3 『長寿論』:秘教的教説の解読
C・G・ユング
「錬金術研究」III
精神現象としてのパラケルスス
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4 ゲラルド・ドルネウスの注解
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さて、『長寿論』の結びの部分に入ろう。
ここでパラケルススは、長寿達成の全過程をきわめて圧縮した形で要約しているので、解釈の試みは一段ときわどいものとなる。『長寿論』の他の多くの章節についてもいえることだが、われわれは次のような疑問を抱かざるをえない。著者は意図的に難解な言い方をしているのか、それとも難解な言い方をせざるをえないのか。それともまた、叙述が錯綜しているのは編者アダム・フォン・ボーデンシュタインの責任なのか。この最終章の晦渋きわまる叙述は、パラケルススの全著作中、比類ないものである。現代最新の心理学を思わせる鋭い洞察が含まれていなければ、この論文全体を投げ出し、不問に付したい気さえするほどだ。
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自分なりの判断で解釈したいと思う読者のために、以下パラケルススの原文とドルネウスの注解を併記し、参考に供することにする。
パラケルスス『長寿論』第五巻第五章
Atque ad hunc modum abiit e nymphididica natura intervenientibus Scaiolis in aliam transmutationem permansura Melosyne, si difficilis ille Adech annuisset, qui utrunque existit, cum mors tum vita Scaiolarum. Annuit praeterea prima tempora, sed ad finem seipsum immutat. Ex quibus colligo supermonica[001] figmenta in cyphantis aperire fenestram. Sed ut ea figantur, recusant gesta Melosynes, quae cuiusmodi sunt, missa facimus. Sed ad naturam nymphididicam. Ea ut in animis nostris concipiatur, atque ita ad annum aniadin[002] immortales perveniamus arripimus characteres Veneris, quos et si vos una cum aliis cognoscitis, minime tamen usurpatis. Idipsum autem absolvimus eo quod in prioribus capitibus indicavimus, ut hanc vitam secure tandem adsequamur, in qua aniadus dominatur ac regnat, et cum eo, cui sine fine assistimus, permanet. Haec atque alia arcana, nulla re prorsus indigent.[003] Et in hunc modum vitam longam concIusam relinquimus. |
かくしてスカイォラェの介入により、メルジーネは水の精に類する性質を脱して変身し、スカイォラェの生死を司るあのやっかいなアデクがもし許せば、その変身した状態にとどまる。さらにいえば、アデクは最初は許すが、最後には自らが変身を遂げる。
以上の経緯からして、蒸溜器内に天上の霊気(supermonica figmenta)[001]によって生じたものが窓を開けるのだ、と私は結論する。しかしそれが凝固するためには、メルジーネの働きに対抗しなければならないので、いかなる種類のものであれ、われわれはこれを水の精の領域に放逐するのである。けれども〔彼女〕を心のなかに思い描き、不死なるアニアドス[002]の年に到達するために、われわれはウェヌスの諸性質を利用する。これは自他の一体なることを知っている者でも、以前にはほとんど役立てたことのない諸性質である。本巻で扱ってきた事柄の結論は、以下のとおりである。
アニアドスの支配し君臨する生命に到達することは、われわれにとり十分可能である。その生命はアニアドスとともに永遠に持続する。現にわれわれは限りなくその秘儀にあずかつて存在しているのである。このことはもちろん、他の神秘についても欠けるところは何一つない[003]。これをもって長寿に関する論述を終えることにする。 |
ドルネウス『長寿論』注解」
[Paracelsus] ait Melosinam, i.e. apparentem in mente visionem ..... e nymphididica natura, in aliam transmutationem abire, in qua permansura[m] esse, si modo difficilis ille Adech, interior homo vdl. annuerit, hoc est, faveret: qui quidem utrunque efficit, videlicet mortem, et vitam Scaiolarum, i.e. mentalium operationum. Harum tempora prima, i.e. initia annuit, i.e. admittit, sed ad finem seipsum immutat, intellige propter intervenientes ac impedientes distractiones, quo minus consequantur effectum inchoatae, scl. operationes.
