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back.gifI.樹の絵に現れるシンボル

C・G・ユング
「錬金術研究」V

哲学の樹

(2/5)





II.樹の象徴の歴史と解釈について

1.元型的イメージとしての樹

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 このエッセイの第I部では現代の樹のシンボルを自由に描かれた絵で示しましたが、第II部では、『哲学の樹』というタイトルについて説明するために、樹のシンボルの歴史的背景を述べたいと思います。私が取り上げた絵が、周知の樹のシンボリズム特有の実例であることをおわかり頂いた方には言うまでもないことでしょうが、個々のシンボルを解釈していくことは、その先例について知るためにも重要なことです。すべての元型的シンボルと同じように、樹のシンボルは長い世紀を経てその意味の発達を遂げ、もともとの呪術的な意味からはかけ離れてしまいましたが、それでもある程度基本的な特徴は変化しなかったことがわかります。経験的には変化の可能性が無数にあるものの、いかなる元型的イメージも、その根底にある類心的(psychoid)形式がどの発達段階でも失われることはありません。外に現れる樹の形は時が経つうちに、変化するかもしれませんが、シンボルの豊かさと生命感は、その意味の変化のなかでより強くなってくるのです。したがって、意味について考えることは、樹のシンボルの現象論に不可欠です。ざっと見たところ、樹の意味でよく使われる連想は次の通りです。成長、生命、身体や精神における形相の展開、下から上への成長や、上から下への成長、母性的側面(保護、庇、シェルター、滋養のある果実、命の源、堅固、永続、しっかりした基盤、もちろんどこにでも根づくということも)、老成、人格[01-01]、そして究極には死と再生。ここにあげた特徴は、個々の患者の述べてきたことを研究してきた、長年の積み重ねによるものです。このエッセイを読んでいる一般の読者でさえも絵に出てくる昔話、神話、詩などにびくっりされるでしょう。ところが私が患者に尋ねたところ、こういった出典をほとんど意識していなかったのはさらに驚くべきことです。

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 主な理由は以下の通りです。
 (1)一般に夢のイメージの起源を考えることなどめったにないし、神話のモチーフなどなおさらである。
 (2)出典を忘れてしまうこともある。
 (3)出典はどんな風にせよ、まったく意識されていない。すなわち、イメージは新しいもので、元型が創造したものである。

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 意外かもしれませんが、3番目の可能性がありうるのです。むしろ、あまりに頻繁に起こるので、無意識から自然発生的に出てきた作品を解明するためにはシンボルの比較研究が欠かせないのです。神話素あるいは神話モチーフ[01-02]がいつも伝承と関連してるという広く受け入れられている視点には無理があります。なぜなら、それらはどこでもいつでも、また伝承にかかわらずどんな人にも現れるかもしれないからです。イメージは、それは人間の歴史の記録に同じ形で、同じ意味をもって存在するときに元型と考えることが出来ます。2つの対極にある見解をここではっきりとさせておきましょう。
 (1)イメージとは明確に定義されて、意識的に伝承と関連付けられる。
 (2)イメージとは内から生まれることは疑う余地はなく、伝承からのみの確率はまったくない[01-03]
 この2つの対極の間で、あらゆる段階の相互の融合が見られます。

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 イメージは集合的な性質をもつので、単なる個々の素材を結び付けることで、その全体の意味を確立するのは難しいものがあります。しかし、有効な治療法の目的のために重要なことですから、医療心理学でのシンボルの比較研究が必要なことはおわかりでしょう[01-04]。この目的のために、研究者は人間の歴史の、まだシンボル形成が阻害されていない時期まで戻らなければなりません。すなわち、イメージ形成への認識論的批判がまったくなかった頃であり、そして、事実それ自体がはっきりと目にみえる形で表しうるものとは知られていなかった頃です。私たちにもっとも近いこのような時期は、17世紀に頂点に達し、18世紀に徐々に科学へ譲っていった中世の自然哲学の時代でしょう。中世は、錬金術と神秘哲学の分野でもっとも重要な発展があったときです。この大きな宝庫の中に、最も永続的で最も重要な古代世界の神話素が集められています。神秘哲学が主に医師によって実践されたことは大きな意味があるのです[01-05]


