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back.gif2 『長寿論』:秘教的教説の解読

C・G・ユング
「錬金術研究」III

精神現象としてのパラケルスス

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3 自然的変容の神秘:人間の自然性と霊性の再統一

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 ボーデンシュタインとドルネウスの解釈によれば、アニアドス(またはアニアドム)は「事物の霊能」であり、ルランドスの定義によれば、「われわれのうちに復活した霊的人間、最も聖なる秘蹟により、聖霊がわれわれキリスト教徒に植えつけた天上体」である。この解釈は、パラケルススの著作のなかでアニアドスが担う役割を十二分にとらえている。アニアドスが、特に秘蹟とか聖体拝領に関係づけられていることは明らかだが、またこれと同様に明らかなのは、キリスト教的意味での内的人間を目ざめさせるとか、植えつけるのが問題なのではなく、医学的な秘術を利用して、人間の自然性と霊性を「科学的に」合体させることを主眼としている点である。
 パラケルススは慎重に教会用語を避け、そのかわりにきわめて難解な秘教の言語を用いている。明らかにこれは、「自然的」変容の神秘を宗教的神秘と引き離し、異端の匂いをかぎとろうといる者たちから、それを隠しおおすためであった。そうでなければ、この論文中におびただしい秘教用語が用いられている理由が説明できないだろう。それでもなお、この神秘がある意味で宗教の神秘と対立しているという印象は、誰も免れることができない。たとえば刺草とその小さな炎の例に示されているように、エロスにかかわる両義的意味合いも含まれている[001]。『ポリフィロの夢』に実証されているとおり、この神秘はキリスト教の神秘より古代の異教世界とはるかに強くかかわっていた。
 パラケルススが怪しげな秘密を嘆ぎ出そうとしていた、と仮定できる理由は何一つない。錬金術的思考の動機としてもっと納得できる根拠は、あるべき人間とか生物学的に見てありえぬ人間を問題にするのではなくて、あるがままの人間に対処しなければならなかった彼の医師としての経験である。医師は「かくあるべしLと正直には答えられないような多くの質問を受ける。正直に答えるとすれば、自然に関する自分の知識と経験の範囲内で答えるほかないのである。自然の神秘に論究しているこれらの断片的文章には、パラケルススの好奇心の働かせ方が間違っているとか、関心が邪道に堕ちていると思われるような形跡は少しもない。むしろここに歴然としているのは、教会の決疑論者が自分の立場にひきつけてねじ曲げてしまう心理的な問いに対して、満足できる解答を得ようと懸命に努力する医師の苦闘である。

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 この自然の神秘なるものは、<教会>の説く教義と表面的な類似はあるものの、実は非常に食い違っていたので、ハンガリーの錬金術師ニコラウス・メルキオール・キビネンシス[002](ラディスラウス2世〔1471-1516年〕宮廷の占星術師)は、錬金術の作業をミサの形式で執行しようと大胆に企てたほどである[003]。錬金術師たちが<教会>との対立を自覚していたかどうか、またどの程度自覚していたかを証明するのはむずかしい。概して彼らは、仕事の内実を洞察しえていた形跡がない。これはパラケルススについてもいえることで、「異教的知識(Pagoyum)」に関して二、三それらしきものがあるにすぎない。真の意味での自己批評が芽生える余地はなかったと考えるほうが、真相に近いであろう。彼らは、「自然が不完全なままにしていることを技術が完壁なものにする」という信条に立ち、神意にかなう仕事を行っている、と心の底から信じていたからである。
 パラケルスス自身は、医師の仕事が神聖な天職であると信じきっていたので、そのキリスト教信仰は何ものにも揺るがされず、かき乱されることもなかった。自分の仕事が神の御業を補うものであり、自分に託された天分を忠実に果たすことを当然の前提としていた。事実、彼は正しかったのである。人間の魂は自然から切り離すことができないからだ。人間の魂といえども、他のすべてのものと同じように自然現象であり、それにかかわる諸問題は、身体的病気から生ずる問題や謎に劣らず重要である。そのうえ、心的要因が多少とも関与しない身体的病気がほとんどないのは、多くの心因性障害において身体的要因が考慮されねばならないのと同じである。パラケルススはこの事実をしっかりと自覚していた。後にも先にもいかなる偉大な医師もなしえなかったほど、彼は心的現象を考慮した。
 彼のいう人造人間(homunclus)、トララーメス(Trarames)、ドゥルダーレス(Durdales)、水の精、メルジーネ等々は、いわゆる現代人には馬鹿げた迷信と見えようが、パラケルスス時代の人間にとっては、決してそのようなものではなかった。当時はこういう形象が有効かつ生き生きとした力を持っていた。それらはもちろん人間の心の投射物であったが、この事情についてもパラケルススは、ある程度感知していたようだ。彼の著作の随所に明らかなように、人造人閉その他これに類する存在が、想像力の所産であることを彼は自覚していたからである。彼は、われわれ現代人に比べはるかに原始人的心性の持ち主であったので、これらの投射物が実体を持つものと見なしたが、合理的思考にもとづき、投射物の内実がまったく実体を伴わぬと仮定する現代人には及びもつかぬほど、その心理的影響力を正当にとらえていた。投射の実体がどういうものであるにせよ、機能的には実在物とまったく同じような働き方をするからである。
 迷信を恐れる近代合理主義に目をふさがれるあまり、現在の科学ではほとんど理解できない未知の心的現象を、見失うような態度は許されない。心理学という概念はパラケルススのあずかり知らぬものであったけれども、にもかかわらず最新の心理学が、今日にいたってようやく探究しなおそうと苦闘している心的事象を — 彼は「未開の迷信」を信じていたからこそ — 深く洞察しえているのである。数学の法則や物理学の実験の真実性と同じ意味では、神話は「真実」であるとはいえないかもしれないが、それでもなおそれは重要な研究対象であり、自然科学に劣らず多くの真実を含んでいる。ただ真実の存在する次元が異なるにすぎない。神話に関して完全に科学的態度をとることは可能である。それは、植物、動物、化学的元素とまったく同様に、確固とした自然的産物だからである。

