IV 精霊-メルクリウス
C・G・ユング
「錬金術研究」V
哲学の樹
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[原著は、バーゼル大学植物学教授グスタフ・ゼン(Gustav Senn)氏の70歳の誕生日を記念する論文集のために書かれたものである。しかしゼン教授の急逝によって論文集の刊行は実現せず、ユングの『哲学の樹』と題されたこのエッセイは『自然学研究 vol.56, 2, 411-23』 (バーゼル、1945)に掲載された。その後加筆修正されたものが『意識の根源−元型の研究』(心理学論文集第9巻、チューリッヒ、1954)に収められており、本訳はそれをもとにした。 編者]
[目次]
I.樹の象徴の個別的表現
II.樹の象徴の歴史と解釈について
- 元型的イメージとしての樹
- ヨドクス・グレウェルスの論説における樹
- 四者体
- 錬金術における全体性のイメージについて
- 哲学の樹の本質と発生
- ゲラルドゥス・ドルネウスの樹の解釈
- 薔薇色の血と薔薇
- 練金術師の霊的状態
- 樹の諸相
- 樹の在処と起源
- 逆さの樹
- 鳥と蛇
- 樹の女性的ヌーメン
- ラピスとしての樹
- 御業の危険性
- 防御手段としての悟性
- 拷問のモチーフ
- 受難と結合問題との関係
- 人間としての樹
- 無意識の解釈と統合
[邦訳]
ドイツ語版から、老松克博監訳・工藤昌孝訳『C・G・ユング/哲学の木』(創元社、2009.9.)として出版されている。
友よ、すべての理論は灰色だが、
黄金の命の樹は緑である。
『ファウスト』
I.樹の象徴の個別的表現
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無意識の元型的イメージはよく樹木や不思議な植物で表されます。幻想的な作品が描かれる場合、マンダラの形に則った対称的なパターンになることもよくあることですが、マンダラが横断面図の中に自己のシンボルを表したものとすると、樹は縦断面図を示すものと考えられます。そこでは自己は成長の過程として表現されます。絵がどういった状況で描かれたかをあらためて述べる必要はないでしょう。それは既に私の小論『個性化の過程の研究』と『マンダラ・シンボルについて』で充分語り尽くしているからです。ここで紹介する例はすべて、私の患者さんが自分たちの内的経験を表現しようと描いた絵の中からとったものです。
305
樹のシンボルは実に様々であるにもかかわらず、絵には いくつもの共通した特徴が見られます。論文の前半では、それぞれの絵について説明をします。そして後半では、錬金術とその歴史的な背景に基づいて哲学の樹について考察しましょう。患者さんたちは誰も錬金術やシャーマンについての知識はもっていないので、絵にその影響はありません。絵は創造的なファンタジーによって自然に生み出されたもので、表現しようという意図以外にはなにもないのです。ですから、無意識の内容によって意識が圧倒されることなく、また何の歪曲もなく無意識が意識の中に導き入れられたとき、そこに何が起こるかを見ることが出来ます。ほとんどの絵は治療中の患者さんが描かれたものですが、中には治療を受けてない人、既にまったく治療とは縁のない人もいます。いずれにしろ私が少しでも影響を与えるような言葉を注意深く避けたことは、はっきりと申し上げておかねばなりません。32枚の絵のうち19枚は、私自身錬金術について何も知らなかった頃のものですし、残りの絵も私の著書『心理学と錬金術』(1944)が出版される前に描かれています。
図01
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306
海の中の島に一本だけ立つ樹です。上は紙の縁で切れてしまっているので、大きさがわかるでしょう。つぼみと小さい白い花は春の訪れを示しています。人の時をはるかに超えた偉大な樹が、新しい命に目覚める時です。1本だけ描かれていること、絵の中心にその軸があることから、普遍的に樹のシンボルとされている、世界樹(world-tree)や世界軸(world-axis)を思わせます。この特徴は描き手の中で生じている内的なプロセスに形を与えているものであって、その内的なプロセスがその人の個人的な心理とは全く関わりがないことを示しています。ここで表現されているのは、個人的な意識とは異なった普遍的なシンボルなのです。もちろん描き手が内的な状態を示すのに、意図的にクリスマス・ツリーを使ったりすることは出来ましたが。
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図02
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抽象的な図案と地球の上という配置は、樹の精神的な孤立感を表しています。それを補うように、完璧に対称の樹冠で対立物の結合が示されます。これは個性化過程の原動力であり、また最終的な姿です。こうした絵を描く人は、樹を同一視したり、同化したりすることで[001]、自体愛の孤立の危機を乗り越えているのです。象徴化過程は、自身の自我とおなじくリアルで、打ち消し難いものとして受け入れるしかないのですから、結局のところ自我人格はそれを避けることはできないことを思い知らされるでしょう。あらゆる手だてを講じてこのプロセスを否定し、無効にすることができますが、そのときはシンボルによって表されるすべてが失われます。強い好奇心はなんとしても合理的な説明を探し回りながらも、答が見つからないと、いい加減でまったく的外れな仮説で間に合せたり、がっかりして諦めたりするのです。人生は簡単に答えることのできない謎に満ちていると考える人はいるでしょう。しかし人は謎を抱えて生きること、あるいは謎を大事にすることが下手です。おそらくほんとに耐え難いのは、私たちの心の中に不合理なものがあって、その存在の謎と直面したときに、意識が砂上の楼閣のごとく打ち崩されることなのでしょう。