2.ヨドクス・グレウェルスの論説における樹

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 この中世に戻って考えてみましょう。そのころ、樹の現象学はどのように考えられていたでしょうか。生命の樹についてホルムベルグ[02-01]が包括的な研究をしていますが、彼によると「生命の樹は『人類の最も壮大な伝説』であり、明らかに神話の中心的な位置を占め、 非常に広く行きわたりその分枝がいたる所で見つけうるもの」だそうです。樹は中世の錬金術文書にたびたびあらわれ、神秘体の成長や哲学の黄金(もしくは黄金という名がつくものなら何でも)への変容を表していました。ペラギオスの論説によると、ゾーシモスは変容過程を「よく世話された樹、水を与えられた植物」に喩え「豊富な水で発酵し始め、空気の湿り気と温かさのなかで発芽し、甘みある徳と自然な特質(poiovthti)により花を咲かせ、実をつける」[02-02]と言っています。

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 このプロセスの典型例は、ヨドクス・グレウェルスの論文にみられます。1588年ライデンで初版が印刷されました[02-03]。オプス(錬金術作業)の全体像が、世話の行き届いた庭で樹の種を蒔き、育てることとして描かれています。その庭には、外部から何も入り込んできません。土壌はメルクリウス(水星・水銀)を浄化したものからできており、幹は土星・木星・火星・金星から成ります(あるいは4本の幹からなる)[02-04]。太陽と月から種子が蒔かれます。惑星名はそれぞれに対応する金属を表してもいますが、グレウェルスのコメントから彼が何を意図していたのか分かります。「普通の黄金や水銀、銀など、普通のものはこの作業では使われず、賢者の[金属]しか用いられない」[02-05]。それゆえ、作業の材料はなにかに限られるようなものではありません。表向きは化学物質で言い表されていますが、この材料は想像上のものです。惑星名は金属に関連しているだけではなく、錬金術師なら誰でも知っていたように(占星学でいう)気質、つまり心的要因にも関連しています。それぞれの気質は本能的な傾性を内に秘め、ファンタジーと欲望をもたらし、自らの性格を顕わにします。たとえば、貪欲さ(Avarice)は高貴な御業(みわざ)の本来的な動機とされてますが、それを呼ぶのに「俗ならざる黄金(aurumnon vulgi)」という用語が使われています。このことから動機づけが変化することが、目標を別の水準へ移し換えることとどう違うか分かります。論文の最後にある寓話で、老賢者が術士に次のように言っています。「息子よ、世俗的な欲望の誘惑をわきへ置きなさい」[02-06]。書かれた手順が普通の黄金を精製する目的だけしかないことが明らかな場合で[02-07]さえ、オプスの心理学的な意味は、著者の意識的な態度がどうであれ、その象徴的な術語に現われます。しかしグレウェルスの論文でこの段階は克服されており、オプスの目標が「この世のものでない」ことを率直に認めています。『我々の作業の普遍的プロセス』という論文の結びで[02-09]、彼は次のように明言します。「神の贈り物であり、聖なる三位一体の分裂していない単一性の秘密を含んでいる。おお! 最も優れた科学、自然全体とその解剖、この世の占星学[02-08]、神が全能である証、死者の復活の証明、罪の赦しの実例、来る審判の確実な証拠と永遠の幸福を映し出すものよ」[02-09]

