II-2 秘儀の執行
C・G・ユング
「錬金術研究」II
ゾーシモスの幻像
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II-3 諸々の擬人化
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わたしがレジュメrésuméとみなしてきたもの、すなわち、われわれが議論してきた1節を、ゾーシモスはprooivmion、序論と呼ぶ[001]。それゆえ、それは夢-幻ではない;ゾーシモスはここで、意識的言語で自分の術について語り、明らかに彼の読者にとってわかりやすい用語で自分の意見を述べている。竜、それの生け贄、肢体切断、ひとつ岩で建てられた神殿、黄金つくりの神秘、小人の変成、これらはすべて彼の時代に流布した錬金術の概念である。これが、この1節が、本物の幻像とは対照的に、ちょうど夢がそうであるように、非正統的で独創的な方法で変成の主題を扱っているので、われわれにとって意識的寓意に見える理由である。金属の抽象的な霊が、ここでは受苦する人間存在として描かれている;すべての過程が、秘儀入門のようになり、非常に重要な問題として心理学的に扱われてきた。しかしゾーシモスの意識は、まだ投影の呪文の下にとどまるあまりに、彼は幻視によって「水の構成」以上のものを見ることができない。当時、意識がいかに神秘的過程に顔をそむけ、その注意を物質的なそれに結びつけていたか、投影がいかに形而下界の方に心を引きつけていたか、をひとは見る。というのは、形而下界はまだ発見されていなかったからである。ゾーシモスが投影を認めたとしたら、彼は神秘的思索の霧の中に逆戻りし、科学的精神の発展はさらに長期間遅滞したことであろう。われわれにとっては、事情は異なる。彼の幻像の神秘的内容こそが、われわれにとっては特に重要であり、その所以は、ゾーシモスが発見に努めていた化学的過程をわれわれは充分に熟知しているからである。それゆえ、われわれは、それらを投影から分離し、それらが内容とする形而下的要素を認識できる立場にいる。レジュメrésuméはまた、解説のその文体と幻像のそれとの違いの識別をわれわれに可能にする比較の基準をわれわれに提供している。この違いは、諸幻像は寓意よりはむしろ夢に似ているというわれわれの仮定を支持している。もちろん、われわれに伝来した不完全なテキストから、われわれが夢を再構成できる可能性はあまりないけれども。
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人物による「化学的」過程の表現は、少しばかり説明を必要とする。命なき事物の擬人化は、原始的・古代的な心理学の残り物である。これは無意識の同一化[002]、あるいは、レヴィ・ブリュールがparticipation mystique〔神秘的融即〕と呼んだもの、によって引き起こされる。逆に、無意識の同一化は、無意識的な内容を対象に投影することによって引き起こされるから、結局、これらの内容は、このとき、明らかに対象に属する諸々の性質として、意識にとって近づきやすいものとなる。いやしくも関心のある対象なら何でも、多大な数の投影を引き起こす。この点で、原始的と現代的との心理学の違いは、第一には性質上、第二には度合いのそれである。開化されたひとにおける意識の発展は、知識の獲得によってと、投影の撤回によって起こる。これらは心理的内容として認識され、魂とともに復全される。錬金術師たちは、自分たちの最も重要なあらゆる諸観念 4つの要素、容器、石、prima materia〔第一質料〕、チンキ液、等々を具体化ないし擬人化させた。ミクロコスモスとしてのひとの観念は、その部分すべてにおいて、大地ないし宇宙を表現する[003]が、意識の薄明状態を反映する独創的な心理的同一視の残余である。ある錬金術のテキスト[004]は、これを次のように表現している:
ひとは小さな世界とみなされるべきであり、あらゆる点で世界と比較さるべきである。皮膚の下の骨は山々にたとえられる、というのは、ちょうど大地が岩によって強められるように、身体はそれらによって強められるからであり、肉は大地に、大きな血管は大河に、小さなそれは、大河に注ぐ細流にとみなされる。膀胱は、そこに大きな流れも小さな流れも集まる海である。髪の毛は、芽生える薬草に比較され、手足の爪や、その他何であれ、ひとの内側に見出されるものは外側にも見出され、万物はその種にしたがって世界に比較される。
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錬金術の投影は、ミクロコスモスという観念によって定型化された思考の型の特殊な実例にすぎない。擬人化の他の具体例[005]は以下にある:
