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back.gifII-1 翻訳上の一般的注意

C・G・ユング
「錬金術研究」II

ゾーシモスの幻像

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II-2 秘儀の執行

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 われわれの夢-幻の中に含まれる中心的な表象がわれわれに示しているのは、錬金術的変容の目的のもとに行われる一種の供儀の執行である。この儀式に特徴的なのは、神官がそのまま供儀する者であるとともに供儀される者であるということである。この重要な観念は、「ヘブライ人たち」(すなわち、キリスト教徒)[001]の教説の形でゾーシモスに届いた。キリストは自分を生け贄に供した神であった。供儀の執行の本質的部分は、肢体切断である。ゾーシモスがこのモティーフに親しんでいたのは、ディオニューソス密儀の伝統からであったにちがいない。ここでも、神は生け贄であり、ティターンたちによって八つ裂きにされ、調理鍋の中に[002]投げこまれるが、その心臓は、最後の瞬間に、ヘーラによって救われる。われわれのテキストが示しているのは、盃形をした祭壇は、その中で多数の人々が煮られ焼かれる調理用容器だということである。伝説やエウリピデースの断片[003]からわれわれが知っているように、動物的貪欲の噴出や、生きた動物を歯で食いちぎることは、ディオニューソス狂宴(オルギア)[004]の部分であった。ディオニューソスは実際(oJ ajmevristoV kai; memerismevnoV nou:V)(不可分にして可分の聖霊)と呼ばれていた[005]

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 ゾーシモスも生皮剥ぎモティーフに慣れ親しんでいたにちがいない。死と生き返りの神アッティス[006]とのよく知られた並行は、生皮を剥がれ吊されたマルシュアースである。さらに、生皮を剥がれての死の伝説は、宗教的教師マニにも帰され、これはゾーシモスの同時代者[007]であった。〔生皮剥ぎに〕続いて起こる生皮の中に藁を詰めるということは、アッティカの豊饒と再生の祭儀を連想させる。アテーナイでは、毎年、牝牛が屠殺され、皮を剥がれ、その生皮に藁が詰められた。この藁人形はそのあと鋤につながれたが、それは明らかに土地の豊饒を復活させることが目的[008]であった。類似した生皮剥ぎの祭儀は、〔メキシコの原住民〕アズテック族、スキュティア人たち、中国人、パタゴニア人たち[009]についての報告がある。

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 幻視の中では、皮を剥くことは頭部に限定されている。これは、III, i, 5.に述べられている全体的なajpodermavtwsiV(皮を剥ぐこと)とは相違して、頭皮剥ぎである。これは、もともとの幻視を、このレジュメrésuméの中で与えられている過程の記述から区別する諸々の行為のひとつである。ちょうど、敵の心臓や脳味噌を切り取って食べると、相手の活力や徳性をその者に授けると推測されたように、頭皮剥ぎは、生命原理や魂が身体に宿るためのpars pro toto〔部分をもって全体に代えること〕である[010]。生皮剥ぎは変容象徴であり、拙著『ミサにおける変容象徴』という小論の中ですでに長々と議論したところである。ここでは、拷問ないし懲罰(kovlasiV)という特別なモティーフに言及するだけで充分で、これは肢体切断や頭皮剥ぎの記述の中に特に明白である。これについては、ゲオルク・シュタインドルフによって公刊された『エリヤの黙示録』[011]のアクミム写本の中に注目すべき並行記事がある。幻視の中で、鉛-ホムンクルスhomunculusについて、拷問の結果、「彼の眼は血に満たされた」と言われている。『エリヤの黙示録』は、「永遠の罰」に投げこまれた者たちについて言う:「彼らの眼は血にまみれた」[012];反-メシアに迫害された聖者たちについても、「彼はその頭からその皮を引き剥がされよう」[013]

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 これらの並行が示唆しているのは、kovlasiVは罰ではないのであって、地獄の責め苦だということである。kovlasiVはpoena〔罰〕と訳されねばならないだろうが、この単語はウルガタ聖書のどこにも現れず、地獄の責め苦が言及されるあらゆる箇所で、この単語が用いられるのは、cruciare〔苦しめられる〕ないしcruciatus〔拷問〕という意味である。例えば、『ヨハネ黙示録』14:10「火と硫黄で苦しめられる」、あるいは『ヨハネ黙示録』9:5「人がサソリに刺されるときの苦痛」。対応するギリシア語は(basanivzein)または(basanismovV)「拷問」である。錬金術師たちにとっては、これは二重の意味をもっていた:basanivzeinは「試金石(bavsanoV)による試験」をも意味したのである。lapis Lydius(試金石)は、lapis philosophorum〔哲学者の石〕と同義に使われた。石の真正性ないし不朽性は、火の責め苦によって証明されるのであって、それ以外によって得ることはできない。このleitmotiv〔ライトモティーフ〕は、錬金術全体に貫徹している。

