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back.gif6.ドルンの樹の解釈

C・G・ユング
「錬金術研究」V

哲学の樹

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11.逆さの樹

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 樹は、しばしば「逆さの樹(arbor inversa)」[11-01]と呼ばれます。ラウレンティウス・ヴェントゥラ (16世紀)は次のように言っています。「その鉱石の根は空中にあり、樹の先端は大地の中にある。そして樹がもぎ取られるとき、恐ろしい音が聞こえ、そして大きな恐怖がそれに続くだろう」[11-02]。ヴェントゥラは明らかにマンドレークのことを考えています。マンドレークは、黒犬のしっぽに結び付け土から引き抜かれるとき叫び声をあげます。同様に『Gloria mundi(世界の栄光)』では、哲学者たちが次のように言ったと言及しています。「鉱物の根は空気中にあり、その先端は大地にある」[11-03]。ジョージ・リプリー卿は次のように言っています。樹はその根を空中に持つが、その他の場合には、「栄光に輝く大地」や楽園の大地、あるいは未来の世界に持っている。

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 同様にヴィジェネールは以下のように述べています。「ヨセフス・カルニトルスの息子ラビは」次のように言った、「上のものに支えられながら下のものができ、最後の部分がこの地上にある。まるで逆さの樹のように」と[11-04]。ヴィジェネールはカバラの知識を持っていました。そして実際、神秘主義的な世界樹であるセフィロートの樹と哲学の樹を比較しています。しかし彼にとってセフィロートは人も意味しています。彼は『雅歌』7:5(DV)「汝の頭はカルメル山のようだ。汝の頭の髪の毛は王の印としてカナルが結び付けられている(comae capitis tui sicut purpura Regis vincta[11-05] canalibis)」に言及して、髪の毛という根によって人は楽園にはめ込まれるという、他に類をみない考えを確証します。カナルとは、小さな管で、髪飾りのようなものです[11-06]。クノール・フォン・ローゼンロートは、「偉大なる樹」がティフェレト、すなわちマルクト[11-07]の花婿と関連しているという意見です。セフィロートの樹のビナーの部分は「樹の根」[11-08]と名づけられており、生命の樹がビナーに根ざしています。これは楽園の中央に位置していたので、中央の線と呼ばれていました。いわばセフィロートの幹である中央の線を通って、生命はビナーから地上へともたらされました[11-09]

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 人は逆さの樹であるという考えは、中世では通用していたようです。人文主義者のアンドレア・アルチャーティー(1550)は『注解付きエンブレム集(Emblemata cum commentariis)』で次のように言っています。「人を逆さまに立っている樹とみることを、自然科学者たちは気に入った。根と幹と葉は、頭と胴と手足である」[11-10]。インド的な概念との結びつきは、プラトンが示しています[11-11]。『バガヴァドギータ』第15章でクリシュナは次のように述べています。「私は山でいったらヒマラヤであり、樹でいったらアスワッタ(ashvattha)である」。アスワッタ(菩提樹)が不死の水、ソーマ[11-12]を地上に降り注いでいます。バガヴァドギータは次のように続けます。

 決して枯れない菩提樹があるという
 根は上に 枝は下に
 葉の一つ一つがヴェーダの賛歌
 この樹を知る者は全ヴェーダを知る

 上下に拡がる枝は物質自然の三性質に養われ
 無数の小枝は感覚の対象
 この樹にはまた下方に伸びる根もあって
 人間社会の名利を求める仕事に結びつく [11-13]

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 オプスを樹で表し、各段階を葉として[11-14]示している錬金術の図は、ヴェーダによる救出、すなわち知識による救出というインドの概念を思い出させます。ヒンドゥー教の書物では、樹は上から下へと育っており、一方錬金術では(絵によると)、下から上に向かって育っています。『新しき高価な真珠(Pretiosa margarita novella)』(1546)[11-15]の図解では、アスパラガスに非常によく似ています。私の絵のシリーズの図27には同じモチーフが含まれています。そして実際、アスパラガスの隆起する茎は、無意識の要素が意識に突き出るという絵の描写です。東洋と西洋と互いによく似て、樹は生きているプロセスと同様に悟りのプロセスも象徴しています。悟りは知性によって理解されるかもしれませんが、知性と悟りとを混同してはいけません。