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 この聖歌のような賛美を読む現代の読者は、大げさで調子はずれに感じずにはおれません。たとえば錬金術の科学がいかに聖なる三位一体を含みうるのかとか、想像することができないからです。こんなふうに熱心に宗教的神秘と比較することは、中世でも既に気分を害する人たちがいました[02-10]。そうした比較は珍しいことではなく、17世紀にいくらかの論文のライトモチーフになってさえいますが、すでに13世紀か14世紀に始まっていたわけです。それらは必ずしも、見せかけだけの神秘化とは限らないと私は思います。著者らは心に何か確信するものがあったのでしょう。彼らは、明らかに練金術的プロセスと宗教的観念との類似をわかっていました。その類似は、現代人にはなかなか気づけないものです。かけ離れた二つの思想領域の間に架け橋を築くには、両者に共通する要素を考慮に入れねばなりません。その比較のための第三項(tertium comparationis)は心理学的な要素です。錬金術師は、化学物質についての自分の観念がファンタジーであるという非難に対して、もちろん憤然として自分の立場を守ったでしょう。いまだに、自分の述べたことが神人同形同性論以上のものに相当すると考えている、今日の形而上学者と同じことです。また、錬金術師は実体自体と(彼が抱いている)実体概念との区別が出来ませんでした。これも現代の形而上学者が、自分の考えが形而上学的対象に対して確かな表現を与えると信じているのと同じことでしょう。錬金術師も形而上学者も、対象に関して際だって多様な観点を持つことは、初期の頃にはまだなかっただろうと思います。でも形而上学者(特に神学者)とは違い、錬金術師は論争することを好みませんでした。せいぜい、自分たちに理解できない著作物の曖昧さを嘆いたくらいでした。

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 どちらの場合でも、私たちの第一の関心がファンタジーによって生み出された観念にあることは、道理をわきまえた人なら誰にとっても明らかなことです。知られていない対象は存在しない、などと言うべきではありません。その観念が何を指し示していようとも、観念というものはいつも同じ心的法則、すなわち元型によって組織されています。錬金術師が自分たちの観念と宗教的な観念との間にある類似性を主張するとき、彼らは自分たちのやり方でこれを理解しました。グレウェルスは、統合プロセスと三位一体とを比較しました。この場合、共通の元型は「三」という数です。パラケルスス派としてグレウェルスは、硫黄・塩・水銀という「パラケルススの三つ組」に熟知していたに違いありません。硫黄は太陽に属するか、それを象徴しています。塩は月と同様の関係にあります。しかしながら、彼はこの統合については何も言っていません[02-11]。太陽と月は地上(=メルクリウス)に種子を蒔き、そして、おそらく他の四惑星は樹の幹を形づくります。一つに結合される四惑星は、ギリシアの錬金術の四元素論に関係しています。それぞれの惑星が鉛・錫・鉄・銅を表します[02-12]。ゆえに、ヘノシス(統一もしくは統合)のプロセスにおいてグレウェルスが心に抱いていたものは、パラケルススの三基本物質ではありません。ミハエル・マイエルが正しく理解しているように[02-13]、古代の四元素、つまりグレウェルスが彼の論説の最後に「三位一体への人間の結合」と比較しているものなのです。彼にとっては、太陽・月・水星という三つ組は、それが樹の種子と種子がまかれた大地とを示す限りにおいて出発点であり、いわば第一物質なのです。これが、いわゆる coniunctio triptativa〔三重の結合〕です。しかし彼は、coniunctio tetrativa〔四重の結合〕[02-14]に関心があります。その結合によって、四つのものが「人間の結合」として結びつけられるのです。これが三と四のジレンマの特徴的な例であり、預言者マリアの有名な公理として錬金術において大きな役割を果たしています[02-15]


3.四者体

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 四者体の目的は、一つにすべき四つ組の対立物を還元(または統合)することです。惑星自体は二組のペアからなります。善意のペア(ジュピターとヴィーナス)と悪意のペア(サトゥルヌスとマルス)。このようなペアは、しばしば錬金術の四つ組を構成します[03-01]。ゾーシモスは元素の調合に必要となる変容プロセスについて、次のように記述しています。

二つの身体から成る土と、それに注ぐための二つの性質から成る水が必要なり。水が土と混ぜられしとき……太陽がこの粘土に作用し、それを石に変ずるなり。石は焼かれ燃ゆることで、石の秘密、つまり霊を明らかにせん。それこそ、賢者が探し求めてきた媒染剤[03-02]なり。[03-03]

 文書が示すように、二重のペアを一つにすることで統合がなされます。別の元型的形態においても、これと同じ観念がはっきりと表れています。それは王族の結婚構造のことで、交叉いとこ婚の構造をしています[03-04]

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 通常、ラピスは要素の四つ組から、あるいは特質(冷たい/暖かい、湿った/乾いた)を加えた要素の八つ組から合成されます。同様にメルクリウスは、古くから「四つなるもの(クアドラトゥス)」として知られる神秘体で、その変容を通しラピス、もしくはオプスの目的物が作られます。例えば、アストラムプシコスの愛の魔法のなかで、ヘルメスへの祈りでは次のように言われます。