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 われわれのテキストの中で、皮剥ぎが特に言及されるのは頭で、魂の抽出を意味しているかのごとくである(皮skin=魂soulという原始的等値がまだここでは確実ならばだが)。頭は錬金術では考慮に入れるべき役割を演じ、古代以来ずっとそうでありつづけた。だから、ゾーシモスは自分の哲学者たちを「黄金の頭の息子たち」と名づける、わたしはこの主題を他の箇所で扱った[014]が、今再びそこにもどる必要はない。というのは、ゾーシモスやその後の錬金術師たちにとって、頭は「Ω要素」ないしは「円い要素」(stoicei:on strogguvlon)の意味を有し、霊薬(arcane substance)ないし変容物質〔変容を引き起こす物質〕(transformative substanca)と同義[015]だからである。III, vbis節における斬首は、それゆえ、霊薬(arcane substance)を獲得することを意味している。テキストにしたがえば、供儀祭官の後ろからついてくる人物は、「太陽の正中」と名づけられ、その頭は切り離されなければならない。黄金の頭を刎ねることは、『太陽の光彩』Splendor solisという写本にも、同じくロールシャッハの1598年の図版にも見出される。幻視における供儀は、solificatio〔〕の経験をした入信者のものである。錬金術においては、太陽は金と同義である。金は、ミヒャエル・マイアーが言うように「太陽の円運動の作品」、「最も美しい物質(substance)へと造形された輝く土であり、陽光が集まって輝き出るところ」、[016]である。ミューリウスは、「水は太陽と月の光から出る」[017]と言う。『隠された黄金』Aurelia occultaによれば、太陽の光線は水銀の中に凝集している[018]ドルンは、どんな金属をも、天上の「不可視の光線」[019]から引き出す、その球形はヘルメスの容器の原形である。このすべての見解によって、「太陽の正中」と名づけられた入信者は、それ自体が霊薬(arcane substance)を表現していると推測しても、ほとんど間違いなかろう。われわれは後ほどこの観念にもどることにする。

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 今は、幻視の他の細部に立ち帰ることにしよう。最も印象的な道具立ては、「盃形の祭壇」である。これは疑いもなく、ポイマンドレース〔選集IV〕のクラテールkrater〔混合器〕に関係している。これは、造物主が地上に送り出した容器で、ヌゥスに満たされており、したがってより高次の意識を求める者たちは、この中でみずからの浸礼をすることができるものである。ゾーシモスが自分の友、soror mystica〔神秘的な姉妹〕、テオセベイアに語っている、あの重要な一節で言及されている:「羊飼いのところ急ぎ下り、クラテールkraterの中に自分を浸しなさい、そうして自分の生まれつき(gevnoV)を急ぎ高めなさい」[020]。彼女は死と再生の場所に下り、それから「自分の種」へ、すなわち、二度生まれること、あるいは、福音の言葉で言えば、天国に、上らなければならなかったのである。

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 クラテールkraterは明らかに奇跡を起こす容器、聖水盤ないし手洗い盤であり、この中で浸礼が行われ、霊的存在への変成がはたされるところのものである。これは後の錬金術師のいうvas Hermetis〔ヘルメスの容器〕のことである。ゾーシモスのクラテールkraterが、『ヘルメス選集』Corpus Hermeticum[021]におけるポイマンドレースの容器と密接に関係していることを疑わせるものがそこにあり得るとはわたしは思わない。ヘルメスの容器とは、霊的更新あるいは再生の子宮のことでもある。この観念は、benedictio fontis〔泉の祝祷〕のテキストとぴったり対応するが、〔そのテキストは〕先の脚注[022]にわたしが引用したものである。「イシスからホーロスへ」[023]の中で、天使はイシスに、半透明ないし「輝く」水に満たされた小さな容器もたらす。この文書の錬金術的自然本性から考えて、われわれはこの水を、この術による聖なる水[024]ととることができる、prima materia〔第一質料〕の後では、これが真の霊薬(arcanum)だからである。水、あるいはナイルの水は、古代エジプトでは特別な意味をもっていた:それはオシリス、par excellence〔〕肢体切断された神[025]であった。エドフで出土したテキストは言う:「わたしは神の四肢[すなわち、ナイル]の入った容器をおまえにもってくる。おまえがこれを飲めるよう。わたしはおまえの心臓を新しくする、おまえが満足するよう」[026]。神の肢体は14の部分からなり、オシリスはその部分に分けられた。霊薬(arcane substance)の隠された聖なる自然本性については、錬金術の諸テキスト[027]に無数の言及がある。この古代の伝統にしたがえば、この水は生き返りの力を所有していた;というのは、それは、死から甦ったオシリスだったからである。「錬金の辞典」[028]の中で、オシリスは鉛と硫黄の名前であり、そのどちらも霊薬(arcane substance)の同義語である。こうして鉛は、長い間、arcane実体の原理的な名称であって、「オシリスの、この神の肢体すべてを含む封印された墓」[029]と呼ばれていた。伝承によれば、セート(テュポーン)は、オシリスの柩を鉛で覆ったという。ペタシオスはわれわれに言う、「火の球は鉛によって抑制され、閉じこめられる」。オリュムピオドーロスは、この発言を引用して、「鉛は、男性要素に由来する水である」[030]と説明することで、ペタシオスは付言したのだと所見を述べている。しかし、男性要素とは、彼の言うには、「火の球」のことである。

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 一連のこの考えが示唆しているのは、水である霊、あるいは霊である水は、本質的に逆説であり、水と火のように対立対(つい)だということである。錬金術師たちのaqua nostra〔われらが水〕の中では、水、火、霊の概念は、彼らが宗教的用法においてするように、癒合している[031]のである。

