1.元型的イメージとしての樹
C・G・ユング
「錬金術研究」V
哲学の樹
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6.ドルンの樹の解釈
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ドルンは、彼の論文『金属変換のパラケルスス的化学文集(Congeries Paracelsicae chemicae de transmutatione metallorum)』の中で、次のように書いています[06-01]。
ただ似ているだけで実体がないという理由で、哲学者たちは自分たちの物質(material)を7本の枝を持つ黄金の樹になぞらえる。その種の中に7つの金属を含み、これらがその中に隠されていると考えているからである。そういう理由で、かれらはそれを命あるものと呼んでいる。さらに、あたかも自然の樹が季節に応じて花を咲かせるように、石の物質が最も美しい色彩を出現させる[06-02]のは、その花を開くときである[06-03]。同様に、彼らの樹の果実が天に至るまで奮闘するのは、哲学の大地からある実体が、忌まわしい海綿の枝のように[06-04]伸びるからだといわれている。御業が関わるのは「万象の命あるもの(vegetabilibus naturae)」に関してであり、「物体(matter)の命あるもの」ではないと哲学者は考えた。哲学者の石も、命あるものと同じように、その内に魂・身体・精神を含んでいる。あまりかけ離れていない喩えとして、哲学者はこの物質を処女の母乳と呼び、祝福された薔薇色の血と呼んだ。その物質は、預言者と神の子にのみ属す。それでソフィストたちは、その哲学の物質が動物か人間の血で出来ていると思いこんでしまった。
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そしてドルンは「浅はかな馬鹿ども(frivolous triflers)」が取り扱った物質を列挙しています。尿やミルク、卵、髪の毛、その他いろいろな塩や金属の名前が挙がっています。「ソフィストたち」はシンボルの名前を文字通りに受け取って、不適切な材料から哲学者の石を作ろうとしました。明らかに彼らはその時代の化学者です。シンボルを実体的なものとする誤解の結果、普通の物質を使って作業していました。哲学者たちが、
自分たちの石を命あるもの(animate)と呼んだ所以は、オプスの最後には、もっとも高貴な火の持つ神秘の力により、血のように赤黒い液体が材料と容器からぽつりぽつりと湧き出してくるからだ。それで彼らは最後の日をイメージし、世界を解放する無垢なる人[06-05]が地上に降りてきて、薔薇色か赤色の血の滴を垂らすと予言した。それによって世界は没落から救われる。哲学者の石の血もまた、癩病にかかった金属[06-06]と人間をその病から解放する[06-07]。哲学者の石に生命がある(animalem)と言われるのも、むべなるかな。メルクリウスはカリド王に「この神秘を知ることは、神の預言者だけに許される」と語った[06-08]。それで、石は命あるものと呼ばれる。石の血には、魂が潜んでいる。石には、身体・精神・魂がある。石にはこの世のすべての相似物が含まれるから、哲学者たちは石を自分たちのミクロコスモと呼んできた。故にプラトンがマクロコスモを生命あるものと呼んだように、彼らもまたは石を生命あるものだと言っている。しかし、今や無知な人たちがやってきた。石が三重構造をしていて、三つの種族(ジャンル)、すなわち植物・動物・鉱物のなかに隠されていると信じ込んでいる[06-09]。彼らは、自分たちで鉱物の中にその石を探し出そうとしてきた。でも、この考えは哲学者の意見から懸け離れている。哲学者は、哲学者の石それ自体が植物・動物・鉱物であると述べている。
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この注目すべき文書は、樹を神秘体のメタファーとして、その物質の法則に従い生じてきて、植物のように成長し、花を咲かせて実を結ぶ、命あるものとして説明しています。その植物は海綿体にたとえられています。それは海の深いところで生育し、マンドラゴラと似ているようです(n.4)。そして、ドルンは「万象の命あるもの」と物体の命あるものとを区別します。物体の命あるもののほうは、明らかに具体的で物質的な有機体を意味しています。しかし「万象の命あるもの」とは何か、明らかではありません。引っ張ると血を流す海綿体や甲高い声を出すマンドラゴラは「物体の命あるもの(vegetabilia materiae)」でもなければ、少なくともわれわれが知っているような自然界で見つけられるものでもありません。ドルンが理解したような、さらに包括的なプラトン的自然の中に、それらは棲息しています。つまりその自然とは心的な「生命界(animalia)」、神話素や元型を含む森羅万象のことです。マンドラゴラとかの生き物はそういうことです。どれくらい具体的にドルンが思い浮かべていたかは議論の余地がありますが、少なくとも「石ではない石、あるいは石の性質のない石」(n.9)はこのカテゴリーに入るでしょう。
7.薔薇色の血と薔薇
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神秘的な薔薇色の血は、他の著書にも現れています。例えばクーンラートの本では「鉛の山から誘い出されたライオン」が薔薇色の血をしています[07-01]。「すべてのものとすべてを征服すること」を示すこのライオンは、ゾーシモスの「全体性(πανやπαντα)」に相当するものです。クーンラートは話を進めます(P.276)。