汝の名は……天界の四隅にあり。我は汝の姿を知れり。東ではトキの姿を、西では犬頭のヒヒの姿を、北ではヘビの姿を、南ではオオカミの姿をしませり。汝の植物はブドウなり[03-05]、オリーブなり[03-06]。我は汝の樹も知れり。それは黒檀なり。云々[03-07]

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 四重のメルクリウスは、樹または樹の spiritus vegetativus〔生きている精霊〕でもあります。ヘレニズムのヘルメスは(先に述べた特性が示しているように)すべてを包含する神であり、ヘルメス・トリスメギストスという錬金術の第一人者でもあります。エジプトのヘレニズムでヘルメスに4つの姿があるのは、明らかにホルスの4人の息子に由来しています。4つの顔をもつ神は、第4、第5王朝のピラミッド文書の昔から言及されてきました[03-08]。それらの顔は、天界の四方角と関係があります。すなわち、神がすべてを見ておられることを示しています。バッジは『エジプトの死者の書』第112章において、同じ神が4つの頭を持つメンデスの雄羊として現れていると指摘しています[03-09]。もともとホルスは天界の顔を代表し、顔に長い髪をたらしていて、その髪の房は、大気の神シュの4つの柱と関連づけられていました。シュは、四隅のある天空のプレートを支えていました。後に4つの柱は、古い神々と入れ代わったホルスの4人の息子たちと関連づけられるようになりました。ハピは北に、トゥアムテフは東に、イムセティは南に、ケブフセヌエフは西に対応していました。彼らは死者の祭儀において大きな役割を果たし、冥界での死者の生活を見守っています。ホルスの二つの腕はハピとトゥアムテフに相当し、彼の二つの脚はイムセティとケブフテヌエフに相当していました。『死者の書』の文言によると、エジプトの四つ組は、二組のペアから成っていたようです。「その時ホルスはレー(太陽神ラー)に言った。私にペー(Pe)の都市の2人の神の同胞と、ネクヘン(Nekhen)の都市の2人の神の同胞をください。その同胞は私の身体から(生まれました)」[03-10]とあります。実際、四つ組は死者のための儀礼におけるライトモチーフです。4人の男が4つのカノプスの壺を持ち棺を運び、4匹の生け贄の動物がいます。すべての道具と容器は4つずつ用意され、定式文と祈りは4回繰り返されます云々[03-11]。四つ組が死者にとって特に重要であったのは、このことから明らかです。つまり、ホルスの4人の息子には、死者の身体の4つの部分(すなわち全体性)を維持する責任がありました。ホルスは母親のイシスとの間に息子たちをもうけました。近親相姦のモティーフはキリスト教の伝統にも流れており、中世末期の錬金術に広がりましたが、このように遠く古代エジプトからはじまっています。ホルスの4人の息子たちは、しばしば彼らの祖父オシリスの前にある蓮の上に立っている姿で描かれています。メスタ[03-12]は人間の頭をしており、ハピはサルの頭、トゥアムテフはジャッカルの頭、ケブフセヌエフはタカの頭をしています。

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 エゼキエル書(第1章、第10章)の幻視とのアナロジーは一目瞭然です。そこでは4人のケルビムが「人間との類似点」を持っています。それぞれのケルビムは4つの顔、人の顔・ライオンの顔・牛の顔・ワシの顔を持っていました。そのため、ホルスの4人の息子のように、4分の1が人間で4分の3が動物です。アストラムプシコスの愛の魔法では、4つの姿すべてが動物です。おそらくは呪文の魔術的意味のためです[03-13]

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4の倍数に対するエジプト的偏愛を残していて、エゼキエル書の幻視には4×4の顔があります[03-14]。さらに、各々のケルビムには車輪が付いてます。後の注釈においては、4つの車輪はメルカヴァ(戦車)として解釈されました[03-15]。シュの4本の柱や、天空の床を支える四方の神々としてのホルスの4人の息子たちと対応して、ケルビムの「頭上四方に広がっている恐ろしい水晶の色のような天空」がありました。その天空の上には一つの王座があり、そこに「人間の似姿」が座っています。これはオシリスの対応物で、オシリスもまた老ホルスとセトの助けで天に昇っています。