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図03
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308
絵は光の樹として描かれ、燭台の形をしています。抽象的な形が精神的な本質を示しています。枝先には灯されたキャンドルがあって、閉ざされた空間、洞窟また地下壕を照らしています。プロセスの密かに隠された本質はこのようにはっきりとその働きを明らかにします。まさしく意識のイルミネーションなのです。
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図04
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309
金箔を切り貼りした絵ですが、樹そのものは写実的です。まだ冬で、樹は葉もなく冬眠状態です。宇宙を背景にして浮かび上がり、その枝には大きな金色のボール、おそらく太陽を抱えています。金を使ったのは、描き手がこの内容とのつながりにはっきりと気づいているわけではないけれど、その大きな価値を直感していることを語っています。
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図05
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310
葉はついていませんが、小さな赤い花は春の前触れです。枝先が炎になり、樹が生えている水からも炎が立ち上っています。あたかも樹は泉の噴水のようです。噴水のシンボルつまり fontina は錬金術ではよく知られており、練金術の絵には、中世の町の噴水[002]がよく見られますが、中央の立ち昇る水は樹と似ています。炎と水とは対立物の結合を表します。この絵は練金術の格言「我らが水は火である」を実証するものです。
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図06
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311
赤くて、サンゴの枝のような樹です。樹は水面に映っているのではなく、下と上と同様に伸びています。下半分に描かれた4つの山も、その反対側の5つの山を映したものではありません。これは、下の世界が上の世界の単なる反映ではなく、それぞれが独自の世界であることを示します。樹が立っている両側の岩壁も、対立物(opposites)を表しています。4つの山は図24にも出てきます。
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図07
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312
樹は地殻を抗しがたい力で突き破り、両側には山の岩石が積みあがっています。描き手は自分の中の似通った状況を表現しているのです。それは必然的に起こるもので、どんな力でも止めることはできません。岩石が雪を頂いている山として描かれており、樹には世界樹としての宇宙性があります。
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図08
313
葉はついていませんが、枝先はクリスマス・ツリーのように小さい炎になっています。樹は大地や水から生えるのではなく、女性の身体から出ています。描き手はプロテスタントで、大地やstella maris〔海の星〕が表す中世のマリア・シンボルに関してはほとんど知らない人です。
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図09
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314
古くて、巨大で、絡まりあった根がとりわけ強調されています。左右からは2頭の竜が迫っています。竜を見張ろうと、少年が登っています。これは、ヘスペリデスの樹を護る竜や財宝を護る蛇を思い起こします。少年の意識界は危なっかしい状態です。身についたばかりのわずかなセキュリティーでは、再び無意識によってむさぼり食われてしまうのは避け難いからです。無意識の混乱はもつれた根っこに現れていますが、巨大な竜とちっぽけな子どもとの対比にも明らかです。人間の意識から独立して成長している限りでは、樹自体が脅かされることはありません。それは自然な過程であり、竜はそれを護っているので、妨害するのはかえって危険です。当たり前にどこにでもあるプロセスなのですから、竜がいても、少年が勇気を奮い起こして樹に登れば、プロセスそれ自体が彼を守ってくれます。
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図10
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315