さあ最愛のひとよさらに注目せよ / あなたはいかにすべきか / あなたはその家に行かねばならない / そこにあなたは2つの扉を見つけるだろう / それは閉まっている / あなたはしばしその前に立つべし / するとひとりのひとが来て / 扉を開け / あなたのところに出てくる / それは黄色いひとであろう / そして見た目に可愛い / しかしあなたは彼を怖がることはない / というのは彼は不格好だが / 言葉つきは甘く / あなたに尋ねるだろう / 親愛なるひとよおまえはここで何を探しているのか / 真実わたしは長い間いかなるひとも見たことはない / そこでその家に近づき / あなたは彼に答えべきだ / わたしはここにやってきたのは哲学者たちの石を探してです / 同じ黄色いひとあなたに答えてこう言うだろう / 親愛なる友よ / 今やこんなに遠くまでやって来たのだから / わたしはあなたにもっと教えよう / あなたは家の中に入って行くべきだ / そうすればほとばしる泉にたどり着く / さらに少しばかり行くと / 赤いひとがあなたのところに来よう / 彼は火の赤であり赤い眼をしている / 彼が怒っているからとてあなたは彼を恐れるべからず / というのは彼の言葉つきはやさしく / 彼もまたあなたに尋ねるだろう / 親愛なる友よ / ここでのあなたの望みは何か / わたしにとって見知らぬ客になったとき / そこであなたは彼に答えるべきだ / わたしは哲学たちの石を探している……
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金属の擬人化は、鉱石の中にしばしば見られる[006]イムプとゴブリンの民間伝説の中では、ごく普通のことである。われわれはxゾーシモスの中で何度か金属人間[007]、また銅の鷲[008]にも、出会う。「白いひと」はラテン錬金術の中に登場する:「あの白き人を容器より受けよ」Accipe illum album hominem de vase.彼は花婿と花嫁との連結の産物[009]であり、しばしば引用される「白い女」と「赤い奴隷」として、思想の同じ文脈に属し、『アリスレウスの幻像』におけるベヤとガブリクスと同義の者である。これら二人の人物は、チョーサーに引き継がれた[010]:
戦車に乗った軍神マルスの像は甲冑に身を固め
気も狂ったかのような恐ろしい形相をして立っておりました;
二つの星の姿が頭上に輝いています
ものの本によると一方はプエッラ
他方はルベウス[017]と呼ばれているとか
マルスとヴェヌスの愛を、ガブリクスとベヤのそれ(彼らはまた雄犬と牝犬として擬人化された)と同一視するより簡単なことはなく、天文学的影響も役割の一部を演じているらしい。それとの無意識の同一視のせいで、ひととコスモスとは互いに影響し合う。以下の、錬金術の心理学にとって最高に重要な1節は、この意味で理解されるべきである:「そしてひとが4つの要素で構成されるように、石もまたそうであり、それはひとの中から掘り出され、あなたがその鉱石であるのは、すなわち働きによってである;そしてあなたからそれが抽出されるのは、すなわち分割によってである;そしてあなたの中にそれは分離されることなく存在するのは、すなわち科学を通してである」[011]。事物が人間存在として擬人化されて登場するばかりか、マクロコスモスそのものもまたひととして擬人化される。「自然全体はひとの中に、あたかも中心のように収斂し、一方は他方に関与し、哲学的な石の材料はどこにでも見出されるかもしれないとひとが結論づけたのは正しくない」[012]。『合一の集い』Consilium coniugii[013]は言う:「哲学的なひとを構成する自然本性は4つである」。「石の要素は4つであり、これらは、互いにうまく釣り合うとき、哲学的なひとを、つまり、完全な人間的elixirを、構成する」。「石がひとである所以は、理性と人間の知識による以外には、ひとはそれに到達することはできない[014]からである」。「汝がその鉱石である」という上の主張は、コマリオス文書[015]中に並行を有している:「汝[クレオパトラ]の中にすべての恐ろしい驚嘆すべき秘密は隠されている」。同じことが「諸体」(swvmata、すなわち、「物質(substance)」)について言われている:「それらの中にすべての秘密が秘匿されている」[016]。
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