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 人間の心は意志の所産であるとしても、自然の外こあるわけではないだろう。心が科学の研究対象として認められていなかった時代に、もしパラケルススが自然哲学を発展させていたならば、その業績がさらにいっそう偉大なものになっていたことは疑いの余地がない。実際には、すでに存在しており、その存在をこと新しく証明する必要のない事柄を、彼は研究領域に含めていたにすぎない。それだけでもすでに彼の業績は十分偉大である。だが、彼の物の見方に暗示されている心理学的意味を正確に評価することは、今なおわれわれ現代人にはbいのが実情である。それというのも、金属の変質とそれに併行する錬金術師の心的変容という「不条理な観念」を、千年以上にわたって人間が信じつづけた心理的原因なり動機について、結局われわれは正確には知ることができないからである。
 われわれは一度も真剣に受けとめて考えようとしたことがないのであるが、中世の探究者にとっては、神の子による世界の救済と聖体の全質変化(transubstatiation)は決定的真実ではなかった。というよりも、人間の魂にかかわる多種多様な謎に対する決定的解答ではなかったのである。錬金術の作業がミサという神聖な人間の営みと対等の存在理由を主張したとしても、それは言語道断の思い上がりではなく、<教会>の説く永遠の教説が無視した大いなる未知の自然が、有無をいわさぬ力で認識と受容を迫っていたからにはかならない。
 近代にさきがけてパラケルススは、この<自然>が化学的、物理的であるだけでなく神的なものでもあることを知っていた。彼のいうトララーメスその他の形象は、試験管では実証できないにしても、現にこの世界に存在していたのである。また他の錬金術師と同様に、一度も金を造り出したことはなかったにしても、彼は心的変容を達成する方法の端緒は確実につかんでいたのであって、錬金術による「赤化」の達成よりも、それは個人の幸福のためには比類なく重要な意味を持っていた。