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 ケルビムの4つの翼は、翼をもつ女性の精霊がファラオの棺を守っているのを思い出させます。ホルスの息子たちにもそれぞれ、これと同じ保護機能を担う女性パートナーがいました。ケルビムも、エゼキエル書28章14行と16行から明らかなように[03-16]、保護する精霊でした。四つ組の魔除けの意義は、エゼキエル書9章4行によって確証されます。そのなかで預言者は神の命令で、罰から守るために正義の人の額に十字を書きます[03-17]。それは明らかに、四つ組の属性を持つ神のサインです。十字は、神により保護された者(proteges)の印です。神の属性として、また神本来のシンボルとしても、四つ組と十字は全体性を意味します。それゆえ、ノーラのパウリヌスは言います。

 十字架の4本の枝に引き伸ばされ、彼は世界の四方へ手を伸ばす。彼は人々をあらゆる土地から救いへと引き寄せる。十字架の死によって、われらの神キリスト自身は、あらゆる事をすべての人に示した。存在者に命が吹き込まれ、邪悪なものは滅ぼされることを示した。AとΩは十字架の横脇に立ち、三拍子にあわせ三重の異なる姿を示す。三重のやり方でひとつの意味が完成する[03-18]

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 無意識の自律的なシンボルのうち、四つ組である十字は自己、すなわち人間の全体性を表します[03-19]。従って、十字の記号は全体性、もしくは全体になるという癒しの効果のしるしです。

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 4匹の動物はダニエル書の幻視にも現れます。1匹めの動物はライオンに似ており「人のように二本の足で立ち、人の心がその動物に与えられ」ていました。2匹めは熊に、3匹めはヒョウに似ていました。4匹めの動物は、大きな「鉄の歯」と「十個の角」をもつ「怖くて恐ろしい」獣でした[03-20]。ライオンだけが特別扱いされているのは、テトラモルフの人間の姿をした部分を思い起こさせます。これらの4つの生き物はいずれも肉食獣か、心理学用語では、願望に屈し天使らしさを失った、最も悪い意味で魔物的な機能です。それらは、神の4人の天使の否定的で破壊的な側面を表しています。エノク書が示しているように、天使は神の中庭を形作っています。この退行は魔法(原注13参照)とは関係がなく、どちらかというと、人間あるいは力ある人物の魔物化を表現しています。ダニエルは、地中から現われる4人の王として4匹の獣を解釈しています(7章17)。解釈は次のように続きます。「しかし最も高潔な聖者たちが王国を治めるだろう。永久に王国を所有する。ずっと永久に」(7章18)。人の心をもつライオンのように、この驚くべき解釈は、四つ組の肯定的な側面に基礎を置いています。4人の守護天使が天国を統治し、地上の4人の王と聖者たちが王国を所有するときの、物事が祝福され保護された状態を示しています。しかし、この幸福な状態は、ほとんど消えかけています。なぜなら四つ組の4匹目の獣が怪物のような姿をしていて十個の角を持ち「他の王国とは異なり、地上全体を滅ぼすであろう地上の第四の王国」(7章23)を示すからです。言い換えれば、怪物のような強い力への欲望は、再び人間的な部分を無意識に帰するでしょう。これは、個人的にも集合的にも、残念ながら頻繁に観察される心理学的プロセスであり、人類の歴史で何度も繰り返されてきました。

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 ダニエル書とエノク書によって、 神の息子の四つ組は、かなり早期にキリスト教のイデオロギーに浸透しました。3つの共観福音書と聖ヨハネの福音書があります。この四福音書には、紋章としてケルビムのシンボルが割り当てられています。四福音書は、いわばキリストの王座の柱で、中世にテトラモルフはキリスト教徒を乗せる動物になりました。しかし特にそれは、四つ組を重んじたグノーシス派の考えでした。このテーマははるか遠くに及ぶので、ここでさらに厳密にそれを扱うことはできません。私はただキリスト=ロゴス=ヘルメスの同義性と[03-21]、ヴァレンティヌス派の「第二の四つ組」[03-22]でイエスから出てくるものに注目を促します。「我らが主は、御身の四重性のうちにテトラクテュス(四つ組)を保ちたまう。(1)アカモートに由り来る霊性、(2)世界創造者に由り来る魂、(3)えもいわれぬ御業で用意された身体、(4)神すなわち救世主。この四つより成りたまう」[03-23]