Ex quibus [Paracelsus] colligit supermonica[001] figmenta, hoc est, speculationes aenigmaticas, in cyphantis [vas stillatorium], i.e. separationum vel praeparationum operationibus, aperire fenestram, hoc est, intellectum, sed ut figantur, i.e. ad finem perducantur, recusant gesta Melosines, hoc est, visionum varietates, et observationes, quae cuius modi sunt (ait) missa facimus. Ad naturam nymphididicam rediens, ut in animis nostris concipiatur, inquit atque hac via ad annum aniadin[002] perveniamus, hoc est, ad vitam longam per imaginationem, arripimus characteres Veneris, i.e. am oris scutum et loricam ad viriliter adversis resistend urn obstaculis: am or enim omnem difficultatem superat: quos et si vos una cum aliis cognoscitis, putato characteres, minime tamen usurpatis. Absolvit itaque iam Paracelsus ea, quae prioribus capitibus indicavit in vitam hanc secure consequendam, in qua dominatur et regnat aniadus, i.e. rerum efficicia et cum ea is, cui sine fine assistimus, permanet, aniadus nempe coelestis: Haec atque alia arcana nulla re prorsus indigent.[003] |
〔パラケルススは〕いう。心に現われるメルジーネという幻像は、水の精に類する性質を脱して変身し、アデクという内なる人間が許しさえすれば、つまり是認しさえすれば、そのままの状態にとどまる。アデクはスカイォラェという心的活動の生死を左右する。最初はスカイォラエの活動を擁護するが、結局はそれ自身が変身を遂げる。これは、スカイォラェの活動によって生じた混乱が介入し、妨げとなるからである。その結果、心的活動が始まっても、所期の結果を得るにいたらない。
このことからして〔パラケルススは〕次のように結論する。キファンタ〔蒸溜器〕のなかに天上の霊気[001]から生じたもの、すなわち謎めいた思弁の産物が、分離や調合の操作を通じて理解力の窓を開く。しかしそれらが凝固し完結するためには、メルジーネの働きに対抗しなければならない。これはさまざまの幻影や、観察の結果目に映ずるものを指すが、それがどのような種類のものであれ、すべて放逐しなければならない、と彼はいう。水の精が支配する領域にメルジーネが還ると、われわれは〔彼女〕を心に思い描くことにより、想像力の働きによってアニアドス[002]の年に到達し長寿を達成するために、ウエヌスの諸性質を利用する。すなわちわれわれに立ちはだかる障害物に雄々しく立ち向かうために、愛の楯と円楯を武器とする。愛はすべての困難に打ち勝つからである。自他の一体なることを知っている者でも、以前にはほとんど役立てたことのなかったウェヌスの諸性質が、ここにおいて有効になる。本巻で論じられてきた事柄の結論として、パラケルススは以下のように述べる。
アニアドス、すなわち事物の霊能が支配し君臨する生命を得ることは、われわれにとって十分可能である。その生命は天上的アニアドスとともに永遠に持続する。現にわれわれは限りなくその秘儀にあずかつて存在しているのである。このことはもちろん、他の神秘についても欠けるところは何一つない[003]。
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A メルジーネと個性化の過程
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確かに本文は注解を要する!スカイォラエが〈原人〉の四つの部分、四肢、またその流出物[004]として、現象界に積極的に介入し、これと結びつくための器官であるのは、見えざる第五元素とかエーテルが四元素の世界に出現し、あるいは逆に四元素から出現するのとまったく同じである。すでに見てきたとおり、スカイォラェは心的機能でもあるから、見えざる原人という一者が現れ出たもの、あるいは流出した物と解されねばならない。意識の諸機能、特に「想像力」「思弁力」「空想力」「信念」として、それは水の精メルジーネに「介入し」、これを刺激して人間の形をとらせる。ドルネウスは、これが「心に現れる幻像」であると考え、現実の女性に投射されるとは考えない。伝記的事実として知られているかぎりでは、パラケルススの場合も現実の女性に投射されるようなことはなかったようだ。