もう一度2頭の竜が出てきます、ワニの姿をしていますが。樹は抽象的で、二重になっていて、果実をつけています。どれも二重に描かれているので、あたかも1本の樹のような印象を与えます。そのうえ、2本の樹はリングで結ばれていますし、これは対立物の結合を示すもので、同じ事が2匹のワニにもいえます。錬金術では、メルクリウスは竜の姿で表されると同じく樹でも表されます。彼は「二重性(duplex)」で知られており、男性であり、かつ女性であり、化学的結婚の聖なる結合で一つになるのです。メルクリウスの統合は練金術の手順でもっとも重要な部分です。
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図11
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316
樹と蛇はどちらもメルクリウスを表しますが、彼の持つ2つの性質のために、それぞれ違った側面を担っています。樹は受け身で、植物の原理を、蛇は行動的で、動物原理に対応しています。樹は大地に根ざした身体性、蛇は情動性と精神に属すものを示します。精神がなければ身体は死に、身体がなければ精神は存在しましせん。この絵の中で、明らかに今起きようとしている2つのものの結合は、身体に命が吹き込まれることと精神が実体をもつことなのです。同様に、天国の樹は最初の両親が、生まれたままの子どものような状態(つまりプレローマ)から出てくるのを待つ、現実の生の厳粛さを示すものでもあります。
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図12
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317
樹と蛇は結合しています。樹は葉をつけ、その中央に太陽が上っています。根は蛇の様に見えます。
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図13
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図案化された樹には、幹に奥へと続くドアがあり、鍵がかけられています。中央の枝は明らかに蛇のようで、太陽のように輝く物体を支えています。描き手自身である純真な鳥は、ドアの鍵を忘れてしまって、涙をこぼしています。樹の中に何か大事なものがあることをはっきりとうかがわせるものです。
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図14
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319
同じ人が宝物のモチーフをいろいろ描いたものです。これと次の絵は、英雄神話の形をとっています。英雄は隠れた洞窟のなかで、封印された宝箱を見つけますが、箱からは不思議な樹が生えています。英雄に犬のようにつき従う小さい緑色の竜は、錬金術師の守護霊、メルクリウスの蛇、または draco viridis〔緑の竜〕に相当します。こうした神話的な物語はめずらしいですが、練金術の寓話か説話ではよく見られるものです。
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図15
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320
樹は宝物を渡すまいと、いっそう箱を強く締めつけています。英雄が樹に触れると、炎が飛んできます。これは錬金術師の樹、またシモン・マグスの世界樹のような火の樹です。
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図16
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321
葉のない樹の枝に、鳥がたくさん止まっています。このモチーフも、錬金術にはよく出てきます。ロイスナーの『パンドラ(Pandora)』(1588)では、知恵(Sapientia)の樹の周りを無数の鳥が囲んでいますし、また『化学について(De Chemia)』(1566)[003]では、ヘルメス・トリスメギストスの像の周りに鳥が舞っています。樹は、宝を護るものとして描かれています。その根に隠された宝石は、グリム童話の、樫の樹の根っこに隠されたビンの話を思い起こさせます。そこには精霊-メルクリウスが閉じ込められているのです。石は濃紺のサファイアですが、教会の寓話で大きな意味があるエゼキエルのサファイアとのつながり〔エゼキエル書10章〕は、描き手は知らないことです。サファイアだけが持つ美徳は、持つ者に純潔、敬けん、および不変性を授けることです。それは「心臓を鎮める」薬としても使われました[004]。ラピス(賢者の石)は「サファイアの花」[005]と呼ばれました。鳥は、翼のあるものとして、常に精神や思考のシンボルです。したがって、この絵のたくさんの鳥は、樹の秘密、つまり根に隠された宝物について考えを巡らしていることを意味しています。このシンボリズムは広野の宝物の寓話、高価な真珠、そして芥子種の粒の話〔マタイ13章31-32〕にも隠されています。錬金術師は天の王国と関連付けただけではなく、「admirandum Mundi Maioris Mysterium」(大宇宙の驚くべき神秘)と解釈しました。そして、まるで絵の中のサファイアには同じ意味があるように見えます。
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図17
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322