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 水のモティーフのほかに、イシス文書の背景をなす物語は、侵犯のモティーフをも含んでいる。テキストは言う[032]

女預言者イシスから息子ホーロスへ:わが子よ、汝の父の王国のために、不実なテュポーンとの戦いに出陣すべし。その間、エジプトの聖なる術の[町]、ホルマヌティにわたしは退き、そこにしばし逗留する。時代の環境と球体の[033]運動の必要な結果にしたがい、天使たちのある一人が、第一の天空に住しているが、上からわたしを見て、わたしと交接したいと思うようになった。彼はこれを実行に移す決心をすぐにした。わたしは望まなかった、というのは、わたしは金と銀の調合剤を調べたかったからだ。しかしわたしが彼にそのことを要求したとき、秘密の最高の重要さゆえ、彼はそのことを話すことを許されていないとわたしに言った;しかし次の日、彼よりの偉大な天使アムナエルが、やって来て、問題の解決策をわたしに与えることができよう、と。彼はまたこの天使の徴についても話した — 〔その徴は〕自分の頭につけ、わたしには小さく見えようが、半透明の水をたたえたピッチを塗られない容器である。彼はわたしに真実を語るであろう。次の日、太陽がその軌道の中間点にさしかかったとき、最初の天使よりも偉いアムナエルが現れ、同じ欲望にとらわれ、彼はためらうことなく、わたしがいるところに急いだ。しかし、わたしもおとらず関心事を調べる決心をした。[034]

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 彼女は彼に譲歩せず、ついに天使は秘密を暴露し、これを彼女は息子ホーロスにのみ伝授することができた。それからいくつかの秘法がつづくが、ここでの関心事ではない。

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 天使は、有翼の霊的存在として、メルクリウス[121]のように、揮発性の実体、プネウマ、ajswvmaton(非体)を表す。霊は、錬金術においては、ほとんど変わることなく、水ないし根源的な湿り気 — 「化学」の最古の形、すなわち、料理術、の経験的自然本性によって単純に説明される事実 — との関係を有する。沸騰する水から立ちのぼる蒸気は、「変身」、有体から非体への、霊ないしプネウマへの、変容の最初の活き活きとした印象を伝える。霊と水の関係は、霊は水のなかに、魚のように隠れているという事実に存する。『哲学者たちの群に関する寓喩』Allegoriae super librum Turbae[35]の中では、この魚は「円い」と記され、「奇跡を起こす力」を授けるという。このテキストから明らかなように[036]、これは霊薬(arcane substance)を表す。錬金術的変容から、collyrium(目薬)がこしらえ方され、これは哲学者をして、諸々の秘密をよりよく見えさせる[037]、とテキストは言う。「円い魚」は、『群』Turba[038]の中で言及される「円く白い石」に関連しているように思われる。これについて言われる、「それ自身の内に3つの色彩と4つの自然本性を有し、生き物から生まれる」。「円い」もの、ないし、〔円い〕要素は、錬金術ではよく知られた発想である。『群』の中でわれわれはrotundum〔円きもの〕に出会う:「子孫のために、わたしはrotundum〔円きもの〕に注意を喚起する。これは金属を4つに変変化させるものである」[039]。文脈からはっきりしているように、rotundum〔円きもの〕はaqua permanens〔永遠なる水〕と同一である。われわれはゾーシモスの中に一連の同じ考えに出会う。彼は円ないしオーメガ要素について言う:「それは2つの部分から成る。それは第七帯域に、クロノス[040]のそれに属するが、それは有体の言葉の場合である(kata; th;n e[nswmon fravsin)。非体の言葉ではいくらか異なり、暴露され得ない。ひとりニコテオスのみがそれを知っているが、彼は見つけられない[041]。有体の言葉では、それはオーケアノスと名づけられ、神々のすべての根源にして種子だと言われる」[042]。ここからして、rotundum〔円きもの〕は外見上は水であるが、内的にはarcanum〔霊薬〕である。ペラータイ派[120]にとっては、コスモスは「水の色を持った力」[043]であり、「水にとっては破壊である、と彼らは言う」。

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 水と霊はしばしば同一視される。だからヘルモラウス・バルバルス[044]は言う:「錬金術師たちの天上的ないし聖なる水もあり、これはデーモクリトス、ヘルメス・トリスメギストス両人に知られていたものである。彼らはこれを時に聖なる水、時にスキュティアの液汁、時にプネウマすなわち霊と呼んだが、霊気〔アイテール〕の自然本性を有し、事物の精髄である」[045]ルゥランドゥスはこの水を、「霊的な力、天的自然本性の霊」[046]と呼ぶ。〔ヨアンネス・〕クリストフォルス・ステーブスは、この観念の起源について興味深い説明を与える:「天上の水〔複数〕に聖霊が垂れこめ、何とも名状しがたい仕方で万物にしみわたる力をもたらし、これを温め、そして光と結びついて、下界の鉱物界には水銀の蛇を、植物界には緑色を、動物界には形成力を発生させた:そのおかげで、上天の水〔複数〕の霊は、光と一体となって、適切にも、世界の魂と呼ばれるようになった」[047]。ステーブスは続けて言う、天上の水〔複数〕が霊によってアニマを吹きこまれたとき、それはすぐに円運動に陥り、これから起こったのが、anima mundi〔宇宙のアニマ〕の完全な球体である。それゆえrotundum〔円きもの〕は、一片の宇宙魂であり、これが、ゾーシモスによって護られた秘密であったかもしれない。これらすべての観念の起源は、はっきりプラトンの『ティマイオス』に求められる。『群』の中で、パルメニデースはこの水を次のように称讃する:「おお、御身、天上の自然本性よ、からの合図によって、真理の諸々の自然本性を増殖させるものよ! おお、万能の自然よ、諸々の自然に打ち勝ち、諸々の自然をして歓喜させるものよ、みずからも喜ぶがよい![048] というのは、火が所有しない力をが授けた相手は、とりわけて彼女〔自然〕なのだから……当の彼女が真理であり、御身ら知の探求者はみな、彼女の物質(substance)によって液化し、彼女が最高の作品をもたらす」[049]