コロンナの『ポリフィロの夢』では、高貴の女ポーリアが高度の実在性を獲得しているが(ダンテの天上的ベアトリーチェをはるかに上まわるが、『フアウスト』第二部のへレナには及ばない)、彼女といえども五月の第一日の朝日が昇ると、美しい夢となって消失する。
……涙が彼女の目に光った。さながら透明な水晶のように、まるい真珠のように、曙光の女神が
夜明けの雲にまきちらす露のように、それは輝いた。天人のように、天の精霊を喜ばせるために立ち昇る麝香や琥珀の香りのようなためいきをついて、彼女は薄い空気のなかに消え去り、あとにはただ天上の芳香が漂うばかりであった。そして、私の幸福な夢とともに彼女は見えなくなっていったが、立ち去りながらこういった、ポリフィロ、私の最愛の人よ、さようなら。[005]
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ポーリアは恋人との悲願の合体を果たす直前に消失する。これに対してへレナは、わが子オイフオリオンの失綜とともにはじめて姿を消す。パラケルススは五月の「昂揚」に結婚の気分を明示し、それに付随して耕のある刺草と小さな炎に言及しているけれども、実在の人間や具象的かっ人格化されたイメージへの投射はまったく無視し、むしろ伝説的形象メルジーネを選ぶ。
ところでこの形象はキメラを寓意するものでもなければ、決してたんなる比喩でもない。メルジーネはその本性からして一つの心霊的ヴイジョンであるだけではなく、これを想像力によって実体化する能力(パラケルススのいうアレス)が心霊には備わっているため、夢がしばしのあいだ現実味を帯びるように、一箇の明確な客観的実体となる。そのような魅惑的な幻像であるという意味において、メルジーネは特有の心霊的実体を持っているのである。心霊的実体の概念を子するうえで、メルジーネはとりわけ有効適切なカを発揮する。
個人の真の内的自己(アニマ)は、主として特殊な心的状況で起こる限界現象に属する。この現象、それまで個人の全経験を支える不可欠の基盤と思われていた生の形式ないし様式が、大なり小なり突然崩壊した時に起こるのが特色である。そういう破局が起こると、過去に後戻りするいっさいの退路が断ち切られるばかりか、未来に前進するための活路もまったく閉ざされているように見える。目の前には絶望的な透視できない闇が立ちはだかり、その虚無の深淵が、不iにある誘惑的な幻像に満ち、不可思議だが慰めを与える存在が、触知できるほどなまなましく克前してくる。そのさまは、長いあいだ非常に孤独な生活をしていると、周囲の沈黙と十聞がトドに見え、耳に聞こえ、手で噌れることのできる生命を帯び、やがて自分自身のなかに潜む未知なるものが、未知なるままに迫り出してくるのに似ている。
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アニマのこういう特異性は、メルジーネ伝説のなかにも見られる。ポアティエ伯エメリクは、貧しい親戚の息子レイモンを養子にしていた。養父子の関係を円満であった。しかしあるとき狩に行き、猪を追っているうちに二人は仲間からはぐれ、森のなかで道に迷ってしまった。日が暮れ、彼らは暖をとるために焚火をした。不意に猪が伯に襲いかかったので、レイモンは剣で切りかかった。しかし運悪く刃がはねかえったはずみに、伯は致命傷を負った。レイモンは悲嘆にくれ、絶望のあまり馬に飛び乗ると、どこへともなく駆け去った。やがて彼は水の湧き出る泉のある草原に出た。そこに三人の美しい女がいた。そのうちの一人がメルジーネであった。彼女は聡明な計らいによって、彼を不名誉と流浪の運命から救った。
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伝説によれば、レイモンは上述のような破局に陥り、いっさいの拠りどころを失って破滅に瀕した。これこそ、普遍的無意識の元型であるアニマが、運命の前兆として現われる瞬間である。伝説では、メルジーネは魚の尾を持っていることもあれば、蛇の尾を持っていることもあって、半人半獣の生き物である。時には蛇の姿だけをとって現われることもある。伝説の起源は明らかにケルト的だが[006]、モチーフ自体は事実上どこにでも見いだされる。それは中世期のヨーロッパに異常なまでに流布していただけでなく、インドのウルヴァーシとプルラーヴァスの伝説にも出てくることは『シャタパータ・ブラーフマナ』[007]に言及されている。また北アメリカのインディアンにも伝承されている[008]。半人半魚のモチーフは世界中に普及している。