これは同じ人が描いたものですが、だいぶ後の段階になって、同じアイデアが違った形で出てきたものです。彼女もずっとうまく表現できるようになっています。樹がもう目覚めたので、鳥はハート形の花になりました。4本の枝は正方形のカットサファイアに対応し、サファイアの不変性は小さなウロボロスに囲まれることで強調されます。ホラッポロによれば、ウロボロスは永遠を意味する象形文字です[005a]。錬金術師にとって、自らを呑み込む竜は、また自らを生み出すということで両性具有的です。そうした理由で、サファイアの花(すなわちラピス)は「Hermaphroditi fros saphyricus〔両性具有のサファイアの花〕」と呼ばれます。不変性と恒久性は樹の年齢にだけではなく、その果実であるラピスにも示されます。ラピスは果実であると同時に種子です。錬金術師は、常に「穀物の種子」は大地の中で死ぬということを強調しましたが、その種子という性質にもかかわらず、ラピスは決して朽ちることがありません。それはまさしく人がそうであるように、死ぬべき定めでありながらなお永遠なのです。
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図18
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323
この絵では、樹は宇宙的な性格を持ちながらも、大地から立ち上がる事ができないという、まさしくその瞬間が描かれています。これは退行的発達といえるもので、そもそも樹は地球から、不思議な天文学と気象学の現象に満ちた宇宙空間に向かって伸びるものですが、ここでは得体の知れない薄きみ悪げな世界に枝を伸ばして、別世界のものに触れようとしています。それは地上に生きるふつうの人間の合理性を脅かすものです。樹が上へ伸びようとすると、地上にあればなんとか安全であるものが、危険にさらされるだけでなく、道徳的で精神的な慣性への脅威となるのでしょう。再適応していくには考えも及ばないような努力が要る新たな時間と空間へ運ばれてしまうのですから。こうした場合、患者は単に臆病さからではなく、これから自分に要求される過酷な問題を警告する正当な恐怖によって、動きを押さえつけられてしまうのです。そうした要求がなんなのか、もしそれが達成されないとどんな危険があるのか、そういうことには気づかないで。恐れによる抵抗や反感は全く根拠がなく見えるし、それを合理化してしまうことは、うるさい虫を払いのけるように、いとも簡単なことのように思えるのですが。結果はただこの絵のような精神状態になってしまうのです。間違った成長は、固まっていると思われた大地を混乱に陥れてしまうかもしれません。また患者の気質に従って、あるいは性的衝動、権力欲求などをめぐって次なるファンタジーが生まれます。これは遅かれ早かれ、神経症状を形成し、たいていの患者と分析家は、そのファンタジーを原因と考えてしまいがちで、真の課題を見過ごすことになってしまいます。
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図19
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324
別の患者が描いたこの絵をみると、図18が決して特別なものではないことがわかります。ただ、こちらは退行的発達のケースではなく、意識化されつつある段階で、樹が人の頭になっている所以でもあります。魔女のような樹のニンフが、地面を掴もうとしてるのか、それともいやいや頭をもたげようとしてるのか、絵を見ただけではわかりません。患者の意識が引き裂かれた状況と完全に一致します。しかし、周りに立っている樹は真っ直ぐなので、彼女の中かあるいは外かで、樹が成長するべき姿をそのままに手本としてもっているのがわかります。彼女自身は、樹は魔女であり、邪悪な魔力によって引き起こされた成長の退行であると説明しました。
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図20
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325
山の頂上に一本だけ聳え立つ樹です。葉が茂り、幹に極彩色の服に身を包んだ人形があります。描き手のイメージでは道化師です。道化師の衣装は、なにか馬鹿げていて不合理なこととつながりがあるらしいことを示します。彼女は意識的にはピカソを思い浮かべており、その様式は道化師の衣装にはっきりと見てとれます。この連想は単に浅薄な組み合わせではなく、深い意味がありそうです。前の2枚の絵の退行的発達に通じるのは、それが不合理性を感じさせるところです。3つのケースはいずれも、現代の心が極度に不安になっていることを示すプロセスと関係があります。実際、私の患者はほとんどは、その精神内界の独自に起こってくる成長に対する恐れを、率直に打ち明けることができませんでした。こういう時に、もしまったく人と違った理解しがたい経験を、根拠のあるものと示すことができれば、非常に大きな治療的価値があることです。患者が内的成長の避けることのできない力を感じ始めると、理解し難い狂気のなかに為す術もなく陥ってしまう、という理由なき恐怖によって、いとも容易に打ち負かされてしまうでしょう。私の患者に、彼の恐怖が既に400年も前にあったことだというのをわからせるために、棚の本をとり、昔の錬金術師について語ったことは一度や二度ではありません。それは心を鎮める効果があります。それは誰も理解してくれない奇妙な世界にいるのが、決して一人だけでないこと、自分が大きな人類の歴史の流れの一部分であることがわかるからです。そして自分の狂気の病理学的証と思い込んでいたまさにそのことが、人類の歴史であったことを繰り返し経験するからなのです。