A 闇の光

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 さて、『長寿論』の謎を解明しようとすると、一つの独自な心理過程の跡をたどってゆくことになる。これはあらゆる真理の探究者の最も重要な秘密の部分である。万事は解決できるというめでたい信念を、すべての探究者がさずかっているわけでもなければ、啓示された太陽のごとき真理に自足できるわけでもない。聖霊の恩寵により心臓のなかにともされた光、つまりあの「自然の光Lがたとえどれほど弱いものであっても、闇のなかで光り、その闇自体が内包していない大いなる光より重要である。自然の闇そのもののなかに一つの光が隠されていること-それなくしては闇が闇ではなくなるような小さな火花、が隠されていることを、彼らは発見する[004]。パラケルススは、そういう類の探究者の一人であった。
 彼はよき意図を持つ謙虚なキリスト者であった。その倫理観と自ら明言した信仰はキリスト教的であったが、最深奥の情念ともいうべき創造的渇仰のすべては、闇のなかに埋もれている神聖な火花、自然の光に根ざしていた。その光を隠す闇の死のごとき眠りは、神の子の啓示をもってしでも圧服することができなかったのである。天上からの光は闇をいっそう暗くしたが、自然の光は闇それ自体の光であり、闇を照らす。闇がこの光を内包しているのである。したがって、それは暗黒を光輝に変容し、「あらゆる余分なものLを焼き尽くすので、後に残るものといえば、「浮きかすと鉱滓と棄て去られた土(faecem et scoriam et terram damnatam)」だけである。

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 すべての哲学的錬金術師と同じように、パラケルススが探究したのは、次のようなことであった。すなわち、まず暗い身体に縛りつけられた人間の本性を把握すること、そして不可解な形で外界や物質とからまりあい、さまざまの奇妙な悪魔的な幻像という恐るべき形をとって眼前に現出する魂の実体、寿命を縮める病気のひそかな原因となっていると思われる魂の暗部を把握することであった。<教会>は悪魔を紋い清め追放することもできようが、それは人間をおのれの本性から引き離すことにしかならない。人間の本性は、無意識のうちに、このような妖怪じみたもろもろの形象をまとっているのである。
 自然に属する物と物を分離するのではなく、相互に合体させるのが錬金術の目標であった。デモクリトス以来その中心思想は、「自然は自然を享受し、自然は自然を征服し、自然は自然を支配する」[005]というところにあった。この原理は異教的心情に根ざすもので、自然崇拝の表明である。自然は変容の過程を含むだけではない — それ自体が変容である。それは事物や事象相互の疎隔ではなく、合一を目ざし、死と再生を伴う結婚の宴を実現しようとする。パラケルススのいう「五月の昂揚」とはこの結婚であり、太陽と月によって表象される光と闇との「結婚(gamonymus)」、聖なる結合を意味する。天上からの光が峻別してしまっていたものが克服され、ここに両極が合一する。これは古代への逆行というよりも、キリスト教とはきわめて異質な自然に対する宗教的感情の持続である。たとえば『ギリシア魔術のパピルス』[006]の「秘銘」に、そういう感情の非常に美しい表現がある。

偉大なるかな、大気の霊の造りなせる無欠の大建造物よ。
偉大なるかな、天地を貫く霊よ、宇宙の中心なる大地から地下の大海のさい果てに及ぶ霊の力よ。
偉大なるかな、われを貫き、われを揺さぶり、神の御心のままに善なるわれのうちより去りゆく霊よ。
偉大なるかな、始源から終末にいたるまで不動なる自然よ。
偉大なるかな、汝、おのが力をたゆみなく捧げる諸元素の回転を司るものよ。
偉大なるかな、その光輝もて万有に資する汝、光溢るる太陽よ。
偉大なるかな、移ろいやすき光輝の円盤もて夜を照らす月よ。偉大なるかな、大気に遍在するすべての鬼神(demon)の霊よ。
偉大なるかな、わが賛美の的なるすべての兄弟よ、姉妹よ、信仰篤きもろびとよ。
おお、偉大なるかな、この上なく偉大にして不可解なる世界の構造よ、そは円に造りなされたるものなり!
天空に住み給う<天上の一なるもの>よ、アイテールに住むアイテールの霊よ、
汝は水、土、火、風、光、闇へと形を変える。
星のごとくきらめき、湿り気と火と冷気を帯びた霊よ!
世界を造りなしたる神々のなかの神よ、われ汝を称う。
汝は見えざる堅固なる土台に海を位置せしめ、
天と地を分かち、天を永遠なる黄金の翼もて覆い、地を永遠なる土台の上に築き給えり。
地上高くアイテールをかかげ、大気をおのずから吹き起こる風にて散らせ、
そのまわりに水をめぐらせ給えり。かつまた、嵐と雷と稲妻と雨をも置き給えり。
おお、万物の破壊者にして創造者なるものよ、
永遠なる霊体(Aeon)の神よ、汝は偉大なり、
主よ、神よ、万物の支配者よ!