豪奢でカトリック的な薔薇色の血と耽美な水。それは、生まれながら大世界の息子たる御方の脇腹を御業により開けたてまつりて、アゾート的に[07-02]溢れ出したるもの。それのみが植物・動物・鉱物から不純物を取り除き、自然に従い御業の力で、もっとも高度な自然的完成へと導く。
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『哲学者の育成器(Aquarium sapientum)』に出てくる 「大世界の息子」(filius macrocosmi, ラピス)は、キリストと関連しています[07-03]。キリストはfilius microcosmi〔小宇宙の息子〕で、彼の血液は第五元素であり、赤いティンクチュアです。
(これは)二重性をもつ真実本物のメルクリウスか、もしくは二面的実体を持つ巨人族[07-04]であって二面的実体を持つ[07-05]。生まれついての神・人・英雄など、自らのうちにこの世のものでない聖霊をもち、その聖霊ですべてのものを活気づかせる者は…あらゆる不完全な身体と人とを癒すただ一人の完全な癒し手であり、真実天来の魂の救済者であり…三位一体の普遍なる本質[07-06]であって、エホバと呼ばれる[07-07]。
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錬金術師のこうした賛辞は、悪趣味の例として遺憾に思われたり、とりとめのないファンタジーとして嘲笑されてきました。でも私から見れば、それだと公正さを欠きます。彼らは敬虔な人たちで、それが錬金術師でした。私たちの偏見を消すことがいかに難しかろうとも、真剣に受けとめさえすれば、彼らを理解することができます。彼らは、哲学者の石を世界の救世主に高めようとしているわけではありません。彼らがたくさんの既知と未知の神話をその石の中に故意に持ち込んでいるのは、私たちが夢の中でしているのと同じようなことなのです。彼らは「四元素で構成され、対立物を結合させることができる身体」という観念にこれらの性質を見出したにすぎません。非常に印象的な夢を見たあと、まさにその夢にぴったりな未知の神話と出くわした場合とちょうど同じように、彼らはこの発見に大変驚きました。本当に作り出せると信じていた石や赤いティンクチュアに、そうした物質の観念の中に発見したすべての性質が与えられても、さほど不思議ではありません。このことが分かれば、錬金術の思考プロセスに特徴的な言い回しを理解するのは簡単になります。上の『哲学者の育成器』からの引用と同じページには以下のようにあります。
げに、この地上なる石・哲学者の石はその材料ともども多くの名で呼ばれ、千の名を持つと言われ、不可思議なるものと呼ばるる。だがそれらの名や称号を使うにふさわしく、また真に高次のレベルとなるのは、<全能の神>と<:至高善>に対してなり。
私たちは偏見を込めて「神の属性を石に投影しただけ」とすぐ考えてしまいますが、この著者には思いも及ばなかったようです。
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錬金術師にとって石は、明らかに原始的な宗教体験にほかならず、善良なキリスト教徒としての信仰とその体験との折り合いをつけねばなりませんでした。そのため、ミクロコスモの息子としてのキリストと、マクロコスモの息子としての哲学者の石との間に、曖昧な同一性や類似性があったり、一方がもう一方の代わりに使われたりするのです。
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ラピスとキリストとの類似(parallel)は、おそらく薔薇の奥義が錬金術に取り込まれる架け橋となりました。なによりまず、錬金術の本のタイトルに「薔薇園(Rosarium)」や「薔薇の庭師(Rosarius)」が使われ出したことから明らかです。最初の『薔薇園』は1550年が初版で、大部分をヴィラノヴァのアルナルドゥスが書いたとされています。それはまだ、歴史的な構成要素が整理されていない寄せ集めの論文でした。アルナルドゥスは13世紀後半に生きていた人です。彼は『立像のある薔薇園(Rosarium cum figuris)』も書いたと信じられていて、その本では薔薇が王と王妃の関係を表すシンボルとして使われています。詳しくは私の著書『転移の心理学』をご覧ください。薔薇園のイラストをいくつか載せています。
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マクデブルクのメヒティルトも薔薇を同じ意味に使っています。主は彼女に「私の心に目を向け、そして見よ!」と言いました。とても美しい薔薇が5つの花弁をつけ、キリストの胸全体を覆っていました。彼は言いました。「私の五感を讃えよ。この薔薇こそ、その五感を示すものなり」。後で触れるように、五感とは、キリストの愛を人へと伝える媒体なのです(例えば「嗅覚を通し、彼はいつも確かな愛を人に向けている」)[07-08]。
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hortus aromatum〔香辛料の園〕[07-09]・hortus conclusus〔閉じられた園〕[07-10]・rosa mystica〔神秘の薔薇〕[07-11]のように、霊的な意味の薔薇は聖母マリアのアレゴリーとして使われますが、世俗的な意味だと薔薇は最愛の人を指し、詩人の薔薇とか、当時の言い回しだと愛の信者(fedeli d'amore)とか呼ばれました。聖母マリアのほうは、聖ベルナール[07-12]がmedium terrace(地球の中心)に喩え、ラバヌス・マウルス[07-13]が「都市」に、アドモントの修道院長ゴドフリーが「要塞」[07-14]や「神聖な智慧の家」[07-15]、リレのアランがacies castrotum(旗下の軍隊)[07-16]に喩えています。薔薇がマンダラを意味することもありますが、それは明らかにダンテの『神曲』「天国編」に出てくる天国の薔薇に由来しているのでしょう。インドの蓮のように、薔薇は女性的なものです。メヒティルトの薔薇は、彼女自身の女性的なエロスをキリストに投影したものに違いありません[07-17]。