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図21
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前の図では、人形は眠っている人の姿で、昆虫のさなぎのように変容を待っている状態でした。ここでは樹が幹に人の体を隠しており、母としての働きをしています。これは樹が、伝統的に母の意味を持っていたことと一致します。
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図22
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成長は次の段階へと進みます。眠っていた人は目覚め、樹から半身を現して、動物の世界に触れようとしています。「樹からの誕生」は、自然の子どもということだけでなく、大地から樹のように成長してきた原初の人という意味付けもあります。樹のニンフはアダムの一部から取られたのではなく、独自に生まれ出たイブです。このシンボルは単に文明化された人間の一面的で不自然なあり方だけでなく、とりわけ、イブの二次的創造という聖書神話を補償するものです。
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図23
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樹のニンフは太陽を掲げ、その姿は光で描かれています。背景の波形の帯は赤く、脈打つ血液が変容する木立の周りを流れています。これは、変容が単に非現実的なファンタジーではなく、そのプロセスが身体領域にも及び、またそこから起こってさえくることがあることを語っています。
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図24
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この図は今までの絵と様々なモチーフでつながっていますが、特に光か太陽のシンボルに力点が置かれ、神秘数「四」で表されています。4本の川が流れ、それぞれ違う色づけがされています。川は、患者が4つの天あるいは「形而上学」の山と呼んだところから流れています。4つの山については図6にも出てきました。また、『心理学と錬金術』でとりあげた[006]男性の患者の絵にも見られ、4本の川が図6とl09で描かれています。どの場合も四という数字に関して私はなんの関与もしていません、ほかの錬金術やグノーシス教、神話学における四元性についてと同じように。私を批判する人々は、私が四という数に特別な関心を持っているがために、いたる所でそれを見つけるといった馬鹿馬鹿しい考えを持っているようです。一度でいいから、彼らは練金術の論文を調べればいいのですが、きっとあまりに大変なことなのでしょう。「科学的な」批判の90%は偏見なのに、事実が認識されるにはとても長い時間がかかるものです。
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四という数は、円を四角にする(といった不可能を企てる)ような、恣意的なものではありません。だからこそ私は批評家達の既知の例を挙げるのですが、三でもなく、さらに言えば、五でもなく、まさしく四なのです。ついでながら、四という数にはこの他に特別な数学的性質があることも述べておきましょう。光のシンボルを強調するのと同じく、この絵の四の要素はその意味することがわかりやすい形で繰り返されています。全体は、自己の直感的理解を示す小さな女性像に支えられています。
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図25
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さらに次の段階が描かれます。この女性像は、もはや光のシンボルの受け手、運び手ではありません。その性格は前の絵に見られたものよりずっと強力なものになっています。自己と同一化する危険は見過ごせないほど大きくなってきました。こうした成長をくぐり抜けた者は誰しも、自己と一体化して経験と努力のゴールをみるという誘惑に駆られてしまうのです。実際そうした先例はありましたし、このケースでもほぼ間違いなく起こるでしょう。しかしこの絵には、描き手が自己と自我を見分ける助けとなる要素があります。彼女はプエブロインディアンの神話によって影響を受けたアメリカ人女性でした。トウモロコシの穂軸は、女性に女神の特徴を与えるものです。女神は蛇で樹に縛られており、磔になったキリストのようです(プロメテウスが岩石に鎖で括られたように、キリストー自己とみなされるーは地上の人間のために犠牲となりました)。神話が示すように、全体を達成しようとする努力は、自己の自発的自己犠牲と地上の存在としての束縛にかかってきます。ここでは、その関わりを指摘するに留めておきますが。