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 したがって、練金術の四元素と「一」への還元は、ピタゴラス派のテトラクテュスよりも古く、古代エジプトに遡る長い先史があります。こうしたすべてのことから、我々は4つに分割された完全性イメージの元型と直面するということを難なく気づくことができます。その結果として生じる概念は常に中心的な性質であり、神の姿を特徴づけ、錬金術の神秘体にそれらの性質を持ち込みます。

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 この元型の、ありうるかぎりの形而上学的な意味に思いを巡らすことは、経験主義的心理学の務めではありません。夢やファンタジーのような自律的な心的産物にも同じ元型が働き、原理的に同じ表象・意味・価値を自生的に繰り返し産み出すことを指摘するだけで充分です。以上のような夢イメージの系列を公平に研究すれば誰でも、私の結論を正当なものだと納得されるでしょう。


4.全体性のイメージ

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 ヘルメスの四つ組についての歴史はこれくらいにし、錬金術における全体性イメージへ戻りましょう。

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 秘儀(アルカナ)に最もよく登場し重要とされているものに、永遠の水(aqua permanens)があります。ギリシア語ではu{dwr qei:on。古代も後代も錬金術師たちは一致してこの水をメルクリウスの一側面とみなしており、ゾーシモスも、その断片「水について(peri; tou: qeivou u{datoV)」の中でこの神聖な水について述べています。

 此は捜し求められる偉大で神聖な神秘。其は全体(tou:to gavr ejsti to; pa:n)であるが故に。それより出ずるも全体、同じものに流るるも全体。二つの性質、一つの物質(oujsiva)。一(物質)が一を魅了し、一が一を支配する。此は銀の水。男性と女性、永遠に逃れるもの…。其は支配を拒むが故に。すべてのものの中の全体。生命と精神をもち、破壊的[ajnairetikovn]なり[04-01]

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 aqua permanens〔永遠の水〕の中心的な意味に関しては、私が前に書いた論文で言及しました[04-02]。「水」は、メルクリウスやラピス、賢者の息子(filius philosophorum)などがそうであるのとちょうど同じように、錬金術の秘儀です。水は完全性のイメージであり、上述のゾーシモスの引用が示すように、紀元三世紀のギリシア錬金術でもそう考えられていました。この文書を見れば、疑いようがありません。水は全体性なのです。それは「銀-水」(=hydrargyrum〔水銀〕)のことで、「u{dwr ajeikivnhton〔永遠に動く水〕)」ではありません。つまり、ラテン錬金術で「俗ならぬメルクリウス(Mercurius non vulgi)」とは区別された「血塗られたメルクリウス(Mercurius crudus)」のことで、それは普通の水銀を意味します。ゾーシモスによると、水銀はpneu:ma(精)です[04-03]

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 ゾーシモスのいう「全体」はミクロコスモ(小宇宙)のことであり、物質の持つとても小さな粒子にも宇宙は投影されているので、「全体」は生きているものにも生きてないものにも見いだされます。ミクロコスモはマクロコスモ(大宇宙)と同一性があるので、マクロコスモを引きつけ、一種の万物復興、つまり個々なるものを原初の全体性へ回帰させる救済をもたらします。マイスター・エックハルトの言うように「すべての穀物は小麦になり、すべての金属は黄金になる」。そして、小さな個人は、至高人(homo maximus)やアントロポスなどの「偉大な人間」になります。つまり自己となるのです。物質が黄金に変わることは、精神面でいうと「自己を知ること(self-knowledge)」であり、全き人(homo totus)[04-04]について再び思い出すことです。オリュンピオドロスは、ゾーシモスが妹テオセベイアに宛てた励ましの言葉を引用してます。