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 ソークラテースは、『群』Turbaの中でほとんど同じことを言う:「おお、この自然が身体を霊に変えるさまよ!……彼女〔自然〕は最もきつい酢であり、金を純粋な霊にならせるものである」[050]。「酢」は「水」と同義であり、テキストが示すとおり「赤い霊」、[051]とも同義である。後者について『群』Turbraは言う:「赤い霊に変容される調合から、世界の原理が立ち上がる」、これがまたもや世界霊を意味する[052]。『立ち昇る曙光』Aurora consurgensは言う:「汝のを放射せよ、それは水であり……汝は大地の顔を新しくするであろう」。さらにまた:「聖霊の雨は溶ける。彼は自分の言葉を発する……彼の風が吹き、諸々の水がほとばしる」[053]アルナルドゥス・デ・ヴィラノヴァ(1235-1313)はその『光の光』Flos Florumの中で言う:「彼らは水のことを霊と呼んできた、それは真実の霊の中にある」[054]。『哲学者たちの薔薇園』Rosarium philosophorumは断定的に言う:「水は霊である」[055]。コマリオス(紀元後1世紀ころ)の文書の中で、水は、冥府に眠る死者を新しい春にめざめさせる命のelixir〔精髄、霊薬〕と記されている[056]。アポッロニオスは『群』の中で言う[057]:「しかし、汝らこの教義の息子たちよ、そのときそのものは火を必要とする、そしてついに、あの身体の霊は変容し、夜々を通して立ちつくし、ひとのごとく、その墓の中で塵となる。このことが起こった後、はこれに魂とその霊をもどし、虚弱さは取り除かれる、その破壊の後、物事がより強く、より善くなるためである、ちょうど、復活の後には、彼が世界にあったときよりも、より強くより若くなるように」。が身体に効くように、水は物質(substance)に効く。それはと同質であり、それ自身が聖なる自然本性を有するのである。

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 われわれが見てきたように、水の霊的自然本性は、カオスを覆う聖霊の「覆い」(『創世記』1:3)に由来する。『ヘルメス選集』Corpus Hermeticumの中に類似した見解がある:「深淵には暗黒と、形なき水があった;また、名状しがたい気息、叡知があり、神聖な力を伴って、カオスの中の事物に行き渡っていた」[058]。この見解は、先ず第一に『新約聖書』の「水と霊」による洗礼のモティーフによって、第二に、復活祭前夜Easter Eveに執り行われるbenedictio fontis〔泉の祝祷〕の儀式[059]によって支持される。しかし、奇跡を起こす水という観念は、もともとは、ヘレニズムの自然哲学に由来し、おそらくは、エジプトの諸々の影響の混合を伴っているが、キリスト教的ないし聖書的源泉に由来するものではない。その神秘的な力ゆえに、水はアニマを吹きこみ、豊饒にするが、しかしまた殺しもするのである。

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 聖なる水は、この二重の自然本性(to; stoicei:on tov dimerevV)が[060]いつでも強調されるが、その聖なる水には、2つの原理、能動と受動、男性と女性、が互いに均衡しており、誕生と死という永遠の循環の中に[061]、創造的な力という本質(essence)を構成している。この循環は、古代の錬金術においては、われとわが尾を噛む竜[062]であるウロボロスの象徴によって表現された。自分を呑みこむことは、自己破壊と同じことである[063]が、しかし竜の尾と口とが一つであるということはまた、自家受精の考えでもあった。ここにおいてテキストは言う:「竜は自分を殺害し、自分と結婚し、自分で妊娠する」[064]