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練金術的な贖い主[07-18]に流れる薔薇色の血は、錬金術を貫く薔薇神秘主義から流れ出ているかのようです。その血が赤いティンクチュアになると、癒しをもたらしたり、ある種のエロスを醸し出す効果があったりします。このシンボルの奇妙な具象性は、心理学概念を全く使わずに説明されます。ドルンは薔薇色の血を「万象の命あるもの」、普通の血を「物体の命あるもの」と理解するよう求めています。彼が言うには、石の魂はその血の中にあります。石はhomo totus〔全き人〕[07-19]を表すので、神秘体や血の汗とは何かを論じるとき、「最も無垢なる人(putissimus homo)」について話すのはドルンにとって当然のことです。「最も無垢なる人」こそ秘儀であり、石なのです。ゲッセマネの園[07-20]のキリストは、その類似物か予兆に過ぎません。純銀(argentum putum)が混じりけない銀であるように、この「最も純粋なる人」や「最も真なる人」とは、自分自身であるところの人なのです。彼は完全な人でなければなりません。人間的なことすべてを知り、すべてを持つ者です。持たざる者からの影響や混ぜ物によって穢されたりはしません。そして「最後の日」にだけ地上に現われます。彼はキリストではありません。キリストはすでに自らの血により世界を贖い、堕落の顛末から救ったからです[07-21]。キリストは「最も純なる人(purissimus homo)」かもしれませんが、「最も無垢なる人(putissimus)」ではありません。キリストは、人でありながら神でもあります。純銀ではなく黄金です。だから「無垢なる(putus)」とは言えません。未来のキリストとかミクロコスモの救い主(salvator microcosmi)は問題ではありません。むしろ錬金術的な「コスモの保護者(servator cosmi)」のほうが関心事です。キリストの命を懸けた犠牲によってもまだ達成できていないこと。つまり、世界を悪から解放すること。それを成し遂げうる完全な人という、まだ意識化されていないイデアが大切なのです。キリストのように、彼もまた贖いの血の汗を流しますが、その血は「万象の命あるもの」であり「薔薇色」をしています。それは自然な血や普通の血ではなく、象徴的な血であり、心的な実体なのです。その血は、薔薇の印のもとに個なるものも多なるものも一つに集め、みなを全体なるものにする愛(エロス)の現れであり、それ故、万能薬や解毒剤になるのです。
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16世紀後半に薔薇十字団の運動が始まりましたが、そのモットー である「十字架を経て薔薇へ向かえ(per crucem ad rosam)」は、すでに錬金術師によって先取りされていました。ゲーテは『神秘について(Die Geheimnisse)』という詩で、うまくこの愛(エロス)のムードを描き出しています。キリスト教の慈愛という観念も、様々な情緒的ニュアンスを伴いながら登場してきましたが、そうした運動は常にそれに対応するなんらかの社会的欠陥を示唆しています[07-22]。運動は、その社会的欠陥を補おうと努めているのです。歴史的な観点にたつと、古代の世界ではこの欠陥が何だったのかを充分明確に理解することが出来ます。中世もなお、残酷であてにならない法律と封建的な身分制のせいで、人間の権利と尊厳は哀れな状態にありました。こうした状況だからキリスト教的な愛が的を射ていたと考える方もいらっしゃるかもしれません。しかし、もしその愛が盲目的で洞察のないものだったら、どうでしょうか。迷える子羊を霊的な安楽へ導きたいという願いなら、トルクェマダのような悪僧にもありました。愛だけでは役に立ちません。悟性を持たねばならないのです。悟性を適切に働かせるためには、意識を広げ、より遠くを見渡すために視点を高めることが必要です。キリスト教は歴史的な力として、隣人を愛するよう諭し続けただけでなく、見過ごすことのできない高度な文化的事業も行ってきました。意識と責任感を高めるように人を教育してきました。確かにそれには愛も必要ですが、その愛は洞察や悟性に結びついてなければなりません。そうすることで、まだ暗い領域に光がもたらされ、その領域が意識されるようになります。それは外の世界の話でもあれば、内にある領域、魂という内的世界の話でもあります。盲目的であればあるほど、愛は本能的になり、破壊的な結果をもたらします。愛とは、形と方向を与えねばならないダイナミズムなのです。だから、それを補償する理性(ロゴス)が暗闇に輝く光として、愛に結びつけられてきました。もし自分自身について無意識的であれば、盲目的で本能的な振る舞いをしてしまいます。そして自分のうちにあるものを意識化していないため、それらが全て隣人に投影され、外界から自分へと押し寄せてきます。そのとき生じる錯覚に欺かれてしまうのです。
8.練金術の心
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錬金術師たちは、この心の状態にうすうす感づいていたように思えます。少なくとも、それは彼らのオプスに含められていました。既に14世紀の錬金術師たちは、自分たちの捜し求めていることがあらゆる種類の神秘的な物質・治療法・毒物だけでなく、植物や動物などのさまざまな生命、さらには神話上の不思議な人物・ドワーフ・大地霊・金属霊、さらに神人のようなものにさえ関わっていることに気づいていました。14世紀前半にフェラーラのペトルス・ボヌスは、ある手紙の中でラゼスが次のように言ったと書いています。
