II-5 水の象徴的意義
C・G・ユング
「錬金術研究」II
ゾーシモスの幻像
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II-6 幻像の源泉
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錬金術は、形而下的と霊的との両方の神秘に関係するので、「諸々の水の構成」が夢の中でゾーシモスに露わにされたということは、驚くほどのことではない。彼の眠りは孵化の眠りであり、彼の夢は「神によって送られた夢」であった。神的な水は、過程のアルファでありオーメガであり、錬金術師たちによって、彼らの欲求の目標として、死にものぐるいで探し求められた。それゆえ、この夢は、この水の自然本性の劇的な説明としてやって来た。脚色によって力強い表象の中に明らかにされる変容の暴力的で苦悶の過程は、それ自体が制作者でありかつ水の所産であり、実際まさしくその本質を構成するものである。劇が示すのは、変化の神聖なる過程が、いかにしてわれわれの人間的理解にみずからを表明するか、また、ひとはいかにしてそれを経験するか 罰としてか、責め苦[001]としてか、死としてか、変形としてか、ということである。夢見る人が記述するのは、ひとがいかにして行為し、神々の死と再生循環に引きこまれた場合、彼は何を受苦しなければならないか、そしてまた、死すべきひとが自分の「術」によって「諸々の霊の守護者」を自分の暗い住まいから自由にすることに成功するとしたら、deus absconditus〔隠れたる神〕はいかなる効果を有するか、ということである。文献の中には、それはその危険を伴うことなしにはない[002]という諸々の示唆がある。
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錬金術の神秘的側面は、その歴史的位相は別にして、本質的に心理学的問題である。誰がどう見ても、それは、投影された象徴的形式による、個性化の過程の具体化である。今日でさえ、この過程は、錬金術との密接な結びつきを有する諸象徴を産出している。この点で、わたしはわたしの初期の諸作品を参照するよう読者を促さなければならない。そこでは、心理学的な視角から、わたしは疑問を議論し、これを実践例をもって例証しておいた。
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このような過程が始動する諸々の原因は、非常によく似た諸象徴を産出するある病的な状態(たいていは精神分裂症)かもしれない。しかし、最善にして最もはっきりした材料は、健全な心をもった人たち、つまり、何種類かの精神的な悩みに駆りたてられた人たち、あるいは、宗教的、哲学的、あるいは心理学的な諸々の理由から、自分の無意識に格別の注意を注ぐ人たち、から来る。中世からローマ時代へと広がる期間、自然な強調が内的なひとに置かれ、心理学的な批判精神は科学の勃興とともに可能となったので、内的要因が投影の形で意識に到達することができたのは、今日よりも容易であった。次のテキスト[003]は、中世的観点を例証するのに役立つであろう:
というのは、クリストは『ルカ伝』11でおっしゃっている:身体の光とは眼であるが、もしも汝の眼がよこしまであるか、そうなるなら、そのとき、汝の身体は暗黒に満たされ、汝の内なる光は、暗黒になるであろう。さらに、第17章でも彼はおっしゃっている:見よ、神の王国は汝の内にある このことから、ひとの内なる知識は、初めは内側から現れるにちがいなく、外側からそこに置かれることはできないということがはっきり見てとれ、聖書のなかの数多くの節が証言しているのは、このこと、つまり、外物(そう呼ばれるのが普通であった)、あるいは、われわれの弱さを助けるために書かれた符号は、『マタイ伝』24で、端的に、神によってわれわれに植えつけられ、分け与えられた恩寵の内的な光であるということである。だから、また、語られた言葉は、それへの示唆、助け、導きとしてのみ留意され、熟考された。例を挙げれば:白板と黒板とはあなたの前に置かれ、どちらが黒く、どちらが白いかとあなたは質問される。2つの異なった色の知識が、前もってあなたの内になければ、これら単なる無言の対象物あるいは台板からは、あなたにかけられた質問に答えることはけっしてできないであろう、この知識は、台板そのものからは出て来ない(それらは無言であり、無生物なのだから)、けれども、〔この知識は〕あなたが日々経験するあなたの内的な諸機能に源を発し、そこから流れ出てくるのである。対象物は(先に述べられたが)本当に諸感覚を刺激し、これらを捉えるさせるけれども、決して知識を与えることはしない。これは内側から、捉える者から来るにちがいなく、こういった色の知識は、捕捉行為によって浮上するにちがいない。同様に、誰かがあなたに、質料や、火打ち石(この中に火とか光が隠されている)から出る外的な火とか光を尋ねても、石の中に隠された秘密のこの光を石の中に入れることはできないが、むしろ起こし、めざめさせ、隠された火を石から引き出し、手許に必ず持っていなければならない必須の鋼鉄の火打槌でもってそれを明かさなければならない。