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fig12.jpg 古代錬金術のこの観念は、ゾーシモスの幻視において、真実の夢かと思わせるほどに劇的に再現する。III, i, 2の中で、神官イオーンは「耐えがたい責め苦」に服する。「犠牲祭官」は、剣でイオーンを刺し貫くことで、犠牲の行為を遂行する。こうしてイオーンは、「太陽の正中」(III, vbis)と名づけられた目もくらむ白衣のあの人物を予示するが、それは斬首される者、イシス密儀における入信者のsolificatioとわれわれが結びつけたところの者である。この人物に対応するのが、王の秘儀伝授者ないし霊魂導師であるが、これは後の中世の錬金術テキスト、『隠された黄金』Aurelia occulta[065]の部分を形成する『アドルフスの主張と解説』Declaratio et Explicatio Adolphiの中で報告される幻視の中に現れる。ひとが判断し得るかぎりでは、この幻視はゾーシモスのテキストといかなる結びつきも持たないが、ほんのちょっとした譬えの特徴をひとはこれに帰してよいかどうかに対して、わたしは大いに疑問視もしている。これが含む道具立ては、伝統的ではないが、完全に独創的なものであり、この理由で、それが真正の夢-経験であるということはありそうに思われる。いずれにしても、専門家としてのわたしの経験から、似たような夢-幻像は、今日、錬金術の象徴的意義の知識を持たない人々の間に現れるということをわたしは知っている。その幻視は、星々の王冠をかぶった輝く男性の姿と関係する。その 長袍白い亜麻布で、色とりどりの多数の花が点在し、緑がかっていた。彼はその名人の不安をもたらす疑問をやわらげて、言う:「アドルフスよ、わしについて来い。おまえのために何が用意されているかを見せよう、そうすれば、おまえは闇から光へと通過することができよう」。この人物は、それゆえ、真の霊魂導師にして伝授者ヘルメースであり、名人の霊的なtransitus〔通過〕を教導する者である。このことは、後者〔名人〕の冒険のうちに、彼が古いアダムの「放射状の姿」を示す書を受けるときに確認される。霊魂導師とは第二のアダムであり、クリストに並行する姿であるということをこれは示唆しているとわれわれは受け取ってよかろう。ここには供儀についての話はない、が、もしもわれわれの推測が正しいなら、この考えは、第二のアダムの登場によって是認される。一般的に言って、王の姿は、mortificatio〔死〕のモティーフと関連するのである。

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 このように、われわれのテキストにおいては、太陽ないし金の化身は犠牲に供されねばならず[066]、太陽の光輪をいただいたその頭は、切り離され、それゆえ、〔頭は〕arcanum〔霊薬〕を含むか、arcanum〔霊薬〕[067]である。ここに、われわれは、arcanum〔霊薬〕の心的自然本性の示唆を有する、というのは、ひとの頭は何にもまして意識の座を意味する[068]からである。さらに、イシスの幻視において、秘密を持った天使は、太陽の子午線と結びついている、というのは、「太陽がその軌道の中間点を横切る」ときに彼は登場するとテキストが言っているからである。天使は神秘的な精髄elixirをその頭にもっており、子午線とのその関係から、彼は一種の太陽の守護者、あるいは、「照明」をもたらす太陽の使者、つまり、意識の高まりと広がり、であることをはっきりさせるからである。彼の不作法な振る舞いは、天使たちは彼らの道徳が関係するかぎり、うさんくさい評判をいつも享受するという事実によって説明されるかも知れない。女たちにとって、教会の中ではその髪を覆うという規則がまだある。19世紀になんなんとしても、特に新教徒の地域では、日曜日に教会に行くときは、特別のフードを身につけなければならなかった[069]。それは、会衆の中に男がいるからではなく、女の髪型を見て有頂天になる天使たちがいるかも知れないからであった。こういった事柄における彼らの感受性は、『創世記』6:2にさかのぼる。そこでは「の息子たち」が「ひとの娘たち」に格別の偏愛をさらけだし、熱狂の抑制のなさは、イシス文書の中で二人の天使が見せたのに劣らない。この文書は、紀元後1世紀のものとみなされている。この見解は、エジプトのユダヤ-ヘレニズム時代の寓喩を反映し、エジプト人ゾーシモスには容易に知られたはずである。[070]

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 天使たちに関するこのような諸々の意見は、女性心理と同様、男性心理と見事に適合する。いやしくも天使たちが何者かであるとするなら、彼らは表現を探し求める無意識の内容の擬人化された伝達者である。しかし、意識的な心がこれらの内容を吸収する用意がなければ、その活力は感情的、本能的空間に流れ出る。これがもたらすのは、感情、苛立ち、諸々の悪しき気分、性的興奮の爆発であり、その結果として、無意識は完全に方向性を失う。この情態が常習化すると、分離状態の症状を呈するが、これはフロイトによって、抑圧として、よく知られたそのあらゆる結論とともに記述されたところである。それゆえ、分離の基礎となる内容に精通することは、治療上最も重要なことなのである。

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fig8.jpg ちょうど、天使アムナエルが霊薬(arcane substance)を持ち運ぶように、「太陽の正中」そのものも、それの表現である。錬金術文学においては、剣で突き刺したり切り刻んだりするという手続きは、哲学の卵を分割する特別の形をとる。それはまた剣で分割される、すなわち、4つの自然本性あるいは要素に割られる。arcanum〔霊薬〕として、卵は水と同義である[071]。それはまた竜(水銀のヘビ)[072]とも、だからまた、小宇宙ないし単子という意味で、水とも同義である。水と卵は同義であるから、剣による卵の分割は、水にも適用される。「容器をとれ、剣で切り開け、その魂をとれ……かくして、われわれのこの水はわれわれの容器である」[073]。同様に容器は卵と同義であり、だから秘法である:「円いガラスの容器に注ぎ込め、盃ないし卵のような形にせよ」[074]。卵は世界卵の写し、卵白は「天空の上なる諸々の水」「光り輝く水薬」と対応し、黄味は物理的世界に対応する[075]。卵は4つの要素を内容とする[076]