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さて、この絵にはかなり多くの神話的要素がありますが、患者の意識がまったく目を閉ざしているのでなければ、もちろんそんなサインはなにもありませんが、彼女が自我と自己を見分けるのはたやすいことです。この段階では、自我肥大に屈しないことが大事です。自己に気づいたとき、もし彼女がそれに同一化して、手に入れた洞察に対しても目をつぶってしまうとしたら、不愉快な結果を引き起こすでしょう。自己に同一化しようとする当然の衝動が認識されるときは、自らを無意識の状態から解放するチャンスです。しかし、この機会を見逃すか、また活用しなかったら、それまでと同じ状態でいることは出来ず、人格の解離とそれにともなう抑圧をもたらします。自己実現につながったかもしれない意識の成長は、退行に終わってしまうのです。自己実現は単に知的な行為ではなく、一次的には道徳的なもので、それに対して知的理解の重要性は二次的なものであることを強調しておきます。このことから、私が先に述べた兆候がこの患者たちにもまた見られます。彼らは自分たちにそんな姑息な動機があるとは認めないでしょうが、実は運命によって与えられた課題を拒否しているのです。
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もうひとつの特徴にも注目してください。葉が一枚もない上に、枝はまるで根っこのようです。そのすべての生命力がセンター、その花と果物を表す人間像に集まっています。上にも下にも同じように根を伸ばした人間は、上下に同時に成長する樹のようです。目指すのは高さでもなく、また深さでもなく、まさしくセンターなのです。
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図26
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前の絵で展開されたアイデアがここでは少し違った形で現れていますが、まだ絵で充分に説明できるところまではいってないようです。この患者の意識に関しては、絵を描くということで少しずつ形が見えてくるという、曖昧な感じで起こってきていますから、初めからはっきりとした概念で自分の言いたかったことを形にできたわけではないのでしょう。絵は、中点が下の方に移動して、足元から4つに分かれたマンダラになっています。人物は上の領域に立っているので、光の世界に属しています。このマンダラは、横軸の下が長い垂直線である正統なキリスト教の十字架とは逆になっています。キリスト教の十字架の逆ではありますが、自己が光の理想的な形として実現されたものと、絵からは読み取れます。横軸が頂点近くで交差しているので、センターに向かっていく無意識の目標は上方に置き換えられ、人物が下を見ているので、そこが目指すところであると思われます。光の十字の短い垂直線は黒い地球の上で止り人物はその左手に暗い領域から掬い上げた黒い魚を持っています。左(すなわち無意識)から来る魚に向けられる右手のムドラー[007]のような、ためらいのしぐさは患者独自の表現です(患者は神智論を研究しており、インディアンの影響は受けていました)。魚は、キリスト教やインディアンの言葉も思い浮かびますが、救済論的意味があります(マヌの魚として、またヴィシュヌの化身として)。患者がバガヴァッド・ギータに詳しかったことは(図29参照)、次の言葉から推測されます。「魚の中では、私はマカラである」(X.31)。マカラはイルカかリヴァイアサンの類で、タントラ・ヨーガではスバディシュターナ・チャクラのシンボルの1つです。中心は浮き草の中にあり、魚と月のシンボルによって水の領域として特徴づけられます。チャクラはより初期の意識層にあたるので(例えばアナハター・チャクラはギリシア人のfrevneVに対応する)[008]、スバディシュターナはおそらく、すべての中で最古の層でしょう。この領域から魚のシンボルが、年取った精霊とともに現れています。これは「創造の日」、つまり意識が生まれたとき時を思い出させます。そのころはぼんやりした内省の灯り[009]によって存在の原初的な一体がかき乱されることはなく、人は魚のように無意識の海原を泳いでいました。そうした意味で魚はプレローマのような永遠世界か、チベットのタントラ密教でいうバルドーの再現を意味します[010]。
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人物の足元の植物は、まるで空気の中に根を下ろしているようです。樹と樹のニンフ、および植物はすべて地球から浮かび上がっているのか、あるいは、今しも降りようとしているところです。これは深界からの使者、魚によって示されます。私の経験のなかでも、これは非常に珍しいことで、おそらく神智論の影響のためでしょう。影や暗黒の世界との対決でなく、理想的な概念で意識を満たすことは、西洋の神智論の特色です。悟りを開くのは光の姿を想像することによってではなく、暗闇を意識化することによってです。しかし、こうした考え方は好まれませんでしたし、普及もしませんでした。
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図27
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樹または蓮の花から神が生まれるという元型的なカテゴリーですが、前の絵と違い、これはまったく西欧的です。古生代の古めかしい植物世界は、描き手が自己の誕生を直観的にとらえた状態を物語っています。古風な植物から育っている人間の姿は、その4つの頭の結合と第五元素を表すもので、ラピスが四元素で構成されるという練金術の見方と一致します。元型に目覚めると、体験に原始的な性格を与えます。植物を6段に分けることは、ファンタジーの領域ではよくありますが、単なる偶然かもしれません。しかし、6(senarius)という数は古代のなかで「aptissimus genetationi〔もっとも生成に適している〕」と考えられていたことは、忘れてはなりません[011]。
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図28