この赤い石を用いて、哲学者は自らを他の全ての上に高め、 未来を予言した。彼らは一般のことだけではなく個々のことも予言した。そして彼らは、審判の日と世界の終わりが来ることを知っていた。それぞれの魂が昔住んでいた肉体と結びつき、永遠にその肉体から切り離されることのなくなる、死の復活を知っていた。栄光を受けた肉体は変化し、腐敗しなくなり、光輝き、信じがたい精妙さ(subtlety)を得る。そして、あらゆる固体[08-01]を通り抜けることが出来る。なぜなら、その性質は肉体でありながら、精霊の性質も持つからである。…水に浸して幾晩も放置しておくと、死んだ人間のようになる。それから火にあぶると魂が引き抜かれ、幾晩も放置しておくと、やがて墓の中の人間のように塵となり崩れる。こうしたことが起こると、神は魂と肉体に精霊を返し、不完全さを取り去るだろう。そのものはより強く、より良くなる。復活後は、その人が現世にあったよりも、さらに強く若くなる。…このように、哲学者は御業の中に最後の審判を見ていた。すなわち、合理的というよりも奇跡的であるこの石の受胎と誕生を認めていた。その日、祝福されるべき魂は、霊の媒介によって元の肉体と結び付けられ、永久の栄光へと進む。…この御業の老哲学者は、処女が妊娠し子を産むことを知っていたし、そう主張した。御業においては、石が自らを受胎し、妊娠し、出産するからである。…彼らは奇跡的な考え、つまり石の妊娠・誕生・育成を見ていたので、次のように結論を下した。処女である女性が男性なしに受胎し、奇跡の子を産み、そして依然として処女のままであるだろう、と。…アルフィディウスが言うように、この石は道に撒かれ、雲へ引き上げられ、空中に漂い、川の流れに育ち、山の頂に休らっている。その母は処女であり、その父はどんな女性も知らない。…この御業の最後の日に神が人となることも哲学者は知っていた。このオプスが成就するとき、生むものと生まれるものは一つとなり、老人と少年、父親と息子が一つとなり、かくして全ての古きものが新しくなる[08-02]。神はこの哲学者の石を哲学者と預言者にゆだね、彼らの魂のために天国の住まいを用意している[08-03]。
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この文書はとてもわかりやすいので、錬金術のオプスの1つ1つが、贖い主の受胎と誕生、復活の聖なる神話に関与していることにペトルス・ボヌスは気づきました。御業の古き権威者であるヘルメス・トリスメギトスやモーゼ、プラトンらは昔からプロセス全体を知っていたし、キリストの救済がおとずれることも予想していたに違いないと彼は確信しました。実は話が逆で、錬金術師が教会の伝統に誘い込まれたため、オプスが聖なる伝承に近づいていったのだとは、彼は思いも寄りませんでした。彼の無意識さ加減は驚くほかありません。教訓的です。この並はずれた盲目さは、その背後に相応の強力な動因があることを示しています。ボヌスだけがこんな説を唱えたわけではありませんが、最初に思いついたのは彼で、その後300年間ますます広まりましたし、非難も受けました。ボヌスは博学なスコラ哲学者です。宗教的信仰を差し引いたとしても、知性的には恵まれていて、自分の誤りに気づくことはできたはずです。しかし彼がこの見解に駆り立てられたのは、教会の伝統よりも古い源泉に引きずり込まれていたためでした。オプスで起こる科学的変化について黙考するとき、彼の心は元型的で神話学的な対応物と解釈でおおわれました。それは、古き異教の錬金術師にも起こりましたし、今日でも無意識の産物の観察と研究に自由に想像を巡らすときに起こります。このような状態になると、思考は形を取り始め、神話学的モチーフとの類似を発見することができます。キリスト教のモチーフも含まれます。おそらく誰もが一見して確信するような、類似と相似。したがって、化学物質の本質については何も知らない年老いた術士にこそ、次々と難局が押し寄せてきました。いやおうなしに彼らは、彼らの心にある空虚な暗闇の中に押し寄せる神秘的な考えの圧倒的な力に服従しなければなりませんでした。これらの深層から、光はプロセスの性質と目標にむけて徐々に現れ出しました。彼らは物質の法則を知らなかったので、彼らの行動は元型の概念に矛盾することがありませんでした。ちなみに、彼らは期待されるように化学的な発見を時折しました。しかし、彼らが本当に発見したもの、そしてそれらに魅せられることの終わりのない源となるものは、個体化過程の象徴的意味でした。
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ペトルス・ボヌスは、全く異なった方法で発見された錬金術のシンボルが、キリストの救済のシンボルと驚くべきほど一致するということを認めざるをえませんでした。物質の秘密を見抜くための努力の中で、錬金術師は思いがけず無意識を見つけ出し、初めは意識することなしに、数ある中でキリストの象徴性の根底にあるプロセスの発見者となりました。その石を探し求めることが実際には何かということを充分に理解することが彼らの間で反映されるのに、2世紀はかかりませんでした。最初はためらいがちに、やがて間違えようのない明快さで、人自身、人の中に実際に見つけることのできる超常因子、今日難なく自己に同一視することができる、私が他の場所で紹介した[08-04]ドルンの「何(quid)」、これらのアイデンティティをその石は明らかにします。