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fig25.jpg 分割する剣は、わたしたちが註してきた付加において特別な意義を有するようにみえる。『合一の集い』Consilium coniugiiは言う、太陽と月という結婚するペアは、どちらも自分たち自身の剣によって屠られねばならない、最も内奥に隠された[すなわち、以前の]魂が消えるまで[077]、不死なる魂を吸収するために」。1620年の詩の中で、メルクリウスは、自分は火の剣によって「責め苦を受けて痛い」[078]と不平をこぼしている。錬金術師たちによれば、メルクリウスは、パラダイスですでに「知識」をもっていた年旧りたヘビである、というのは、悪魔と密接に関係していたからである。彼を責めさいなむのは、パラダイスの門で天使によって振りまわされた火の剣[079]であり、しかも、彼自身がその剣なのである。王とヘビを剣で殺すメルクリウスの『真理の鏡』Speculum veritatis[080]の中に絵がある — fig150.jpg「特別な剣で我と我が身を切り裂く」gladio proprio se ipsum interficiens。サトゥルヌス〔土星〕もまた剣で刺し貫かれて示される[081]。この剣は、telum passionis〔情熱の矢弾〕、クーピドの矢[082]の変形として、メルクリウスにぴったりあてはまる。ドルンは、その『思弁哲学』Speculativa philosophia[083]の中で、この剣について長い興味深い解説を与えている:それは「の怒りの剣」であり、ロゴスたるクリストの形で、生命の木に吊り下げられているものである。こうして、の怒りは愛に変えられ、「恩寵の水は、今、全世界を浸している」。ここに再び、ゾーシモスにおいてと同様、水は犠牲の執行に結びついている。ロゴス世界は、「両刃の剣よりも鋭い」(『ヘブル人への手紙』4:12)から、ミサにおける聖変化の諸々の言葉は、生け贄が屠られる犠牲祭用の包丁[084]として解釈される。ひとは「循環的」なグノーシス的思考を、錬金術の中と同じく、キリスト教象徴の中にも見出す。どちらの場合も、犠牲にする者は犠牲にされる者、殺す剣は殺されるそれと同じである。

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figurob.jpg ゾーシモスにおいては、この循環的思考は、犠牲祭官とその犠牲獣との同一視、イオーンが変身したホムンクルスが自分自身を呑みこむ[085]という注目すべき観念の内に現れる。彼は自分自身の肉を吐き出し、自分自身の歯でみずからを噛みきる。それゆえホムンクルスはウロボロスを表す。〔ウロボロスは〕自分自身を呑みこみ、(あたかも自身を吐き出すように)自分に誕生を与えるものである。ホムンクルスはイオーンの変容を表現するから、イオーン、ウロボロス、犠牲を行う者は、本質的に同じである。彼らは同じ原理の3つの異なった相である。この一致は、わたしが「レジュメ」résuméと呼んで、幻像の終わりに配置したテキストのあの箇所の象徴的意義によって確認される。犠牲にされたものは、まさしくウロボロス-蛇であり、その円形は、神殿の形状によって暗示されているのであって、「その構造物には初めも終わりもない」。生け贄を肢体切断することは、カオスを4つの要素に分割する、あるいは、洗礼の水を4つの部分に分割するという観念に対応している。この施術の目的は、massa confusa〔混沌の塊〕における秩序の初めを創ることであり、このことはIII, i, 2「階調の規則に従って」の中に暗示されている。これに対する心理学的並行は、意識へと突破する無意識の明らかにカオス的な諸々の断片の、内省を通しての、秩序への転落である。錬金術とその施術の何がしかを知ることなく、わたしが過去何年もの間、苦心して完成させてきたのは、意識の4つの機能に基礎を置く心理学的類型論を、一般的な心理的過程の秩序だった諸原理とすることだった。無意識のうちに、わたしが使っていたのは、ショーペンハウエルをしてその「充足原理」に4つの根本[086]を与えさせたのと同じ原型であった。

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 「一枚岩」で建てられる神殿は、lapis〔石〕の明白な言い換えである。神殿の中の「純粋このうえない水の源」は、生命の泉であり、これは、円い全体性つまり石の産出は、生命力の保証であるという暗示である。同様に、その中で輝く光は、全体性がもたらす照明[087]として理解されうる。啓蒙は意識の増進である。ゾーシモスの神殿は、後世の錬金術では、domus thesaurorum〔宝の家〕ないしgazophylacium(宝庫)[088]として登場する。