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図26と同じ患者が描いた絵です。樹冠を頭に載せた女性が座っており、さらなる下方への移動がみられます。彼女の足のずっと下にあった黒い地球が、今度は体内の黒いボールとして描かれています。太陽神経叢と呼応するマニピュラ・チャクラの領域です。(練金術では「黒い太陽」にあたる)[012]これは暗黒原理、または、影が統合されて、今はセンターのようなものとして体内に感じられていることを意味します。またこの統合は、魚との関わりもちょっと感じさせます。魚を食べることは、<神>の participation mystique〔神秘に与ること〕だからです[013]。
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多数の鳥が樹の周りを飛んでいます。鳥の翼は「思考」を表すので、センターが下方に移動したことは、女性像が自らを思考の世界から徐々に切り離していったと考えるべきでしょう。その結果、思考は自然な要素に戻ったのです。彼女と彼女の思考が以前は同一のものだったので、彼女は空中存在であるかのように地球の上におかれ、その一方で、空中に人間の重さを支えなければならなかった思考は飛ぶ自由を失っていたのです。
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図29
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さらに、思考の世界から離れていきます。男性のダイモーン[014]が突然覚醒し、凱歌とともに現れます。彼はアニムス、女性の中の男性的な考え(一般的には女性の男性的な側面)です。前の絵での押しとどめられていた状態は、アニムスの憑依であったことが判明し、今やアニムスが飛び出してきています。女性としての意識とアニムスの分化は、双方にとっての解放を意味します。「私はギャンブラーのゲームである」[015]という一文はおそらくバガヴァッド・ギータの「わたしはだまし詐欺のなかの大賭博」(X.36)に関係しているでしょう。この章は次の言葉で始まっています(X.20-2l)。「グダケーシャよ、わたしはたましい真我として、一切生類の胸に住んでいる。また、わたしは万物万象の始めであり、中間であり、そして終わりである。アディーティヤたち[016]のなかでわたしはヴィシュヌ、光るもののなかでわたしは太陽」。
340
クリシュナと同じく、アグニもアーユル・ヴェーダの『シャタパタ・ブラーフマナ』ではサイコロ賭博とされます。「彼(アドバリユ祭官)[017]がサイコロを投げる。『スヴァーハー[018]の呪文の力により、スーリャ[019]の光とともに、兄弟たちのちょうど中心へと向かへ』と。『十全のアグニ』と同じゲームの図を用いるが故に、サイコロもアグニの炭を用いるが故に、祈祷僧が賛美した神がアグニであるのがわかる」[020]。
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どちらのテキストも、サイコロ賭博を光・太陽・炎・神に関係づけています。また、アタルヴァ・ベーダには、戦車・サイコロ・雄牛の力・風、パルジャナ[021]・ヴァルナ[022]の炎にある輝きについてかかれています。「輝き」は原始的心理では「マナ」として知られているものと対応し、また無意識の心理学で「リビドー備給」「情動価」「フィーリング・トーン」といわれるものに対応しています。原始的な意識にとって決定的に重要な要素である「感情の強さ」という点からみると、最も異質なるもの、嵐・炎・雄牛の力・熱狂的なサイコロ賭博は、いずれも同じものとみなされます。感情の強さでは、ゲームもギャンブラーも同じことです。
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こう考えを並べていくと、解放と救済を表したこの絵の雰囲気を説明しやすくなります。患者は、 明らかにこの瞬間を精霊の息吹と感じたのです。バガヴァッド・ギータのテキストは、クリシュナは自己であることをはっきりさせており、患者のアニムスはそれに同一化しています。影(暗い面)に充分気づいていないと、この同一化が必ず起こります。あらゆる元型のように、アニムスにもヤヌスの顔があり、またそれが男性原理の存在の限界なのです。したがって彼は神か自己を問わず、全体性を表すにはまったく適していません。アニムスは中間的な位置に満足しなければなりません。しかしながら、インドの神智論の特徴を一般化するのは、患者に、一時的にせよアニムスを全体的なものと同一視すること、または自己に置きかえるといったある種心理的な短絡を引き起こします。
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図30
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図29と同じモチーフが、図2の描き手によって分化した形で現れています。葉のない樹は極めて抽象的に図案化され、修道服を纏った小人のような人物も同様です。外へ伸びる腕はバランスと十字架を表します。一方では天から下りてくる幻想的な花のように彩られた鳥[023]と、もう一方では足元から突き出している明らかにファリックな矢によって、人物の両義性が強調されています。つまり魔物は、知性と性の結合と同じく、ちょうど練金術におけるメルクリウスの二面性のように左右の均衡を表し、またラピスの形のときは、その魔物は4つの元素を束ねる四面性を示すのです。地球に下りていく縞の帯は、『個性化過程の研究』で議論したメルクリウスの帯[024]を思い起こします。患者自身もそれが水銀であると考えていました。