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さまざまな方法で、錬金術師はラピスとキリストの類似性を受け止めようと苦心しました。彼らの概念的な言語は物質への投影から自由になれなかったし、心理学的にもなれなかったので、彼らは解決策をみつけることが出来ませんでした。自然科学の成長に伴う次の世紀に、物質への投影はやめられ、魂も完全に廃止されました。意識の発達はまだその終わりに達してはいません。もはや物質に神話上の特性があると考える人はだれもいないということは事実です。投影の形態は過去の遺物になりました。今では投影は個人的な関係と社会的な関係に、そして政治的なユートピアとそのようなものに制限されています。自然はもはや、神話的な解釈をされて恐れられることはなくなりましたが、霊の領域はまだ確かにあり、普通「形而上学」という名で呼ばれています。そこでは、完全絶対な真実を主張する神話素は未だにふんばっており、充分な言葉でおごそかに神話の基本的主題を粉飾する者は誰でも、自分は妥当な言説をおこなっていると信じています。そして限られた人間の知恵「知らないことを知っていること」に適した謙虚さを持っていません。このような人たちは、自分たちの在りように元型的投影が行われていること、すなわち人間的言説を解釈されるといつも、それは神自身を脅かすことだと考えがちです。合理的な個人的仮説では説明のつかない人間的言説は、たとえ錬金術師の非常識な言説であろうと、意味を持ちます。こうした言説はほとんど例外なく、自分たちのシンボルに与えようと努めたものではなく、未来にならないと証明できないものばかりだからです。神話素に関係があるときにはいつでも、彼らが言葉で表すこと以上のことを言っていると想定するほうが賢明です。夢はすでに知られている何かを隠したり、偽装して表現したりはしません。むしろ無意識の事実をできるだけはっきりと公式化しようとします。神話と錬金術のシンボルは、人為的な秘密を隠すエウヘメロス風の寓意ではありません。それどころか、夢は自然の秘密を意識の言葉に翻訳し、人類が共通して持つ真実を明らかにしようと努めます。意識的になるにつれ、個人はより孤独に脅かされるようになります。それが意識の分化に必須な条件だからです。脅威が大きくなればなるほど、全ての人に共通な集合的・元型的シンボルの提供によって補償されるようになります。
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この事実はどの宗教でも同じ方法で表現されています。神(または神々)と個人との関係は、無意識が持つ、調整するイメージと本能的な力との生き生きとしたつながりが壊されないことを保証しています。もちろんこれは宗教的観念が、そのヌミノース性、すなわち壮烈な力を失わない限り、真実です。一度この喪失が起こると、何か合理的なものによって埋め合わせることはできないでしょう。そのうえ、補償機能を持つ原始的イメージが、錬金術で豊富に生産されたり私たちの夢が見つけ出されるような神話的観念の形で現れます。いずれの場合においても、意識はこれらの啓示に対して同じような特徴的な方法で反応します。錬金術師は彼のシンボルを、彼が取り扱う化学的物質へと還元します。そして一方、現代人は、フロイトが夢の解釈でおこなっているように、それらを個人の体験へと還元します。シンボルの意味が既知のものに還元しうることを知っているかのように、彼らは行動します。ある意味、両者ともに正しいのです。錬金術師が錬金術の夢の言語に心をとらえられたのと同じように、自我の時代の罠にとらえられた現代人は、彼の個人的な心理的問題を決り文句(facon de parler)として用いています。いずれの場合でも、表象の材料は既に存在している意識の内容から得られています。しかしながら、この還元の結果は充分に満足のいくものではありません。実際には、できるだけ過去に戻ることを強いることでフロイトが悟ったのはほんのわずかでした。そうする中で、最終的にとてもヌミノース的な考えである近親相姦の元型を思いつきました。このようにある程度まで現実の意味とシンボルの生産の目的を表すものを見つけました。それは、全ての人がもっているこれらの原始的イメージに気づくことをひき起こすことであり、それゆえ、個人を孤独から外へと導きうるものであります。フロイトの独断的な頑なさは、彼が発見した原始的イメージのヌミノース的な影響に彼が圧倒されたという事実によって説明されます。もし錬金術の象徴的意味と同じくらい、近親相姦のモチーフが全ての現代人の心理的問題の源であると想定するならば、シンボルの意味に関しては私たちをどこにも到らせることはありません。それどころか、現在と未来の全ての象徴的意味が最初の近親相姦に由来すると言うことしか出来なくなるために、袋小路に陥るでしょう。実際フロイトもそう考えました。彼は一度私に次のように言いました。「将来、何を神経症患者のシンボルが意味しているのか一般に知られるようになったら、神経症患者はどうするだろうかと思う」。
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さいわいにもシンボルは、一見して分かること以上の多くの意味を持っています。それらの意味は、意識の不適切な態度を埋め合わせるという事実に存在しています。その態度は目的を達成しません。けれど、もしシンボルが理解されたら、意識は目的を達成できるようになります[08-05]。しかし何か他のものに還元してしまうと、シンボルの意味を解釈することは不可能になります。後の、特に16世紀の錬金術師たちの幾人かが、全ての卑俗な物質を忌み嫌い、元型の本質がかすかに見えるようにする「象徴的なもの」によってそれらを取り替えたのはこのためです。これは術士が実験室に入ることをやめたということを意味するのではありません。そうではなく、ただ彼は変成の象徴的な概観から目を離さないでいました。これはまさに無意識についての現代心理学の状況と一致します。個人的な問題を見過ごさないようにしながら(患者は自分の個人的な問題を非常に大事にしています!)、分析家がそれらの象徴的側面に目を向けつづけると、癒しが訪れ、患者を自分自身の向こうへ、自我のもつれの彼岸へと導いてくれます。