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 輝く白い「一枚岩」は、疑いもなく石を表すにもかかわらず、同時にはっきりとヘルメスの容器を意味している。『薔薇園』は言う:「石はひとつ、薬はひとつ、容器はひとつ、手続きはひとつ、性質はひとつである」[089]。『ヘルメスの黄金論』Tractatus aureus Hermetisの古註は、それをもっと平明にしている:「あらゆるものをして、ひとつの円ないし容器の中にあらしめよ」[090]ミハエル・マイアーは、ユダヤ女マリア(モーゼの妹)に宛てて、この術のすべての秘密はヘルメスの容器の知識の内にあると書いている。それは神聖にして、の知恵によってひとには隠されてきた[091]『立ち昇る曙光』II[092]は、自然の容器はaqua permanens〔永遠なる水〕にして、「哲学者たちの酢」 — これは明らかに霊薬(arcane substance)そのものを意味する — だと言う。われわれはx「マリアの実習」Practica Mariae[093]を、ヘルメスの容器が「汝の火の尺度」であると言い、「ストア派[094]によって隠されて」きたということも、その意味で理解するべきである;それはメルクリウスを変容させる「有毒な身体」であり、それゆえ、哲学者たちの水である[095]。この容器は霊薬(arcane substance)として水であるばかりか火でもあり、「寓喩の知恵」Allegoriae sapientumとしてはっきりさせる:「このようにわれわれの石、すなわち火のフラスコは、火から創造された」[096]。それゆえわれわれは、ミューリウスがこの容器を「根にして、われらの術の原理」[097]と呼ぶ所以を理解できる。ラウレンティウス・ウェントゥラ[098]は、それを「ルーナ」Luna〔月〕、foemina alba〔〕とか石の母とか呼んでいる。「水によっては溶けないが、火によっては融ける」容器とは、『第四の自由』Liber quartorum[099]によれば、「聖なる種子(germinis divi)の容器の中のの作品のようなもの」である、というのは、それは土塊を受け取って、これを造形し、水と火とともに混ぜたからである」。これはひとの創造のほのめかしであるが、他方では、魂の創造に触れているようにみえる、というのは、すぐ後でテキストは「天上の種子」からの魂たちの産出について語っているからである。魂をつかまえるために、はvas cerebri〔脳の容器〕、頭蓋骨を創造した。ここに、容器の象徴的意義は、頭と表裏一体であり、このことは拙著『ミサにおける変容象徴』[100]の中で議論してきたところである。

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 prima materia〔第一質料〕が、根源的な湿り気として、魂とかかわらねばならない所以は、後者が自然本性的に[101]湿っており、しばしば露[102]によって象徴されるからである。こういう仕方で、容器の象徴は魂に移行する。このことのすぐれた例[103]が、ハイシュテルバッハのカエサリウスにある:魂は球的自然本性の霊的物質であり、月の球のように、あるいはガラスの容器のように、「前と後ろに眼を備えていて」、「全宇宙を見る」。これは、錬金術における多眼の竜や、イグナティウス・ロヨラの蛇の幻視[104]を思い起こさせる。この結びつきの中で、容器はx「全天空をその軌道の中で回転」させる[105]というミューリウスの注意が特に興味深いのは、わたしがすでに示したように、星のきらめく天は多眼のモティーフ[106]と表裏一体だからである。

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 以上すべてにかんがみて、われわれは、容器はx「一種の円積法」[107]によって制作されねばならないというドルンの見解を理解することができるであろう。それは本質的に心理的な施術であり、いかなる主観的な形でそれが現れようとも、自我の原型を受け容れる内的用意の創造である。figB7.jpgドルンはこの容器をvas pellicanicum〔ペリカンの容器〕と呼び、これの助けで、quinta essentia〔第五の本質〕がprima materia〔第一質料〕から引き出され得る[108]と言う。『ヘルメスの黄金論』Tractatus aureus Hermetisの古註の無名の著者は言う:「この容器は真実の哲学的ペリカンであり、他に探し求められるべきものは全世界に存しない」[109]。それはlapis〔石〕そのものであり、同時にそれを内容とする;すなわち、自我がそれ自身の容れ物である。この定式化はlapis〔石〕と卵との、あるいは、みずからを呑みこみみずからに誕生をもたらす竜との、頻繁に起こる照応によって生まれる。

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 錬金術のこの思想と言説は、神秘主義へと強く傾く:『バルナバの手紙』[110]では、クリストの身体は「霊の容器」と呼ばれている。クリスト自身が、自分の胸の羽を自分の雛たちのためについばむペリカン[111]である。ヘーラクレオーンの教えによれば、死にかけたひとは、造物主の諸力に次のように話しかけねばならない:「われは御身が造った女よりも価値ある容器なり。御身の母は自分自身の根源を知らぬが、われは我自身を知り、いずこから来たりしかを知り[112]の内なる、また、御身の母のなる不滅の知 — 母をもたず、しかしまた男の伴侶をも有さぬ — を呼び出す」。[113]