そうすれば、この火は捕らえられ、この目的でよく準備されたいい火口で活発に煽られるにちがいない。再び消されてなくなることがなければだが。そこで、結局、あなたは火のように光る真に輝やかしい光を手に入れ、それが世話され保存されるかぎり、あなたは好きなようにそれを創りだし、働かせ、処理することができるであろう。そして、同じくひとの内に隠れて、そこに天上的で神聖な光が実在する、これは、先に述べられたとおり、ひとの内に外側からは置かれ得ないが、内側から浮上するにちがいないところのものである。 というのは、神がひとの身体の最も高い部分に、2つの眼と耳を授け与えたのは虚しく理由のないことではなく、その目的は、ひとは内と外とに、二重の見ることと聞くこととを自身の中に、学び留意してなければならい、その結果、ひとは霊的な事象を、内なる部分で判断でき、霊的事象は霊に配分できるが(『第1コリント』2)、外側にもその配分を与えられるということを示唆することにある。
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ゾーシモス、および、似た心の持ち主たちにとって、聖なる水はcorpus mysticum〔神秘体〕[004]であった。人格論的心理学は、当然、尋ねるだろう:いかにしてゾーシモスはcorpus mysticum〔神秘体〕を得ようとするようになるのか? 答えは歴史的状況を指すことであろう:それが時代の問題であった。しかし、corpus mysticum〔神秘体〕が聖霊の賜物であると錬金術師たちに受け取られるかぎりにおいて、まったく一般的な意味において、それは贖いを授ける恩寵の目に見える賜物として理解されることができた。ひとが贖いを渇望することは、普遍的なことであり、それゆえ、それが裏のある個人的な動機を持ちえるのは、例外的な場合のみ、つまり、正真正銘の現象ではなく、それの尋常ならざる誤用の場合である。ヒステリー症的な自己欺瞞者たちは、通常のそういう人たちもそうだが、あらゆることを誤用する方法を、人生の諸々の要求や諸々の義務を避けるため、とりわけ、自分自身を直視する義務を回避するためと理解してきた。彼らが神の尋ね人であるふりをしたのは、自分たちが普通の利己主義者であるという真実に面と向きあわなくてもすませるためであった。こういう事情であってみれば、質問する価値は充分ある:あなたが聖なる水を探すのは、なぜですか?
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すべての錬金術師たちが、この種の自己欺瞞者であったと推測してよい根拠をわれわれは持たない。彼らの思考の不可解な点をわれわれが深く洞察すればするほど、ますますわれわれは彼らが「哲学者たち」であると自称する権利を認めざるを得ない。長い間を通して、錬金術は、達し得ないものを求める人間の偉大な探求のひとつであった。だから、少なくとも、われわれがわれわれの合理主義的偏見に手綱をつけようとするならば、これを記述することであろう。しかし、恩寵の宗教的な経験は、不合理な現象であり、「美しい」とか「善い」とか以上に議論されることはできない。事情かくのごとくであるから、希望以外に真面目な探求もない。知性、あるいは音楽的才能、あるいは何か他の生得的性癖以上に何らか個人的な原因追求に陥らせられることができるというのは、いくらか本能的なことである。だからわたしは、わたしたちの分析や解釈は、ゾーシモスの幻像に対して、その本質的構成要素を、そのとき、そのmise en scène〔道具立て〕の意味や目的を明らかにすることで、人びとはいかに思考したかに光を当てることに成功した場合に、正当に扱ったという見解をもつ。ケクレが、舞踏するいくつかの対の夢を見て、それからベンゼンの六員環構造を推論したとき、かれはゾーシモスが虚しく奮闘したところのあることを成就したのである。彼の「水の構成」は、ベンゼン環の炭素元素や水素元素がそうであったような整然とした模型には落着しなかった。錬金術は、内的で心理的な経験を、化学的物質、神秘的な諸々の可能性を提供しているように見えながら、それにもかかわらず、錬金術師の諸々の意向には御しがたいことを証明したところの〔化学的物質〕の中に投影した。
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化学は、ゾーシモスの幻視から学ぶべきことを何も持たないにもかかわらず、現代心理学にとっては発見の鉱山であり、古代からの心理的経験のこれらの証言に向かうことができないとしたら、遺憾な見落としとなるものである。そのさい、その陳述は支えがなくてもよいことは、何ものとも比較することのできない珍しい経験のようなもので、その価値を査定することはほとんど不可能である。しかし、このような文書は、研究者には、彼自身の狭い研究領域の外に、アルキメデスの支点を与え、それとともに、個々の出来事の混沌と見えるものの中に、自分の位置を見つけるという非常に貴重な幸運をも与えるのである。
2009.03.15. 訳了。
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