9.樹のさまざまな側面
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錬金術師にとって樹が何を意味するかを、一つの解釈や一つの文書から突きとめることは出来ません。それを明かすためには、非常に多数の出典を比較しなければなりません。さらに樹についての言説を調べることにしましょう。樹の絵は、中世の文書の中でもしばしば見かけます。それらのいくつかは『心理学と錬金術』の中でとりあげました。原型は『ヘルメス的博物館(Musaeum hermeticum)』[09-01]の中のミハエル・マイエルの論文に出てくる樹のような、リンゴではなく、太陽と月の果実がついている楽園の樹であったり、そのほか7つの惑星で飾られて、錬金術のプロセスの7段階の寓意で囲まれているクリスマスの樹のようなものです。樹の真下に立っているのはアダムとイブではなく、老ヘルメス・トリスメギストスと若い術士です。ヘルメス・トリスメギストスの後ろには、ライオンに腰をかけた太陽王がおり、彼は火を吐く竜を従えています。そして術士の後ろには、鯨に腰をかけた月の女神ディアーナがおり、彼女はワシを従えています[09-02]。樹は一般的には葉が出ており生きていますが、時にはきわめて抽象的に、プロセスの段階を明らかに表象していることもあります[09-03]。
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リプリー卿の『スクロール』[09-04]では、楽園の蛇がメリュジーヌの姿で樹のてっぺんに住んでいます。「蛇の姿をした女性の形でいた(desinit in [anguem] mulier formosa superne)」[09-05]。これは、少しも聖書風ではなく、原始的で、シャーマニズムのモチーフと結合されました。おそらく術士であろう一人の男が樹の途中まで登り、上から降りてるメリュジーヌやリリスと出会います。魔術的な樹に登ることは、シャーマンの天国の旅です。旅の間に彼は天国の配偶者と出会います。中世のキリスト教において、シャーマン的なアニマはリリス[09-06]に変えられました。伝統によれば彼女は楽園の蛇であり、アダムの最初の妻でありました。そして彼女との間にアダムは多数の魔物をもうけました。この絵の中で、原始的な伝統はユダヤ的キリスト教の伝統と交差しています。私は、患者が描いた絵の中で樹によじ登っているものに出くわしたことはありません。ただ夢のモチーフとして出会っています。上昇と下降のモチーフは、近代の夢ではもっぱら山や建築物、時には機械(リフトや飛行機など)と関連して生じます。
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葉が出ない樹や死んだ樹のモチーフは、錬金術ではあまり一般的ではありません。しかしユダヤ的キリスト教の伝統[09-07]では、失楽園のあと枯れた楽園の樹があります。古いイギリスの言い伝えには、エデンの園でセト(訳注:アダムの息子)が見たものが記されています。楽園の中に輝く泉がわき出ており、そこから4つの小川が流れ出て、全世界に水を流しています。泉の上には大枝と小枝がたくさんある大きな樹がたっていました。しかしその樹は樹皮も葉もなかったため、古い樹のように見えました。セトは、それは彼の両親がその果実を食べた樹であり、そのために今むき出しでたっていることを知っていました。もっと近づいてみると、セトは、皮膚のない蛇が樹のまわりに渦巻状に巻いているのを見ました[09-08]。それは、イブに禁断の木の実を食べるように説きつけたヘビでした。セトが2回目に楽園を見たとき、その樹が大きく変化したのを見ました。それは樹皮と葉におおわれており、その樹冠には小さな生まれたての赤ん坊が巻き布に包まれて横たわっていました。赤ん坊はアダムの罪のために泣いていました。これがキリスト、第二のアダムでした。キリストは、その樹の頂上で見つけられ、その樹はアダムの肉体からはえていることでキリストの血筋を表象していました。
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もう一つの錬金術のモチーフは、先端を切られた樹です。フランセスコ・コロナの『ポリフィーロの狂恋夢』 (ヴェニス、 1499)のフランス版(1600)の口絵では、足を切られたライオンと対になって[09-09]、この樹が描かれています。ライオンのほうは、ロイスナーの『パンドラ』(1588)でも錬金術のモチーフとして出てきます。カ薔薇に影響を受けたブレイス・ド・ヴィジェネール(1523-?1569)は、赤い死の光線を放つ「死んだ樹の幹(caudex arboris mortis)」 のことをいっています[09-10]。「死の樹」は「棺」と同じ意味です。もしかしたら不思議な秘法「樹を持っていき、その中に老人を入れなさい」[09-11]は、この意味で理解されるかもしれません。このモチーフは非常に太古のもので、古代エジプトの物語に出てくるバータにも表れています。この話は、第19王朝の古文書に保存されています。英雄がバータの魂を置いたのはアカシアの樹の一番上の花でした。樹が背信の目的で切り倒されたとき、彼の魂は種子の形をとって再び見つけられました。これとともに死んだバータは生命を取り戻しました。彼が雄牛の姿をして二度目に殺されたとき、2本のワニナシの樹が血から芽生えました。しかし樹が切り倒されたとき、樹の破片が女王を受胎させ、彼女は息子を産みました。彼はバータの生まれ変わりでした。そして彼はファラオになり、神聖な存在となりました。ここで樹が変容の道具なのは明らかです[09-12]。ヴィジェネールの「幹」は『ポリフィーロ』の先端を切られた樹に似ています。このイメージは、キリストを「受難において切り倒された樹」[09-13]と寓意的に解釈したカシオドルスに立ち戻るかもしれません。