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 この祈りがおびただしい魔術的秘法の底に埋もれながら、現代まで伝えられてきたのと同じように、魔術的呪文に覆い隠され、沼沢のごとき晦渋な表現にほとんどかき消されながらも、自然の光は、家霊(koboid)その他の闇の妖怪の世界から立ち昇ってくる。自然は確かに多義的な存在であるから、パラケルススや錬金術師たちが表現上の責任に細心の注意を払い、比喰的形象を多用しているからといって、彼らを責めることはできない。このような表現上の配慮は、当時の思想状況からすればむしろ適切なのである。
 光と闇の間に何が起こるか、対立する両者を統一するのは何かという問題は、その双方にかかわっているので、そのいずれの側からでも判断を下すことができようが、たとえそうしたところで、われわれがそれだけ賢くなるわけではない。それどころか新たな対立の火をつけることにしかならない。こういう場合に有効なのは象徴だけである。というのは象徴はその逆説性に応じて、論理的には存在しないが、現実においては生きた真実であるところの「第三のもの」(tertium〉を表出するからである。だからパラケルススや錬金術師たちが秘密の言語を用いているからといって、恨めしく思ってはならない。心的活動の問題に深い洞察を持つようになれば、心的事象を速断して見境もなく誰かれに公言するよりは、判断を留保するほうがどれほど賢明であるかがわかつてくる。明晰を求めるのは人情の自然ではあるが、ともすれば忘れられがちなのは、われわれは心的事象のうち経験の玄妙な推移を扱っているのであって、ここに見られる変容の実体は、その生きた動きが硬直し静止しないかぎりは、確固不動の名称など決して与えることができないという事実である。心的推移にかかわる事柄については、最も明断な概念よりも、多面的な神話素や見極めがたく揺れる象徴のほうがはるかに的確に真相を表現し、明確化するのである。というのは、象徴は心的過程の視覚的イメージを提示するだけでなく — それに劣らず重要なことだが — これを追体験させてくれるからである。これは、節度ある感情移入を通じてわずかに理解できるが、あまりに明確化しようとすると消失してしまうあの薄明の領域である。
 そういうわけで、天上の花が咲き乱れ、内的人間の秘密が顕現する「真の意味での五月」における結婚と昂揚、という象徴的表現は、表現のために用いられた言葉の選択と音のひびきそのものによって、ある至福のヴィジョンと経験を暗示的に伝えているが、その深い意味の十全な形象化は、詩人たちの最高の想像力の働きにまつはかないだろう。しかし明白で暖昧さのない概念が通用するところは、ここにはいささかも見いだされないだろう。にもかかわらずある深い意味を持つ事柄がすでにいわれているのだ。パラケルススの至言を借りていえば、「天上の結婚が達成されれば、その超越的至高の力を否定する者は誰一人いない」からである。


B 人間の二つの本性の合一

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 バラケルススはここできわめて重要な問題を扱っているので、これを十分認めたうえで、私は、分裂しているものを統一する象徴を彼が用いていることにつき、一言擁護したわけである。
 しかし、彼自身も多少説明の要があると感じていた。そこで第五巻第二章で、人間には二つの生命力があり、一つは自然的生命、もう一つは「身体的なものをいっさい含まない<空霊的(aerial)>生命である」と述べている(現代人ならば、生命には生理的、心的側面があるというところだ)。したがって、『長寿論』の最後で彼は霊的なものを論ずる。
 「自然の唯一絶対の秩序に含まれる至上の宝、すなわち『自然の光』を自然から拒まれているのだから、人間とは憐むべきものだ!」[007]と彼は断言し、彼にとって自然の光が何を意味するものであるかについて、いっさい疑問の余地をわれわれに与えない。ここで彼は、自然を突き抜けアニアドスを考察の対象にするという。<グアリーニ><サルディーニ><サラマンドリーニ><メルジーネ>などの力に関し、彼が述べることに対するいかなる反論も許さない。その所説に驚きとまどうこと、があろうとも、ひるんではならず、最後まで読み通さなければならぬ、そうすればすべて理解できる、というのである。