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メルクリウスの錬金術の考え方は、もっぱら男性心理から導き出されたもので、男性に起こる、知性と性の典型的対立を象徴化しています。それは結合するはずの女性のエロスが欠けているためです。この絵のアニムス像は、個性化過程で女性の精神から結晶した純粋に男性的心理なのです。
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図31
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前の図と同じ患者による刺繍です。樹は蓮の花が開いたものに変わり、花の中には妖精のような人物がすわっていて、蓮が神の生まれるところであることを思い起こさせます。東洋の影響は2つの図柄にあきらかですが、図28や図29とは違ったものになっています。西洋で学ばれ模倣されたインド神智論ではなく、患者が生まれた東洋で、知らず知らずに身についたものです。しかも精神のバランスを崩すほど、内部まで深く浸透しています。
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この図柄で、魔物は明らかに後ろへ退き、樹冠は豊かに茂りました。葉と花はリースやコロナとなって、花のようにセンターの周りを囲みます。錬金術で使われるコロナ、または「汝の心の王冠(diadema cordis tui)」という言葉は完全性のシンボルです。この図に表れた王冠は、成長過程の頂点、あるいは最高点に達したことを象徴しています。それはマンダラ、つまり中国の「黄金の華」、西洋錬金術では「サファイアの花」の形をとっています。もはやアニムスは自己の王位を奪うことは出来ず、自己はアニムスを超えたのです。
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図32
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ほかの絵と違い、この絵を載せるのにはためらいがあります。患者は見聞きしたものに影響されていないという点では、この素材は純粋とはいえません。とはいえ絵が自然に描かれたという点では「正統」なもので、他のすべてと同じように内的経験を表現しています。ただ自分のアイデアをテーマに沿ってよりはっきりと、目にみえる形にするのにそれを役立てたに過ぎません。その結果、この絵は非常に多くの素材を含んでいます。ここで説明はしませんが、その主要な構成要素は、既に議論されたもので、関連文献にもあるものです。ここで実際に描かれた樹は、ともかくオリジナルです。私は、シンボリズムの知識が絵を描くときに、どういう影響を持ちうるかを示すためだけに、この絵をお見せします。
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樹のシンボリズムについて巧まず語った文学作品で、この一連の絵を閉じることにしましょう。詩『黒い太陽(Soleil Noir)』(1952)でノエル・ピエール(私は直接知らない、フランスの現代詩人)が無意識の真の体験を語っています。
J'arrivais de la sorte sur une crape
D'où baîllait un aven embué.
Une foule compacte s'y pressait
Des quatre directions. Je m'y mêlais.
Je remarquais que nous roulions en spirale,
Un tourbillon dans l'entonnoir nous aspirait.
Dans l'axe, un catalpa gigantesque
Où pendaient les cœurs des morts,
A chaque fourche avait élu résidence
Un petit sage qui m'observait en clignotant.
......................................................................................
Jusqu'au fond, où s'étalent les lagunes.
Quelle quiétude, au Nœud des Choses!
Sous l'Arbre de ma Vie, le Dernier Fleuve
Entoure une Ile où s'érige
Dans les brumes un cube de roche grise,
Une Forteresse, la Capitale des Mondes. [025]
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ここで語られる主な特性は次の通りです。
(1) 人類の宇宙の中心点。
(2) 螺旋回転[026]。
(3) 生命の、そして死の樹。
(4) 樹とともにある人の生命の中心としての心臓[027]。
(5) 小人の姿に表れる自然の知恵。
(6) 生命の樹の在処としての島。
(7) 立方体=哲学者の石=樹に守られた宝物。
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