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しばしば樹は、花や果実をつけた姿で描かれます。アラビアの錬金術師アブル・カシム(13世紀) は、赤、白と黒の中間、黒、そして白と黄色の中間という4種類の花を描いています[09-14]。この4つの色はオプスに関わる四元素と関連しています。全体のシンボルとしての四要素構成は、オプスの目的が全てを網羅した統一体の生産であることを意味しています。二倍の四要素構成、すなわち八つ組はシャーマニズムの世界樹と結びついています。8本の枝を持つ宇宙樹は最初のシャーマンが創造されると同時に植えられました。8本の枝は、8柱の偉大な神に対応しています[09-15]。
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『トゥルバ(Turba)』には果実をつけた樹についての言葉がたくさん載っています[09-16]。その果実は特別な性質のものです。『アリスレウスの幻視』では「一番尊い樹、この樹の果実を食した人は、決して飢えることがない」[09-17]といっています。『トゥルバ』にもこれと似たことが書かれています。「ある老人はその樹の果実を食べることをやめなかったと言われる。その老人が若者になるまで」[09-18]。ここでは果実が、命のパン(ヨハネ福音書6章35)と同等と考えられます。しかし、さらに遡ると、古代エチオピアのエノク書(BC.2世紀)で「西方国にある樹の果実は、選ばれし者の食物なり」と言われています[09-19]。明らかに、死と復活をほのめかしています。常に樹の果実というわけではなく、小麦の種子(granum frumenti)であることもありました。その小麦から不死の食物が用意されます。『昇る暁I(Aurora consurgens I)』によると「この穀物の実から生命の食物が作られる。この穀物は天から降りてきた」[09-20]。神与の食物(マナ)・聖餐のパン・万能薬が、ここで不可解に混り合います。奇跡的で霊的な食物についての同様の考えは『アリスレウスの幻視』でも言及されています。「ピュタゴラスの弟子」であり「滋養の大家」であるハルポクラテスが、アリスレウスと彼の仲間たちを助けにきたとき、樹の果実を持っていました。この話はルスカ版ベルリン古書Q.584に載っています[09-21]。エノク書では、知恵の樹の果実がぶどうに喩えられています。そして興味深いことに、中世においても哲学の樹は、ヨハネ福音書15章1の「私のまことのぶどうの木である」に言及しながら、ぶどうの樹[09-22]と言われることがありました。その樹の果実と種子は「太陽と月」とも呼ばれました[09-23]。それには、楽園の2本の樹が対応していました[09-24]。太陽と月の果実は、たぶん申命記33章13に立ち戻ります。「主の祝福がその土地にあるように。…太陽がはぐくむ賜物/月ごとに生み出される賜物……[09-25]とこしえの丘の賜物」。ラウレンティウス・ヴェントゥラ[09-26]は次のように言ってます。「このリンゴは香りは甘く、そして色鮮やかだ」。偽アリストテレスは『アレクサンダー大王への論考(Tractatus ad Alexandrum Magnum)』[09-27]の中で「その果実を摘み集めなさい。その樹の果実は私たちを暗黒の中へ、そして暗黒の終わりまで導くから」と言っています。この曖昧なアドバイスは、流布している世界観とは相性が良くない知識をほのめかしています。
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ベネディクトゥス・フィグルスはその果実を「神聖な哲学の樹からもぎ取られたヘスペリデスの黄金のリンゴ」[09-28]と呼んでいます。樹はオプスを象徴し、果実はその産物、つまり黄金を表すので「私たちの黄金は普通の黄金とは違う」[09-29]。『世界の栄光(Gloria mundi)』の次のような言葉が、果実の意味に特別な光を投げかけています。「哲学者の語る火か石灰を手にされよ。その火は樹に燃ゆる。樹の中で、愛に包まれし神ぞ燃えたまう」[09-30]。神自身は太陽の炎の白熱にとどまっており、哲学の樹の果実、オプスの産物として現れます。その経過は、樹の生長によって象徴化されます。オプスの目的が、自然(ピュシス)の連鎖から世界魂(anima mundi)を解放すること、つまり神の世界創造の魂を解き放つことなのを忘れなければ、この驚くべき言説はあまり不思議ではないでしょう。この観念は、樹からの誕生という元型を活性化してきました。それはもっぱら、エジプトとミトラ信仰の文化でよく知られています。シャーマニズムで優勢な概念として、世界の支配者が世界樹[09-31]の頂上に住んいるというのがあります。系統樹の頂上に贖い主を置くキリスト教的表象はそれに対応しているわけです。図29で「花のめしべのように」見える女性の頭は、ドイツのオステルブルケンで発掘されたミトラのレリーフと比較できるかもしれません[09-32]。
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樹は、ときに「小麦の種子の小さな樹(grani tritici arbuscula)」[09-33]のように小さく若く、そしてときには樫[09-34]や世界樹の形をとって、その果実として太陽と月を実らせるような大きさで年老いています。
10.樹の生息地