この点に関連して特記すべきはコンラート・ヴェケリウス[009]である。彼によれば、メルジーネとかメリシーネは、好むがままに形を変える九つの海の精(Syrena)が住む海のなかの島に由来する。これが特に興味深いのは、パラケルススがメルジーネと「海の精(Syrena)」を結びつけているからである[010]。伝承の源はおそらくポムポニウス・メラ[011]までさかのぼるだろう。彼はこの島を「セーナ」と呼び、その住人を「セーナエ」と呼んでいるからである。彼らは嵐を引き起こし、形を変え、不治の病を癒し、未来を予知する[012]。錬金術師のいうメルクリウスの蛇が乙女(virgo)と呼ばれるのもまれではないし、パラケルスス以前からメルジーネの形で表象されていたから、形を変え病を癒すメルジーネの能力は、そういう特異な力がメルクリウスの属性でもあることが特に強調されてきただけに、重要な意味を持ってくる。他方ではまた、メルクリウスは灰色の髭をたくわえた老いたるメルクリウスとか、ヘルメス・トリスメギストスとして描かれることもあった。
この事実からして、アニマと<老賢人>[013]という経験的にごくありふれた二つの元型が合流して、メルクリウスの象徴的機能を現象学的に表象するにいたったことは明らかである。両者とも啓示をもたらす神霊(daemon)であるが、メルクリウスの形をとると治療の女神を表象する。メルクリウスは、「めぐり行くもの」「形を変えるもの」「移ろいやすきもの」「逃げ去るはしため」「駆け去る雌鹿」、「プロテウスLなどの名で、くりかえし何度も呼ばれている。
錬金術師たちはもちろんパラケルススも、非知の暗い深淵にかなりしばしば直面したことは間違いない。そして前進することができず、彼らは啓示の光の訪れや夢の導きに頼らざるをえないことを自認していた。そのため「守護霊」、つまり親しく見守り、いわば「そばに付き添う(pavredroV)」霊を必要としたが、これに対する祈願の実例は『ギリシア魔術のパピルス』に示されている。啓示を与える神や一般に心霊的存在は、蛇の形で表象されるが、これは普遍的な型である。
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パラケルススはいかなる心理学的前提もまったく知らなかったようだ。メルジーネの出現と変容は、スカイォラェすなわち〈最大の人間〉から流出する霊的駆動力の「介入」の結果生ずる、と彼は考える。作業がこの霊力に従属するのは、人間を原人の域まで上昇させることが目的だったからである。哲学的錬金術師の目標が、より高度な自己形成であり、パラケルススのいう大いなる人間の創出(私ならば個性化の達成という)にあったことは、疑えない。この目標に縛られ、錬金術師は誰もが恐れる孤独に仕事の最初から直面する。相棒はおのれ自身しかいないからである。錬金術師は原則として独りで仕事をした。学派は作らなかった。この厳格な孤独と暖昧模糊とした果てしない作業への専心とが相まって、無意識が活性化され、明らかに以前にはなかったものが、想像力の働きによってそこに存在するようになったのである。
このような状況下で「謎めいた思弁の産物」が生じ、無意識が「心に現れる幻像」として視覚的に体験される。メルジーネが水の領域から現われて人間の姿をとる ときには『フアウスト』第一部におけるように、きわめて具象性を帯びることがある。ファウス卜は絶望にかられてグレートヒェンの腕に身を投ずる。もしファウストを魔術に深入りさせる破局が起こらなかったとすれば、明らかにメルジーネはグレートヒェンの姿のままであったろう。だ、が彼女はへレナに変身する。しかしその状態にもとどまることができない。レトルトの人造人間(homunculus)がガラテイアの玉座にぶつかって砕け散るように、具体化へのあらゆる企ては打ち砕かれるからである。「あのやっかいなアデク」という別の力が優勢になるが、これもまた寸結局は変身するL。より大いなる人間が「われわれの意図を妨げるL。ファウストは死を前にして一人の少年、<永遠の少年>に変わらざるをえない。彼からあらゆる煩悩が消え去った時、はじめて真実の世界が示、されるはずだからである。「至上の宝、すなわち<自然の光>を自然から拒まれているのだから、人間とは憐むべきものだ!」
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スカイォラェの働きによって錬金術の達人の意図の導き手となり、さまざまの幻像を見させるのはアデク=内的人間である。達人はその幻像から間違った結論を引き出し、かりそめの変わりゃすいその性質には気づかぬまま、自己流に状況を推測する。また未知なるものの扉を叩く行為は、彼の内なる未来の人間の理法に従うことであり、作業から何らかの恒久的利益とか所有物を得ょうとすれば、つねにこの理法に背くことにも彼は気づかない。未知なるものの扉を叩くとは、一個の人格の断片にすぎぬ自我が問題になっているのではない。むしろおのれがその一部である一つの全体的生命が、無意識の潜在状態から解放され、それ自体の近似的意識へと変容されることを求めていると見なすべきである。
