういうものであり、ガソリン・エンジンがどういうものであるかということを知っている人には有益である。しかし、そういう機械について何も知らない人に教えてみても、何の意味もない。私がこの注解の読者として予想している西洋人は、こういう状態にいるのである。したがって私には、心的状態とシンボリズムの間にみられる東西の一致を強調することが、何にもまして重要であるように思われたのである。なぜなら、これらの類似において、東洋精神の内面的空間に至る通路がひらかれるからである。その通路は、われわれ西洋の独自性を犠牲にするように要求したり、われわれを根なし草にしようと脅かしたりはしない。またそれは、われわれとふれ合うことがないために、基本的にはわれわれの関心をひかないような展望しか与えない知的な望遠鏡か顕微鏡のようなものでもない。それはむしろ、すべての文化的人間にとって共通の苦悩や希求や努力という雰囲気である。それは、意識化するという、人類に課せられたおそるべき自然の実験なのであって、この実験が共通の課題になって、両極に分かれた東西の文化を一つにするのである。

84
 西洋的な意識は、どんな場合にも、端的な意識そのものである。それはむしろ、歴史的に条件づけられ、地理的に制約された要因であって、人類の一部分を代表しているにすぎないのである。われわれの意識の拡大は、他の意識様式を犠牲にして押し進めるべきものではなく、われわれの心の中にある。異質な〔東洋の〕魂の特質と類似した要素を発達させることを通じて、実現してゆくべきものである。それはちょうど、東洋がわれわれ西洋の技術、科学、そして産業なしですませることができないのと同じことである。ヨーロッパの東洋への侵入は、大規模な暴力行為であった。それは、東洋の精神を理解するという義務 — いわゆる高い身分にふさわしい責務 noblesse oblige — を、われわれに残したのである。それはわれわれが現在感じている以上に、おそらくわれわれにとって必要なことでもあるであろう。

forward.gifヨーロッパのマンダラの例