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アブル・カシムによると、哲学の樹は単独で西方国の「海の上に」生えています。これはおそらく島のことを意味します。術士の秘密の月草(moon-plant)は「海に植え付けられた樹」のようです[10-01]。ミリウスの寓話で[10-02]、太陽と月の樹は海に浮かぶ島に育っており、太陽と月の光から磁力によって抽出される、不思議な水に芽生えています。クーンラートは次のように言っています。「この塩気のある小さな泉から、海の中の赤と白の珊瑚の樹と、太陽と月の樹が育つ」[10-03]。とりわけクーンラートにおいて、塩と海水は母なるソフィアを意味し、その乳房で上智の息子(filii Sapientiae)、つまり哲学者が養われます。アブル・カシムがペルシアの言い伝え (彼の姓al-Iraqiからもペルシアに地理的に近いことが分かる)、特に『ブンダヒッシュ』のウォルカシャ湖に育つ樹や、水母神アナヒータ(Ardvi Sura Anahita)の泉に育つ生命の樹の伝説を知っているのは当然です[10-04]。
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樹(あるいは不思議な植物)は山[10-05]にも生息しています。エノク書のイメージがしばしばモデルとして用いられ、西方国の樹は山の上にあるといわれています。『女預言者マリアの課業(Practica Mariae Prophetissae)』[10-06]では、不思議な植物は「丘の上に育つ」と述べられています。『フォスルの書(Kitab el Focul)』[10-07]に出てくる、アラビアのオスタネス文書では「それは山の頂上で育つ樹なり」と書かれています。樹と山の関係は偶然のものではなく、それらの間のもともとの、そして広く行きわたったアイデンティティに帰すべきです。それらはいずれも、シャーマンによって天国の旅[10-08]の用途のために用いられました。私が他のところで書いたように、山と樹は、人格と自己のシンボルです。例えば、キリストは山[10-09]と同様に樹[10-10]によっても象徴されます。樹はしばしば、明らかに創世記を思い出させるものとして庭園にたっています。このように、7つの惑星の木は神聖な島の「秘密の園」で育ちます[10-11]。ニコラ・フラメル(1330−1418)によると「いちばん高貴でほめたたえられる樹」は哲学者の園で育ちます[10-12]。
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これまで見てきたように、樹は水や塩、海水、永遠の水や術士の真の秘密と特別なつながりがあります。これはメルクリウスとして知られています。水銀(Hg)と混同されるものではありません(血塗られた水銀は俗ならず mercurius crudus sive vulgaris)[10-13]。メルクリウスは金属の樹です[10-14]。メルクリウスは第一質料[10-15]、さもなければその源です[10-16]。ヘルメス神(=メルクリウス)は「その水で樹を潤し、コップ一杯の杯をもって花を大きく育てる」[10-17]。私がこの一節を引用したのは、これが御業と奥義は一つであり同じものであるという、とらえにくい錬金術の考えを表しているからです。樹を育てるけれども消滅もさせる[10-18]水がメルクリウスです。彼は、金属であり液体であるという正反対の事柄を彼自身で一体にしているので「二重性」と呼ばれています。それ故、彼は水と火のどちらとも呼ばれています。樹液でありながら火のようでもあり(図15)、水の性質を持ちながら火の性質を持っています。グノーシス主義において、私たちは「超天の火」からなる魔術師シモンの「偉大な樹」に出会います。「その樹によって、全ての肉体あるものは養われている」[10-19]。これは、ネブカドネザルが夢で見た樹のようです。その枝と葉は焼き尽くされますが「その果実で実ったものは、火の中に投げ込まれるのではなく、納屋の中に持ち込まれる」[10-20]。「超天の火」のイメージは、一方ではより初期のヘラクレイトスの「不滅の炎」と一致し、もっとあとのメルクリウスの解釈、すなわちメルクリウスは火であり、命を与えたり奪ったりしながら自然全体へと広がる「生きている精霊」であるという解釈とも一致しています。「火の中に投げ入れられない」果実は、もちろん試練に立ち向かう人間であり、グノーシス主義の「プネウマ的な人」です。ラピスの同義語の一つで、内なる統合した人を表す言葉は「我々の穀物(frumentum nostrum)」です[10-21]。
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樹はしばしば金属[10-22]、普通は黄金のように表現されます[10-23]。7つの金属とのつながりは、7つの惑星とのつながりを意味しています。というのも、樹は世界樹となり、その輝く果実は星となるからです。ミハエル・マイエルは、樹の部分をメルクリウスに、(4つの)花を土星・木星・金星・火星に、そして果実を太陽と月とみなしました[10-24]。7つの枝(=7つの惑星)の樹は『立ち昇る曙光II』[10-25]で言及されていて、ルナティカ(Lunatica)やベリッサ(Berissa)[10-26]と同一視されています。「その根は金属の地面にあり、その赤い幹は黒さをそなえている。その葉はマージョラムの葉のようであり、満ちて欠ける月齢と同じ30ある」。この記述から、この樹はオプス全体を象徴していることが明らかです。従ってドルンの言うには[10-27]「(植物、もしくは金属の)樹を根づかせよ。根は土星に、移ろい易き水星と金星は幹と枝になる。そして火星[10-28]に命じ葉と、やがて実となる花を属させよ」。世界樹との関係は、ドルンの次の言葉から明らかです。「母なる自然は(金属の)樹の根を自らの子宮の真ん中におろした」[10-29]。
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