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 「空霊的生命」(vitam aeream)を生きている者が最も長生きする、とパラケルススはいう。彼らの生命は六百年から千年、いや千百年にも及ぶ。これは、「誰でも容易に理解できる驚異(Magnalia)の法則」に従って生きているからである。それゆえアニアドスを模倣すべきである。しかも「その空気のみによって」— すなわち心的手段によって — 模倣しなければならないが、アニアドスの力は非常に大きく、人間の寿命が尽きてもそれと何らかかわることなく生きつづける。さらにまた、その空気が不足してくると、カプセルのなかに隠されていたものが外に飛び出す。パラケルススのいう「カプセル」とは心臓のことであろう。魂あるいは<イリアステルの生命>は、心臓の火に宿っている。それは感覚・感情に左右されないのに対して、形而下的(cagastric)な魂は感覚・感情に左右されやすく、カプセルの水の上に「浮かんでいる」[008]
 心臓は想像力の宿る場所でもあって、「小宇宙の太陽」[009]である。だからこれに「空気」が不足すると、イリアステルの生命はそこから飛び出すことがあるのだ。いい換えれば、ここで心的救済手段が講じられなければ、機の熟さぬうちに死が起こる[010]。パラケルススはさらに続けてこういう。
 「しかしこれ〔イリアステルの生命〕に蘇生の力〔空気〕が漲っていれば、それは中心に移動してゆく。つまりそれまでとは別の場所に移るが、心臓のなかであることには変わりがない。そうなれば、このうえなく静かなものとなり、身体的器官によっては知覚できない存在として、アニアドスとかアデク(Adech)とかエドキヌム(Edochinum)の鼓動を反響するにすぎなくなる。そこからあの偉大なアクアステルが生ずる。その誕生の経緯は自然を超越している(=超自然的である)」[011]

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 以上の複雑きわまる説明の趣旨は、人間の魂が心臓という中心領域から抜け出すのを防ぎ、これを中心に引き戻すのは心的能力の働きによる、ということになろう。しかし引き戻された魂は、それまで潜み隠れ、いわば幽閉されていた「心臓のカプセル」に囚われるわけではない。今や以前の住みかの外にある。これは身体の束縛からある程度自由になったことを示す。つまり、心臓のなかに宿っていた時には、想像力とかアレスという個体形成原理に曝されすぎていた魂が、「静謐」状態に到達するのである。
 心臓は強力な力を持っているとはいえ、不安定な情動的存在であり、身体の動揺にあまりにも左右されやすい。そこには低次元の地上的な「形而下的(cagastric)」魂が宿っている。これを高次元のより霊的なイリアステルから分離しなければならない。解放されたこのより静かな領域で、五感ではとらえられぬ魂が、天上的生命原理をなす高次の三つの実体、アニアドス、アデ夕、エドキヌムの鼓動を反響することが可能になるのである。

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 すでに見てきたとおり、アデクはわれわれの内に宿る<最大の人間(homo maximus)>を表す。それは、小宇宙に顕現する大宇宙の力ともいうべき星辰的人間である。それはアニアドス、エドキヌムと併称されるので、三つの指示概念はおそらく相似しているだろう。先にふれたように、アニアドスには確かに星辰的人間の意味が含まれている。エドキヌムはエノク的半神の変形であるようだ。エノクは「死と無縁の」、少なくとも五、六百年は生きた<原人>の血を引く始源的人類に属する。三つの異なる名称は、同一の概念を敷衍したものにすぎないだろう — その根本にあるのは不死の原人の概念だが、死すべき人間は錬金術の作業によってこれに近似した存在になりうる。
 近似化が達成されると、内なる<最大の人間>の力と属性が、生命を癒し育む水のように、小宇宙たる人間の地上的性質のなかに流れ込む。<最大の人間>というパラケルススの概念は、錬金術の作業一般に伏在する心理的動機を明らかにするうえで、大いに役立つ。というのも、<卑金属ならざる金>とか<賢者の石>という作業の主産物が、次のような多様な名称と定義を持つようになった経緯を教えてくれるからである — 曰く、錬金薬(elixir)、万能薬(panacea)、チンキ剤(tincture)、第五元素(quintessence)、光、東、朝、牡羊座(Aries)、生命の泉、果樹、動物、アダム、人間、高次の人間(homo altus)、人間の形相、兄弟、息子、父、驚異の父(pater mirabilis)、王、両性具有者、大地神()deus terrenus、救済者(salvator)、守護者(servator)、大宇宙の子(filius macrocosmi)、等々[012]。錬金術師たちが「無数の名称」を与えるのに比べ、千六百年以上ものあいだ錬金術師の思弁的空想を刺激したこの実体に対して、パラケルススは約10の名称を使ったにすぎない。