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 錬金術の難解な象徴的意義の中に、われわれはこの種の思想、未来の展望の望みなく、教会の検閲の下に破壊を運命づけられた思想の遠い木魂を聞く。しかし、われわれはまたその中に未来に向けての手探り、投影が先ずもって発生したひとへとそれが連れもどされるときの予感をも見出す。この傾向性が、錬金術の象徴的意義の走馬灯のごとく移り変わる光景の中にみずからを表現することを求める妙に不器用な方法を見ることは、興味深い。以下の教えが、ルペシッサのヨハネスによって与えられている:「容器をして、ケルーブの恰好につくられしめよ、これはの顔である、そして、これに6つの翼をもたしめよ、自分の背に6つの腕をもっているかのように;そしてその上に、円い頭……」[114]。ここから現れるのは、観念的な蒸留装置が、いくぶん妖怪的な種類の神性にもかかわらず、それでもなおほぼ人間の形をしているということである。ルペシッサはこの精を「人間にとっての天」ciel humainと呼び、それは「天および星辰である」comme le ciel et les étoilesと言う。エル−ハビブの書[115]は言う:「人間の頭は同じように濃縮装置に似ている」。宝の家を解錠する4つの鍵について語って、『毒人参の検討』Consilium coniugii[116]は説明する、それらの1つは、「生きたひとのように、首を通って容器の頭へ至る水の上昇」である。『第四の自由』Liber quartorumに類似した観念がある:「この容器は……円い形でなければならない、ちょうど、われわれが必要とするのは単純なものであるように、artifex〔制作者〕は天空や頭蓋の変容者かもしれないということである」[117]。これらの観念は、ゾーシモスにおける頭の象徴的意義に連れもどすが、しかし同時に、変容は頭の中で起こるのであり、それは心理的過程である、というほのめかしでもある。この現実化は、後に不器用に変装した何かではなかった;それが公式化された骨の折れる方法が証明するのは、いかに強情にそれが物質に投影されたかということである。諸々の投影の撤回を通しての心理学的知識は、最初期から、格段に難しいものでありつづけたように思われる。

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 竜、あるいは蛇は、無意識の初期の段階を表現する、というのは、この動物は、錬金術師たちの言うとおり、「洞穴や暗い場所」に住むことが好きだからである。無意識は犠牲に供されなければならない;その場合にのみ、ひとは頭に至る入口を、そして意識の知識と理解へ至る道を見出し得る。英雄と竜との宇宙的な闘いがもう一度演じられ、その勝利の結末のたびごとに太陽が昇る:意識がきざし、変容の過程が神殿の内側で、すなわち頭の中で、起こっているということが認められる。実際には、内的なひとはここではホムンクルスとして表現され、これは銅を銀に、銀を金に変容させるという段階を通過し、こうして価値の段階的な高まりをこうむるのである。

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 内的なひとやその霊的成長が金属によって象徴されるというのは、現代人の耳にはひどく奇妙に聞こえる。しかし歴史的事実に疑問の余地はなく、錬金術にとってその観念は特殊でもない。例えば、ゾロアスターはアフロマズダーから全知の飲み物を受け取った後、彼は夢に、金、銀、鋼、鉄の混じった4つの枝をもった樹を見た[118]と言われる。この樹は、錬金術の金属の樹、arbor philosophia〔哲学の樹〕に対応し、いやしくもそれが何らか意味があるとすれば、霊的成長と最高の照明を象徴するものである。活性のない金属である金は、たしかに、霊の正反対であるように思われる — しかし、霊が死体や鉛と同じように重ければどうであろうか? その場合には夢は、鉛ないし水銀の中にそれを探し求めるようわれわれに簡単に告げるであろう! どうやら、自然はひとの意識をより大いなる膨張やより大いなる明晰さへと呼び起こし、この理由で、金属への、特に高価なそれへの欲望を絶えず開発し、彼をしてそれらを求めさせ、その財産を発明させる。これに携わっている間、彼にわかり始めるのは、鉱山で見つけられるのは鉱脈のみならず、コーボルトや小さな金属人間であるということ、鉛の中に隠されているのは、命取りのデーモンないし聖霊の鳩だということである。

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 明白なのは、何人かの錬金術師たちは、薄い壁が彼らと心理学的な自意識とを分かつにすぎない地点に至る現実化のこの過程を通過したということである。クリスチャン・ローゼンクロイツは、まだ分離線のこちら側にいるが、ゲーテは『ファウスト』であちら側に越え出て、内的なひと、あるいは、かつてホムンクルスの中に隠れていたより大いなる個性が、意識の光の中に浮上し、以前のego〔自我〕、動物的なひとに向きあう時に起こるところのあの心理学的問題を記述することができた。一度ならず、ファウストはメフィストフェレスの金属的冷淡さをうすうす感づいている。〔メフィストフェレスは〕初めは犬の形をとって(ウロボロス-モティーフ)彼のまわりを回っていたのである。ファウストは彼を親しい霊として用い、そして最後は欺瞞的悪魔のモティーフを用いて彼を追い出す;それでもやはり、メフィストフェレスが、魔法を働かせる力とともに、自分に名声をもたらすという手柄を要求したのである。ゲーテの問題解決はまだ中世的であるが、それにもかかわらず、教会の保護なしにうまくやってゆく心理的態度を反映している。ローゼンクロイツはそうではなかった:彼は魔方陣の外側に立つだけの賢明さをそなえていたのは、彼が伝統の範囲内に生きていたからである。ゲーテはもっと現代的であり、それゆえもっと無謀であった。彼は心のヴァルプルギスの夜が、キリスト教の教義が提供する保護に対して、いかほど命取りであるかを実際にはけっして理解しなかった。彼自身の傑作が、2つの刊本において、彼の眼前にその地下世界を展開したとしてもである。しかし、そのさい、尋常ならざる数の事物が、真面目な意識を持つことなしに詩人に起こった。こういったことが徹底的に起こったのは、わずか百年後のことである。無意識の心理学は、このような長い期間と対面しなければならない。というのは、束の間の個性にかかわることは、古来の過程ほどには多くないからである。

forward.gifII-3 諸々の擬人化