もしお前が自分の身体と冷静で控えめな関係を築けるなら、感情との関係も冷静になるだろう。そうすれば、自らの許に神を召喚することができよう。本当に、あらゆるところにおわす[04-05]神がお前のところにやってくる。お前が自分自身を知るときに、真に一なる神をも知るのである[04-06]

 ヒッポリュトスは、キリスト教の教義を説明するなかで、このことを支持しています。

しかし、汝は神と話し、キリストの後継者とならねばならない。…なぜなら、汝は神になるのだから[gevgonaV ga;r qeivoV]。人としてさまざまな苦痛を堪え忍び、汝は自らが人であることを思い知ってきた。だが、神が授けると約束されたものは、いかなるものであれ、神に属している。汝は聖なるもの(qeopoihqh/:V)として創られている。汝は不死なるものとして産まれている[gennhqeivV]。それが「汝自身を知れ」である。それは、汝を創りし神を知ることである。自分自身を知る人にとって、自分を召命した神のことを知るのは自然なのである[04-07]

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 ヨドクス・グレウェルスの論文に刺激されながら、樹に関する連想の下地をあらかじめ考えておくことは、錬金術における樹の意義について論議するために必要な前奏曲だと私は思います。練金術の意見や幻想の混乱に巻き込まれるのは仕方ないにしても、このように通観しておけば、読者が全体を見失わずに済むかもしれません。あいにく、私の解説ではたいして分かりやすくならないでしょう。他の研究分野から膨大な類例を持ち出すことになりますから。本当は、こうしたこと無しで済ませることはできません。錬金術師のものの見方は、他の思想領域の基礎にもなる無意識的な元型的思考様式に、大部分は由来しているからです。


5. 哲学の樹の本質と起源

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 私の書『心理学と錬金術』の中で、わたしは心的内容の投影(幻覚、幻視など)について章を割きました[05-01]。錬金術師たちが自生的にどんな樹のシンボルを産み出してきたかは、ここで詳しく述べるつもりはありません。術士はレトルトの中に枝や小枝を見つけ[05-02]、樹が伸び花が咲く[05-03]のを見たとだけ言っておきましょう。成長をじっと見つめるように、と彼らは指導されました。つまり、能動的想像でその成長を手助けしていたわけです。幻視は「求めねばならぬもの(res quaerenda)」でした[05-04]。樹は、塩と同じ「調合」を施されました[05-05]。樹が水の中で生長するにつれ、樹を腐敗させたり「焼いたり」水で「冷やしたり」しました[05-07]。その樹は、オーク[05-04]やブドウ[05-08]、ギンバイカ[05-09]と呼ばれました。イブン・ハヤンはギンバイカについて次のようにいいます。「ギンバイカは葉であり枝である。それは根でもあるが、根ではない。根と枝の両方を兼ねる。根かどうかは、もし葉や果実と反対方向に伸びていれば、疑いもなく根と言える。幹とは別に生え、深い根の部分を成している」。ギンバイカについて彼は「預言者マリアは金色の環と名付け[05-10]、デモクリトスは緑色の鳥と呼んだ。…緑色をし、ギンバイカに似ているため、そう呼ばれてきた。熱しようが冷やそうが、長い間緑色を保ち続けるからである」と述べています[05-11]。さらに、その樹には七本の枝が生えています[05-12]

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 ゲルハルト・ドルンは樹について次のように言っています。

 自然は、自分の子宮の真ん中に金属の樹の根を植える。自然の真ん中には石が1つあり、そこから金属・宝石・塩・ミョウバン・硫酸・塩気のある泉・甘い泉・冷たい泉・暖かい泉・サンゴの樹・白鉄鉱(Marcasita)[05-13]などが産み出される。金属の樹は植えられると、幹から枝が生えだしてくる。枝の中身は液体であるが、水とか油、粘土[05-14]、粘液といった類ではない。かといって、土に生える樹とは別のものと考えるべきではない(土から生える樹であっても、その中身が土で出来ているわけではない)。枝の広がり方は、1つの枝から別の枝が生え出てくるだけで2、3の村々をまたがってしまう。ドイツから生えた枝がハンガリーあたりか、それを越えるくらいに伸びている。樹々から伸び出た枝は地球全体を覆い、まるで人体を流れる血管が互いに分れ手足へと伸びていくように広がっている。