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 ドルネウスの注解は、この一節の意味を特に重点的に説いている。彼によれば、この三者 — アニアドス、アデク、エドキヌム — は、一つの「純粋かつ精錬された元素」を形成する。これは長寿とはほど遠い不純で粗雑な地上的四元素と対照をなす。この三者から超自然的に生起するあの偉大なアクアステルの「心像」が出てくる。すなわちアニアドスの母体から、アデクの助力と想像力の働きによって大いなるその心像が現れ、それが不可視の長寿の胎児を生むための超自然的子宮を受胎させる。この胎児の創造ないし受胎にあずかるのが、不可視の外在的イリアステルである。<四>に対し<三>を強調するのは、マリアの根本命題と、四位一体に対する三位一体の関係の問題についてドルネウスがとった論争的態度に起因するが、私はその問題を別の論文で論じたことがある[013]。この場合、第四位に小宇宙たる死すべき人間が位し、高次の三者を補完している事実が、ドルネウスに看過されているのは特徴的である[014]

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 <最大の人間>との合一から新生命が生まれる。パラケルススはこれを「宇宙地理学的生命」(vita cosmographica)と呼ぶ。この生命のなかに「イェサハクの身体とともに時間が出現する」(cum locus tum corpus Jesahach)[015]。locusは「時間」と「空間」の両方を意味するが、のちに見るとおり、パラケルススはここで一種の<黄金時代>を念頭に置いているので、私は「時間」と訳した。したがって、「イェサハクの身体」とは「神の栄光をおびた身体」、錬金術師の復活した身体を指すといえようが、これはまた星辰体(corpus astrale)に符合するだろう。


C <最大の人間>の四元性

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 この最後の章で、パラケルススは、四つのスカイォラェ325Z$というほとんど翻訳不能の独特の観念に言及しているが、それが何を意味するものであるのかまったく不明である。同時代のパラケルスス文献に造詣の深かったルランドスは、これを「精神の霊力」、すなわち四元素に対する四重の霊的性質・機能、と定義する。それはエリヤを天上へ運び去った火の車の四輪で恥到。スカイォラェは人間の心に起源を持ち、「人間から離脱したり舞い戻ってきたりする」、と彼はいう。

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 四季や天の四区分と同じように、四元素はつねに一つの全体性を表現する方位の四分法に対応する。今の場合、これは明らかに精神(animus)の全体性(ここでは「意識」および意識内容の全体性と訳したほうがよいであろう)である。四分法に従えば、意識の働かせ方には四つの相があり、四つの経験的機能に対応する。すなわち思考、感情、感覚(感覚的知覚)、直観である。この四元性は元型的区分法である[016]。元型であるから、いくとおりにでも解釈できる。たとえばルランドスは、何よりも心理学的観点からこれを「空想力」[017]「想像力」[018]「思弁力」[019]「生得の信念」と解釈する。この解釈は、一定の心的機能を間違いなく指しているかぎりでは価値がある。すべて元型というものは、心理学的な意味での呪縛力(fascinosum)、つまり想像力を刺激し引きつけるような影響を及ぼすものなので、それは宗教的諸観念(それ自体、元型的性質を持っているが)をまといやすい。だからルランドスは、四つのスカイォラェはキリスト教の四つの主要な信仰箇条[020]、すなわち洗礼、イエス・キリストに対する信仰、最後の晩餐の秘蹟、隣人愛を表象するという[021]
 パラケルススのいうスカイォラェは愛知者である。彼は「汝ら、スカイォラェとアナクムスとの敬虔な息子たちよ」と呼びかける[022]。それゆえ、アナクムス(=アニアドス)と四つのスカイォラェは密接に結びついている。そこで四つのスカイォラェは、人間が四部分から成り立つとする伝統的観念に対応し、人間のすべてを包含する全一性を表現する、と結論してもゆきすぎではないだろう。<最大の人間>の四元性は、あらゆる四分割、たとえば四元素、四季、四方位などの基礎であり、素因となっている[023]
 この最終章でスカイォラェが最大の難問をつきつけた、とパラケルススはいう[024]。「というのは、そのなかに可死的なものはいっさい含まれていないからである」。しかし、「スカイォラェのカによってL生きる者はすべて不死である、と断言して、その証拠にエノク的半神たちと子孫の例をあげる。ドルネウスはスカイォラェの秘密を体得する困難さを説き、そのために人間は「異常な努力を払って心を鍛練しなければならない」が、スカイォラェには可死的なものがいっさい含まれていないだけに、この仕事は人間的努力の限界を超える、といっている[025]