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「メルジーネの働き」は、最高の条理と致命的な不条理のからまりあった幻影を織りなし、ひとを欺く。これは現世のあらゆる人間を誘惑し迷わせるマーヤーの垂れ絹であるにちがいない。この幻影から賢人は、「天上の霊気」によって生ずる元素、すなわち高次の霊感を引き出す。あたかも蒸溜の作業[014]によって抽出するように、意味と価値のあるいっさいのものをそこから取り出し、調整された魂のビーカーに貴重な<知恵の滴>を受けとめる。それによって理解力の「窓が開く」のである。ここでパラケルススは、小麦の実と籾殻を批判的判断力によって分離する識別の過1にふれているが、これは、いかなる形のものであれ、無意識との関係を回復するには不可欠の働きといえる。
愚鈍になるには何ら術を要しない。問題のすべては、愚鈍から英知を引き出せるかどうかにかわっている。愚かさは賢者の母であるが、利口さからは決して英知は生まれない。「凝固」とは十金術;石の結晶を指すが、心理学では感情の強化を指す。蒸溜物は判明日τ堅固にならねばならないし、一つの確信、一つの恒久的内容を持つものでなければならない。
B 永遠的人間の聖なる結婚
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メルジーネ、すなわち惑わしに満ちたシャクティ(Shakti)は、作業が目標を達成するとすれば、ふたたび水の領域に還るほかない。彼女は錬金術師の前で誘惑的な身振りで踊ることをやめ、本来の自分、つまり錬金術師の全体的生命の一部にならねばならない[015]。そういう存在として、「心のなかで思い措かれる」ほかなくなるのである。これが意識と無意識との合一への道を開く。無意識的にはつねに存在しながら、意識の一面的態度によってつねに否定されていた両者の合一は、ここから生まれるのである。あらゆる時代にあらゆる国の内観的哲学が、おびただしく多様な象徴、名称、概念を用いてその特徴を示そうとしたあの生命の全一性は、この合一から生ずる。「千の名称」の背後には、この合一(coniunctio)が、触知できるものにも論述によって理解できるものにも関係しない、という事実が隠されている。それは言葉ではまったく再現できない経験であるが、その本質自体のなかに、論駁する余地のない永遠性と超時間性の感じが含まれているのである。
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私はこの問題について、別の所ですでに述べたことをここで繰り返すつもりはない。誰が何といおうと、この事実は動かせないのである。しかしながら、パラケルススはもう一つ見過ごすことのできないヒントを与えていて、これは「ウェヌスの諸性質」[016]にかかわる。
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メルジーネは水の精だから、「海の波から生まれた」モルガナと密接に結びついているが、こ
れはギリシア神話における「水泡から生まれた」アプロディテに相当する。女性として人格化された無意識との合一は、すでに述べたとおり、ほとんど終末論的経験であって、これを反映する記述、が『黙示録』の<小羊の結婚>に見られる。それはキリスト教的形態における聖なる結婚ともいえるが、次にその一節を引いておこう(『ヨハネの黙示録』19・6-10)。
わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こういうのを聞いた。
「ハレルヤ、
全能者であり、
わたしたちの神である主が王となられた。
わたしたちは喜び、大いに喜び、
神の栄光をたたえよう。
小羊の婚礼の日が来て、
花嫁は用意を整えた。
花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。
この麻の衣とは、
聖なる者たちの正しい行いである」
それから天使はわたしに、「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」といい、また、「これは、神の真実の言葉である」ともいった。わたしは天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏した。すると、天使はわたしにこういった。寸やめよ。わたしは、あなたやイエスの証を守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である……」
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この「天使」はヨハネに語りかけている。パラケルススの言葉でいえば<大いなる人間(homo maior)>、すなわちアデクである。ウェヌスと密接不離の関係にあるのが愛の女神アスタルテであることは、改めて指摘するまでもあるまい。その聖なる婚礼の祝祭は誰でも知っているからである。こういう祭儀の根底にある合一の体験は、心理学的にいえば「真の意味での五月」に、春の生命の昂揚によって二つの魂が抱擁しふたたび合体することを意味する。単一存在の全一性のなかで絶望的なまでに二分されていたものが、ここにめでたく再統一される。この統一性が多種多様なあらゆる存在を包摂する。「自他の一体なることを知っている者でも」、とパラケルススがいうのはこういう事情を指す。アデクはわたしの自己であるだけではなく、わたしの兄弟たちの自己でもあるのだ。「わたしは、あなたや……あなたの兄弟たちと共に、仕える者である」。これは合一(coniunctio)という経験の明確な定義となっている。わたしを包摂する自己は多くの他者をも包摂する。「心のなかに孕まれる」無意識は、わたしに属するものでもなければわたし固有のものでもなく、いたる所に存在している。それは個人と集団を同時に貫く第五元素=究極至高の原質である。