 この樹の実は落ち、樹自体は枯れ、地上から消滅します。「その後、自然の条件が整えば、別の新しい樹が生えてくる」[05-15]

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 この著書でドルンは、哲学の樹の成長・伸張・ 死・再生を印象的に描いています。枝は、大地を貫流する血管です。地表の最も遠い地点にまで広がってますが、明らかにどの枝も一本の再生する巨木から生え出ています。樹は、血管システムとして考えられています。樹は血のような液体から成っており、それが表に出てくると果実として固まります[05-16]。不思議なことに、古代ペルシアの伝統で金属はガヨマートの血液と結びつけて考えらています。彼の血液が地中に染み込んで、7種類の金属となりました。

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 ドルンは、樹について述べているところで短い言葉を付け加えています。私はそれを読者に伝えておきたいと思います。この言葉は、錬金術的思考の古典的様式に重要な洞察を与えてくれます。彼は言います。

こうしたものは、真の物理学と真の哲学の源泉から生まれ出ずる。つまり、驚くべき神の御業を観想することで、肉眼に光が見えるのと同じように、賢者の霊眼に、至高の創造主とその力とについての真の知識が姿を現し始める。隠されたものは、その眼により明らかにされる。しかし、この真の智慧を扱う哲学の分野に、ギリシアのサタンが毒麦[05-17]や不実の種を植え付けた。すなわち、アリストテレスやアルベルトゥス、アヴィセンナ[05-18]、ラゼス[05-19]など、そうした連中をはびこらせたのだ。彼らは神の光と自然の光に敵意を持っていた。ソフィアをフィロソフィアなどと呼び換え、形而下的真実の全体をねじ曲げてしまった[05-20]

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 ドルンはプラトン主義者なので、アリストテレスに対しては真っ向から反対の立場であり、科学的経験主義に異議を唱えていたのは明らかです。彼の態度は、ジョン・ケプラー[05-21]に関しても、本質的にロバート・フラッドと同じでした。基本的にそれは昔ながらの普遍論争であり、実体論と唯名論の対立です。現代の科学時代では唯名論側が支持され決着がついていますが。科学的態度は注意深い経験主義を基礎にし、自然を説明するのに自然自身の言葉を使います。それに対しヘルメス哲学は自らの目標のために説明を求め、自然を全体的に記述することを通して魂を描き出そうとしました。経験主義者は元型的解釈上の原理、すなわち、認識プロセスの必須条件である心的前提(psychic premises)を忘れようとするか、あるいは「科学的客観性」のために抑圧しようとします(うまくいく場合も、そうでない場合もありますが)。ヘルメス賢者は、心的前提である元型を、経験的な世界像に欠く事のできない構成要素と見なしました。物体に支配されることがなかったので、心的前提が永遠のイデアの姿で存在していることを無視しませんでした。その姿をリアルに感じることができたのです。他方で、経験主義的唯名論者はすでに、魂に対しても近代的な態度とっていました。魂は「主観的なもの」として排除されなければならない。心的内容は、後天的に組織化された観念、ただの「音声の息(flatus vocis)」だ。−そういう態度です。唯名論者は、観察者から完全に独立した世界像を作りあげようとしました。この望みは、近代物理学の発見で、少しは叶えられたようです。でも、観察者を最終的に排除することはできません。心的前提は相変わらず影響力を持っています。

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 ドルンの書いていることから、どのように気管支の分枝・血管・鉱脈から成る元型的な樹が経験的世界に投影されるか、どのように有機的無機的な自然全体と「霊的な」世界をも含む全体像を見渡すかが見えてきます。自分の立場に狂信的に固執していたところを見ると、ドルンは内なる疑念に悩まされ、その闘いに負けてしまったと思われます。彼もフラッドも、事態の進行を食い止めることはできませんでした。こうしたことは現代でもあって、(いわゆる)客観性の代弁者たちが、心的前提の必然性を指し示す心理学に対し、似たような感情を爆発させ、自らを弁護しています。

forward.gif6.ドルンの樹の解釈
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