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 ルランドスと同じようにドルネウスは、スカイォラェの心的性質(「心的諸力と徳性、心術特有の力」)を強調しているので、事実上それが自然的人間の属性であり、それゆえ死を免れないのではないかと思われるほどだが、またパラケルスス自身も、別の著作で自然の光といえども死を免れないといっているけれども、ここで主張されているのは、人間の精神に本来備わっている力は不死であり、<アルケー>という世界創造以前から存在する生命原理に属する、ということである。
 ここには自然の光の「可死性」はまった語られておらず、重点はむしろ永遠の生命原理と「見えざる最大の人間」(ドルネウス)、およびその四つのスカイォラェに置かれている。スカイォラェは精神的能力と心理学的機能を意味するものと思われる。パラケルススの用いるこういう概念は、合理的思索の結果得られたものではなくて、直観的内省の所産であることを念頭におけば、矛盾は解ける。彼は直観によって、意識の四元的構造とその元型的性質を把握することができた。前者は死を免れないが、後者は不死である。

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 スカイォラェが扱いにくく「やっかいな」理由に関するドルネウスの説明は、敷衍すればアデク(=アダム、原人(Anthropos))[026]にも当てはまるといえよう。アデクはスカイォラェの支配者であり、またその第五元素に相当するからである。パラケルススは事実これを「やっかいなアデク」と呼んでいる。われわれの意図を妨げるのもまた、「あの大いなるアデク」である[027]。作業上の難題は錬金術において小さからぬ役割を演ずる。一般的には技術的難問として説明されるが、ギリシア語文献でもその後のラテン語文献でも、作業を紛糾させる心因性の危険や障害を指摘する文言がしばしば出てくる。あるものは悪魔的感応現象であり、あるものは欝病のような心因性の障害である。
 物理的・心理的両面にわたるこうした困難は、第一質料に対する多様な呼称や定義にも表われている。作業の原料である第一質料が、やっかいで耐えがたいもろもろの試練を引き起こす大きな原因となるからだ。英語に的確な言葉があるが、第一質料は人を「幻惑する(tantalizing)」。どこにでもあるつまらないものだが、誰もそれを知らない。漠としてとらえどころがないのは、そこから産み出されるはずの石(lapis)と同じであり、「千の名称」がある。最も困るのは、これがなければ作業そのもののきっかけさえつかめないことだ。錬金術師の仕事は、シュピッテラーの言葉を借りれば、雲間に垂れた糸を矢で射抜くほどの至難の業なのである。第一質料は「土星的」で、邪悪な土星は悪魔の住みかとされ、これまた「街路に投げ捨てられ」「堆肥の山に放り出され」「汚物のなかに見いだされる」ところの最もつまらない遺棄物である。
 こういう形容辞に反映されているのは、探究者の困惑だけではない。そこにはまた探求者の心の奥に潜むものが現れ出ており、それが眼前の暗闇に生命を与えることになり、彼は投射物のなかに無意識の諸特性を発見するにいたるのである。容易に実証できるこの事実は、探究者の霊的努力と英知の探究(labor Sophiae)を包み込む闇の解明に役立つ。これは、無意識を受け入れてゆく一つの過程であって、人間が無意識の暗闇に直面すると必ず起こる。錬金術師が第一質料を見いだす真剣な努力を始めると、こういう対決をいやおうなく迫られる。