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<小羊>の婚礼に連なる者たちは永遠の祝福に浴する。彼らは「女に触れて身を汚したことのない者」、「人びとのなかから購われた者たち」である(『黙示録』14・4)。パラケルススにおける購いの達成は、<一者>が永遠に君臨するアニアドスの年、すなわち完全無欠の時の到来を意味する。
C 霊と自然
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キリスト教的イメージによっても、同じ思想をきわめて明確に表現できるのに、パラケルススはなぜそれを利用しなかったのであろうか。メルジーネのかわりにウェヌスが現れるのはなぜなのか。また本文に暗示されているのが<小羊>の結婚ではなく、金星=愛と火星(Mars)=戦いの聖なる結婚であるのはなぜなのか。
ポリフィロは恋人ポーリアを追い求める旅で、〈聖母〉ではなくウエヌスを道連れにするが、物語をそのように仕立てたブランチェスコ・コロンナの内的衝動と同じものが、おそらくその背後にある。クリスティアン・ローゼンクロイツの『化学の結婚』[017]に登場する少年も、同じ理由で主人公を地下室に連れてゆく。地下室の扉には銅の文字で秘文が刻まれている。銅(cuprum)はキュプロス島人(Cyprius)と相関的である(つまりアプロディテ、ウェヌスと連関する)。部屋には三角形の墓があり、そのなかに大釜が入っていて、一本の木を持った天使がいる。木から絶えず大釜に雫がしたたっている。墓は鷲と牡牛と獅子に支えられている[018]。この墓に多くの高潔な男を破滅させたウェヌスが埋葬されている、と少年は説明する。さらに地下へと下降してゆくとウェヌスの寝所があり、女神が寝椅子の上で眠っている。不謹慎にも少年は上掛けを引きのけ、全裸の美しい姿をあらわにする[019]。
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キリスト教が、霊的立場の土台を絶望的に揺さぶられないようにするためには、看過するほかなかったところの自然の大部分と数多くの不確実な問題を、古代世界は包含していた。文化的要請と衝突する自然人の思想的混乱、果たすべき義務としての闘い、目に見えない悲劇などに対して、正当な判断を明文化し宣告することは、いかなる戒律、いかなる道徳律、また最高の決定論をもってしても、所詮不可能であろう。
問題の一方の局面が「霊」であり、他方の局面が「自然」である。「フォークで自然を放り出しでも、自然はかならず帰ってくる」、と詩人はいっている[020]。自然が勝負に勝つてはならないが、自然は負けることなどありえないのである。意識が規定のはっきりした固定的概念にしがみつき、それ自体の法則や規制にとらわれると それが文明人の意識の避けがたい常態であり、本質でもあるが かならず自然は頭をもたげ、逃れることのできない要求をつきつけてくる。自然はたんなる物質ではない、それは霊でもあるのだ。そうでなければ、霊の源としては人間の理性しかないことになる。パラケルススの大きな功績は、「自然の光」を一つの原理にまで高め、彼の先人アグリツパとは比べものにならないほど根本的な方法によって、これを力説したところにある。
自然の光は自然の霊であって、その不可思議かつ意味深い働きを、現在われわれは、無意識のさまざまの表われのなかに読みとることができる。これは心理学の研究成果によって、次の事実が明らかにされたおかげである。すなわち無意識とは、たんに「意識下にある」意識の付属物でもはき溜めでもなく、意識的態度に含まれる先入見や異常を補償する心的組織であって、それ自体ほとんど自立的な存在であり、その補償作用はおおむね機能的ではあるが、場合によっては意識の偏異を有無をいわさず修正する。周知のとおり、意識は自然性によっても霊性によってもひとしく惑わされやすい。これは、意識に選択の自由があることの論理的結果である。無意識の働きは、大脳皮質中枢の本能的・反射的過程のみに限定されるものではない。それは意識のかなたにも及び、さまざまの象徴に助けられて未来の意識過程を予知する。したがって、「超意識」とまったく閉じものなのである。
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信念とか道徳的価値は、かりに信じられもせず、かけがえのない妥当性がそこにあるのでもな
