I 諸テキスト
C・G・ユング
「錬金術研究」II
ゾーシモスの幻像
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II 註釈
1 翻訳上の一般的注意
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これは、あたかも一連の幻像であるかのように、次々と続いているように見えるが、何度もの繰り返しや印象的な類似は、むしろ、本質的には一つの幻視であって、そこに含まれる主題について一揃いの変奏として提示されていることを示唆している。少なくとも心理学的には、これが寓意的な作り話であることを疑わせる根拠はない。その目立った道具立ては、ゾーシモスにとってそれは高度に意味深い経験であり、彼はこれを他の人々に伝達したがっているものであることを示唆しているように思える。錬金術の文献は、数多くの寓意を含み、これらは疑いもなく教訓的な寓話であり、直接的な経験に基づくものではない[001]が、しかしゾーシモスの幻視は、十分実際の出来事であり得る。このことは、ゾーシモス自身が、自分自身が夢中になっている問題の確認、「これは水の構成のことではないのか」として、それを解釈している仕方から生まれてくるように思われる。このような解釈は とにかくわたしたちには 幻視の中の最も印象的な諸々の表象を無視し、はるかに意味深い錯綜した事実を、あまりに単純なひとつの公分母にまで落ちぶれさせているように思われる。もしも幻視が寓意だとすれば、最も顕著な表象もまた、最大の意味を有するそれであろう。しかし、何らかの主観的な夢解釈の特色は、諸々の本質は無視した表面的な諸関係の指摘で満足するということなのである。他に考察さるべきことは、opus〔作業〕の間に生じる諸々の夢や幻像の出現を錬金術師たち自身が証言している[002]ということである。ゾーシモスの幻視ないし幻像はこの種の経験であって、仕事の間に起こり、背景の内に心理的過程の自然本性を露わにするものだ[003]という考えにわたしは傾いている。錬金術師たちが化学的過程の内に無意識のうちに投影したこと、そのさい、それらが物質の諸性質であるかのようにそこに見て取ったもの、そういったすべての内容が、これらの幻像の中に現れている。この投影が意識的態度で助長された広がりは、ゾーシモス自身によって与えられたいくぶん性急すぎる解釈によって示されている。
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たとえ、彼の解釈が、最初はいくぶん強引、じっさい附会的で恣意的なものとしてわれわれを打つとしても、それにもかかわらず、「水」の観念はわれわれにとって奇異なものであるとはいえ、ゾーシモスにとって、また錬金術師たちにとっては、一般にわれわれが想像もできないくらい意味をもっていたということを忘れるてはならない。「水」の言及が、肢体切断、殺害、拷問、変容などの観念のすべてがその所を得ている展望を開いている、ということも可能である。というのは、デーモクリトスや、コマリオスの文書(これらは紀元後1世紀に成立したとみなされている)に始まり、18世紀いっぱいに至るまで、錬金術が大いに関係したのが、不可思議な水、aqua divina〔聖なる水〕ないしaqua permanens〔永遠なる水〕であり、これはlapis〔石〕ないしはprima materia〔第一質料〕から、火の責め苦を通して、引き出されたものである。この水はhumidum radicale(根源的な湿り)であり、これが表すのは、物質の中に幽閉されたanima media natura〔〕ないしはanima mundi〔宇宙のアニマ〕[004]、石ないし金属の魂であり、anima aquinaとも呼ばれたものである。このアニマが解放されるのは、「調理」という方法によってのみならず、「卵」を切り分ける剣によって、あるいはseparatio〔分離〕によって、あるいは4つの「根」ないし元素への分解によって[005]であった。separatio〔分離〕はしばしば人体の肢体切断[006]として表現された。aqua permanens〔永遠なる水〕について、それは身体を四元素に分解したと言われた。要するに、神聖な水は変容の力を所有していた。それは、不可思議な「洗うこと」(ablutio〔沐浴〕)によってnigredo〔黒〕をalbedo〔白〕へと変容させた;それは元気のない物質にアニマを吹きこみ、死者を再び立ち上がらせ[007]、それゆえ、キリスト教会の儀式[008]における洗礼の水の効力を有していた。ちょうど、benedictio fontis〔泉の祝祷〕のさいに、祭司が水の上に十字の徴をつくり、そうやってそれを4つの部分に分けるように[009]、aqua permanens〔永遠なる水〕を象徴する気まぐれな蛇は、肢体切断を受けたが、これは身体の分割に対するもうひとつの並行である[010]。
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錬金術がゆたかに内包する相互に連結した意味のこの網を、これ以上詳しく述べるつもりはない。わたしの言ったことは、「水」の観念と、これと結合した施術とが、幻視の主題すべてが実際的に辻褄の合う見通しを錬金術師に簡単に開けられることを示せれば充分であろう。ゾーシモスの意識の立脚点からして、したがって、彼の解釈は強引で恣意的であることはむしろ少ないように思われる。ラテン語の格言に言う:canis panem somniat, piscator pisces(犬はパンの夢を見、漁師は魚の夢を見る)。錬金術師もまた、彼自身の特殊な言語で夢を見る。このことはわれわれに最大の慎重さを申しつけるが、言語が格段に曖昧であれば、なおさらのことである。これを理解するために、われわれは錬金術の心理学的秘密を学ばなければならない。古の指導者たちが言ったことはおそらく真実である、石の秘密を知る者のみが彼らの言葉を理解する[11]、と。この秘密はまったくのたわごとであり、真面目に研究する労をとる価値はないと、久しく主張されてきた。しかしこの軽率な態度は、心理学者にふさわしいものではない、というのは、いかな「たわごと」であれ、二千年になんなんとする間、人びと その中には最も偉大な人びとも何人か、例えば、ニュートンやゲーテ[012]が含まれている の心を魅了してきたのであれば、そこには心理学者にとって知るに有益な何かがあるにちがいない。かてて加えて、錬金術の象徴的意義は、無意識の構造と関係することが非常に多いことは、拙著『心理学と錬金術』の中で示しておいたとおりである。こういった事例は滅多にしかない珍しいものではなく、諸々の夢の象徴的意義を理解したいと思う者なら誰でも、現代の男女の夢が、われわれが中世の諸文書の中に見出す[013]のと同じ表象や隠喩を含むことしばしばであるという事実に目をとざすことはできないのである。そして、生物学上の代償は夢によって生み出されるという理解は、無意識の発達同様、神経症の扱いにおいても重要であるから、こういった事実の知識は、過小評価さるべきでない実践的価値をも有しているのである。
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