D 無意識との関係回復

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 「無意識と折り合うようになる」とは、、どういう事態であるかを想像できる人が、今日どれくらいいるのか私は知らない。ごくわずかしかいないのではなかろうか。『フアウスト』第二部の提起する審美的問題は付随的なものにすぎず、それがどの程度の重みを持つのか疑わしいけれども、その程度をはるかに上まわってなによりも重要なのが、人間的問題であることは大方の認めるところであろう。それはゲ!テの晩年にまでつきまとった最大の関心事、すなわち錬金術によって無意識と対決することであったが、これはパラケルススの「英知の探究」に比肩する。それは一方では、心の元型的世界を理解するための営為となり、他方では、測り知れぬ高さと深さを持ち、逆説に満ちた心的真実の魅惑、その正気を脅かす危険な力と格闘することになる。
 ここでは、意識の網の目を張りめぐらし、具象に密着した人間の畳間の精神は、限界に突き当たる。パラケルススのいう「セドリニ」とか、ドルネウスのいう「粗野な気質の人間」にとっては、「踏み込むことのできぬ未踏の領域Lへの道は皆無なのである。「この場所にはアクアステル〔H物質に近い湿った魂〕は侵入できないLとパラケルススはいう。ここにおいて人間の精神は、その起源となっているいくつかの元型に出会う。有限の意識が太古的な基礎と出会う。死すベき自我(ego)が不死の自己(self)に出会う — すなわち原人(Anthropos)、プルシャ、アートマン、その他どんな名で呼ばれるにせよ、個人の自我が発生する元となった、あの意識以前の普遍的状態にあるものと出会うのである。
 おのれに向かって歩み寄るその未知の兄弟に対して、個人の自我は血族であると同時に他人でもあるがゆえに、それが何者であるかを認知しながら完全には認識できない。実体がないのに実在していると感じる。自我が時空の意識に縛られるにつれて、これは、自我が間違った一歩を踏み出すたびごとに、その目的を遮る寸あのやっかいなアデク」であるという感じが強まってくる。それは運命に思いがけね曲折をもたらし、自我が恐れていたまさにそのことを任務として課するように思えてくる。
ここでわれわれは、パラケルススとともに一つの問題に手探りで入ってゆかねばならない。それは、われわれの文化圏ではかつて一度も公然と問われたことがなく、一つにはまったく気づかれなかったことから、また一つには神聖冒涜への恐れから、かつて一度も明言されたことのない問題である。さらにいえば、<原人>の秘密の教説は、当時の<教会>の教えとは無関係であっただけに危険であった。その立場からすれば、キリストは内なる原人の映像 — しかもたんなる一つの映像 — にすぎなかったからである。それゆえ、この形象を解読不能の秘密の名前で偽装せねばならぬ理由は、数えきれないほどあった。

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 当時のそういう実情を念頭におけば、最終章にある以下のようなもう一つの難解な一節が理解できるように思われる。「したがって、ネクローリ〔=錬金術の達人〕の流儀にならって、私が自分をスカイォラェ〔またはスカイォリ=「愛知者」〕の一人とみなすとすれば、そういう企てはなされてしかるべきだと考えるが、企てはあの大いなるアデクに妨げられる。それはわれわれの目的をそらすが、作業の過程自体を妨げはしない。この点の議論は理論家諸君にゆだねることにする」[028]

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 アデクとは、錬金術の達人にほとんど敵対する者である、といえそうだ。少なくとも何らかの形で挫折させようとしていると考えられる。実際的経験にもとづく以上の考察から明らかになってきたのは、自己と自我の関係が、いかに未解決の問題を苧んでいるかということである。さらに一歩すすめて、これがパラケルススのいおうとしたことだと仮定してみよう。すると、先の彼の文の趣旨は、次のようにいい換えることができるように思われる。彼は<愛知者(Scaioli)>の一人であると「自分をみなしている」、あるいは、スカイォラェという<始源的人間>の四元性のなかに「自己を植えつけている」— こういう概念を使ってさしつかえないと思われるのは、四元性をメトロボリ表すほぼ同じ言葉として、たとえば四つの河のある<楽園>とか、四つの城門を持つ<永遠の都(Metropolis)>[029]などいう言い方が古くから用いられているからである(<永遠の都>に相当する錬金術の言葉は、<英知の住みか>であり、四区分された円である)。だから彼は、自分がアデクに最も近い位置にあり、永遠の都の市民 — ここにもキリスト教的観念のひびきがある — である、と自覚していたと思われる。
 作業(modus と propositum が対照的に用いられ、前者はおそらくここでは方法とか作業過程を意味し、後者は目的とか意図を意味する)それ自体をアデクが妨げることはない、という事実は理解できる。というのは、パラケルススが語っているのは明らかに錬金術の作業であって、これは目標こそさまざまではあるが、一般的な作業過程はどれも同じだからである。目標は<黄金>の産出とか万能の霊薬(elixir)とか<飲用黄金>などであり、また神秘的な<唯一絶対の息子>が究極の到達目標とされる。作業に対する錬金術師の態度も、利己的な場合もあれば理想主義的な場合もある。

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