ければ、何の意味もないだろう。けれどもそれは人為の産物であり、時間的制約を免れない主張とか説明であって、あらゆる種類の修正を受ける可能性がある。このことは過去にもあったし未来にも起こりうるのは誰の自にも明らかである。過去二千年の歴史を見れば、そういうものがある一定の行程においては確かな里程標として有効だが、やがて破壊的かつ不道徳的ともいえる痛ましい大変動が起こって、結局、新しい信念が定着する経緯がわかる。人間性の本質的特徴が変わらないかぎり、一定の道徳的価値は不変の妥当性を保ちつづけるだろう。しかしながら、「十誠」をすみずみまで順守したからといって、ひとがいっそう巧妙な形で卑劣さを発揮する妨げとはならない。また隣人愛というひときわ高潔なキリスト教の原理にしても、やむをえぬ錯綜した戦いにひとを巻き込み、その解きがたいからまりを解きほぐすには、きわめて非キリスト教的な剣をふるうしかない場合もある。
D 教会の秘蹟と錬金術の作業
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他の多くの錬金術師についてもいえることだが、パラケルススがキリスト教の象徴的表現を利用できなかったのは、キリスト教の教義にもとづく定式を使えば、問題のキリスト教的解決を暗示することは避けられず、その結果、避けねばならない解決方法にいたらざるをえなくなるからであった。自然とそこに宿る特有の寸光」こそ、どうしても認められねばならないものであったし、それを必死になって無視しようとする人びとに対抗して、生きるうえでの指針にしなければならなかった。これを実現するには、錬金術の秘儀をぜひとも後ろ楯にしなければならなかったのである。
しかしパラケルススその他の錬金術師たちが、新しい教説を私的な綱領に仕立て上げる秘密の用語を発明しようと決心していた、などと想像してはならない。そういう企てをするには、明確な見解と定義のはっきりした概念がすでに存在していることが前提となる。しかしこれについては、改めて問う必要がないほど実情は明白である。錬金術師たちは、その哲学の真の問題点が何であるかを明確に把握していなかったのである。何よりの証拠は、独創性のある者は誰でも自分独自の用語を造り出したが、その結果お互いに他の誰の言葉も完全には理解できなかげ川という事実である。ある錬金術師にとっては、ルルスは迷蒙の権化であり山師であるが、ゲベルは偉大な権威であった。別の錬金術師にとっては、ゲベルは謎の人物であり、ルルスは光明の源であった。パラケルススの場合も事情は同じである。
彼の造語の背後に、意識して隠された明確な概念があると想定できる理由はまったくない。むしろ逆に、把握できないものを無数の秘教的言語で把握しようと努力し、無意識からくる象徴的暗示を懸命につかみとろうとしたのだと思われる。科学的認識の新しい世界はまだ夢のなかで胎動していた。切り拓かれるべき未来は濃い霧に閉ざされていて、影のような茫漠とした形象が、しかるべき言葉を求めて霧のなかを漂っているにすぎなかった。パラケルススは過去の世界に逆戻りしようとしていたのではない。むしろ手近に適切な表現手段が見当たらないので、過去の思想的遺物をつかつて、匙った元型的経験に新しい形を与えようとしたのである。
錬金術師たちは、過去を甦らせる必要を真剣に感じたとすれば、その豊かな学殖からして、異端的思想の文献の無尽蔵の宝庫を利用することができたであろう。しかし錬金術と同様に異端的思想を扱っている「知恵の水槽」[021]を別にすれば、エピファニウスの『パナリオン』を読んだことを恐るおそる認めている錬金術師は、一人しか(16世紀には)見当たらない。多くの錬金術文献に、無意識のうちにグノーシス派と類比するイメージが頻出するのは事実であるが、グノーシス派の用法を暗に踏まえている形跡はまったく見いだせない。
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『長寿論』の本文に話を戻せば、これがまさに不死を達成する方法(「われわれが不死のものとなり、アニアドスの年に到達するためにL〉を述べていることは明らかである。けれどもこの目標を達成する道は一つしかない。すなわち教会の秘蹟によるものである。本論文ではこれが錬金術の作業の「秘蹟」に代置され、言葉よりもむしろ行為によって置き換えられていて、しかも正統的キリスト教の立場と矛盾をきたしている様子は、いささかも見受けられない。
パラケルススはどちらが正しい方法であると考えていたのか。あるいはどちらも正しいと考えていたのであろうか。おそらく後者の立場に立ち、その他のことは「理論家諸君の議論にゆだねようL、というのが彼の態度であったと思われる。
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「ウェヌスの諸性質」が何を意味するものであるかは、依然として不明である。アグリッパによれば[022]、パラケルススの珍重した「サファイア」[023]のほかに、<ケイリ><ラブダナム><麝香><琥珀>がその特性である。だが本論文では、たしかにもっと高貴な存在として彼女は登場する。ここで与えられている位置は、「才知豊かな」「至高の」「神にして人間なる最高の美女」「最高の女王」など[024]、この女神に対する古典的形容辞にふさわしいものといえよう。その特性の一つはたしかに最も広い意味での愛である。その点、彼女の特性を「愛の楯」とみなすドルネウスの解釈は間違いではない。楯と円楯は戦闘的性質をおびているが、「武装したウェヌス」[025]の像もあるのだ。神話において人間の形をとる愛(Amor)は、ウェヌスとマルスの息子であるが、錬金術では両者が事実上の夫婦関係にあり、これは典型的な合一(coniunctio)の例である[026]。ドルネウスはパラケルススの信奉者ではあるものの、錬金術の基本にある一定の信条[027]には断固とした論争的態度をとった。そのために、キリスト教的隣人愛は悪に対抗する有力な手段として、彼にとっては最も適切な拠りどころとなったのである。
しかしパラケルススに関するかぎり、この解釈の妥当性は疑わしい。ウェヌスという言葉自体が、ドルネウスとはまったく別の方向を指しているからであり、キリスト教的な神の恩寵は彼のカトリック信仰のなかに含まれているので、いすれにせよ愛をキリスト教的なものに変える必要がまったくないのである。それどころか、<女神ウェヌス>とか精神的愛の象徴としての<アプロディテ>、いや<智恵(Sophia)の女神>でさえも、自然の光の神秘を暗示するものとして、パラケルススにはいっそうふさわしいものに見えたであろう。「にもかかわらず、あなたは何一つ語らなかった」(minime tamen usurpatis)[028]、といっているのは、彼の慎重な配慮の表われともいえよう。それゆえこの謎めいた一節の解釈にあたっては、ドルネウスの腕曲な好意的解説よりも、『化学の結婚』におけるウェヌスの挿話のほうが、いっそう深い意味を持つといえるかもしれない。
235
アニアドスの支配下において、「果てしない命」を享受できることを述べた最後の一節の表現は、『黙示録』(20・4)を彷彿させる(「彼らは生き返って、キリストと共に千年のあいだ統治した」)。したがって、アニアドスの年は、『黙示録』における千年王国に相当するといえよう。
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ここに粗描した秘密の教説の概観からして、パラケルススは医師でありキリスト者であるだけでなく、その精神活動には哲学的錬金術師の思考法が強く表われていて、あらゆる類推の限りを尽くして神的神秘の諸相を究めようとした、と結論できるだろう。キリスト教信仰の宗教的神秘と彼の思想を対比させるのは、われわれには非常に危険な対立を引き起こすとしか思えないけれども、不穏当な多くの類似点があるにもかかわらず、彼にとってそれはグノlシス派的異端思想ではなかった。他のあらゆる錬金術師にとっても彼にとっても、自然に植え込まれている神の意志を完成させることが、人間に託された任務であったし、これこそが真の秘蹟にあずかる仕事だったのである。「あなたはへルメスの徒であるように見受けられるが、本当にそうなのか」、と問われたならば、彼はラザレロとともにこう答えたと思われる。寸おお、天なる王よ、私はキリスト者だ。キリスト者であると同時にヘルメスの徒であっても、少しも恥じるところはない」[029]。
5 結語
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錬金術が化学の母であるだけではなく、現代の無意識の心理学の先駆でもあることに、私はかねてから気づいていた。したがって、パラケルススは、化学医療にとどまらず、経験心理学や精神医療の開拓者でもあるといえよう。
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ここでの私の論述は、献身的な医師・キリスト教徒としてのパラケルススについてあまりに語るところ少なく、暗い影に包まれたもう一人のパラケルススに比重がおかれすぎている、と思われるかもしれない。つまり太古に淵源し、彼以後の遠い未来まで流れつづける不可思議な霊気の流れ、それと一つに融け合う魂の持ち主であったパラケルススである。しかし、暗黒に潜む光によってこそ、いい換えれば魔術に強く惹かれたからこそ、彼はその後数百年にわたって裨益する自然の実相解明への扉を開くことができたのである。
他の偉大なルネサンス人と同じように、彼のなかには驚くべき不思議な仕方においてキリスト教徒と原始的異教徒が併存し、対立を苧む全人格を形成していた。彼はこの対立に耐えねばならなかったが、その後の時代を引き裂くことになった、認識と信仰との苦悩に満ちた分裂に苦しむことはなかった。一個の人間としては一人の父を持ち、一個の精神としての彼は二人の母を持っていた。彼の精神は創造的であるがゆえに英雄的であったが、ざればこそプロメテウスの罪を犯す運命にあった。
16世紀の初めに火を吹いた世俗界の対立と、それを如実に体現する人物として、パラケルススはわれわれの前に立っている。彼のそういう位相は、われわれがより高次の意識を達成するうえで必須の前提なのである。というのは、分析はつねに総合を伴うもので、低い次元では分裂していたものも、やがてより高い次元では統一された形で現れてくるからである。
2015.03.04. 入力。
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