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 宝の守護者としての樹は、錬金術的なおとぎ話『瓶のなかの精霊』に出てきます。果実として現れる宝を含むので、樹は一般に冶金術(chrysopoea)や造金術(ars aurifera)のシンボルです。これは『ヘルクレス(Hercules)』[11-16]によって主張された原則と一致しています。「この自然の変成力は、まず最初は根から現れ、その後いくつかに広がり、そして一つのものに戻る」[11-17]。リプリー卿は御業を、ぶどうの樹を栽培するノアに喩えます[11-18]。ジャビールでは樹は「神秘的なギンバイカ」であり、ヘルメスでは「知恵のブドウ酒」[11-20]です。ホーゲランデは言います。「しかし、果実は完璧な樹から春の初めに発せられ、終末を予示する最初の兆しに花を咲かせる」[11-21]。このことから、樹の生涯はオプスを表すことが明らかです。ご存知の通り、樹は季節とともに盛衰します。果実は春に実り、秋に花を咲かせるという事実は、反転のモチーフ(逆さの樹!)や反自然のオプス(opus contra naturam)に関係があるのかもしれません。『上智の寓意(Allegoriae sapientum supra librum Turbae)』には次のようなレシピがあります。「樹を石に植えれば風にうたれる恐れはなく、天国の鳥がやってきてその枝で繁殖し、やがて英知がおとづれる」。樹は真実の基礎であり、オプスの奥義でもあります。その奥義は、おおいにほめたたえられた宝庫の中の宝庫です。金属の樹が7つの枝を持っているのと同じように、黙想の樹も『観照の樹について(De arbore contemplationis)』[11-24]と題された論文が示すように、7つの枝を持っています。その樹は7つの枝を持つヤシの樹で、それぞれの枝には鳥がとまっています。「クジャク、(判読不能)、ハクチョウ、オウギワシ、ナイチンゲール、ツバメ、不死鳥」。そして、樹には花が咲いています。「スミレ、グラディオラス、ユリ、バラ、クロッカス、ヒマワリ、(判読不能)」。それぞれ寓意があります。これらの考えは、錬金術師たちの考えと非常によく似ています。彼らはレトルトの中に樹を黙想しました。『化学の結婚(Chymical wedding)』によると、そのレトルトは天使の手の中に委ねられていました[11-25]


12.鳥と蛇

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 これまで述べてきたように、鳥は樹と特別な関係にあります。『アルベルトゥス草稿(Scriptum Alberti)』によると、アレクサンダー大王が彼の偉大なる旅で、「栄光ある緑色(viriditas gloriosa)」を内に持つ樹を見つけたと述べられています。この樹にコウノトリが止まっていたので、アレクサンダーは「彼の旅にふさわしい終わり方をする」[12-01]ために黄金の宮殿を建てました。鳥のいる樹は、オプスとその完成を表しています。モチーフは絵の形式ではっきりとします[12-02]。樹の葉が中で成長するという事実は、反自然的オプスの別の例であり、同時に黙想的な状態における内向の具体的な表現でもあります。

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 蛇もまた、聖書の話と照らし合わせてみても明らかなように、樹と関係があります。正確に言えば、なによりもそれは水銀の蛇(mercurial serpent)のことで、太古の「生きている精霊」として根から枝に向けて昇っています。特にそれは樹霊を表し、メリュジーヌとして現れます[12-03]。水銀の蛇は、自身を樹に変形させ、その生命を構成する神秘体です。これは『アルベルトゥス草稿(Scriptum Alberti)』で実証されています。このテキストはおそらく絵の註釈でしょうが、残念ながら1602年版には絵がありません。それは次のように始まります。「これは天界の絵である。天球と名づけられ、8つの高貴な姿を含んでいる。すなわち、一つめの姿は、最初の円と名づけられ、神格の円である」等[12-04]。同心円の絵が描かれていたことは明らかです。最初の、最も外側の円は「神聖なる言葉(verba divinitatis)」、つまり神聖な世界秩序を含んでいます。二つめは7つの惑星で、三つめは「壊れやすく創造的な」要素(generabilia)です。四つめは7つの惑星から生まれる、怒る竜です。そして五つめは竜の「頭と死」。竜の頭は「永遠に生きている」。それは「栄光なる生命」と名づけられ「天使がそれに仕えている」。竜頭(caput draconis)は、マタイ4章11の「御使いたちが近づいて来て仕えた」という言葉から、ここでは明らかにキリストと同一視されています。ここでキリストはサターンと縁を切っています。しかしながら竜の頭がキリストと同一視されるならば、竜の尾は反キリストや悪魔と一致しなければなりません。テキストによると竜の体全体は頭によって吸収されるので、悪魔はキリストと統合されます。竜は神の御姿(imago Dei)と戦いましたが、神の力により御姿が竜にはめ込まれ、その頭を形作りました。「体全体は頭に服従する。そして頭は体を嫌い、尾から順番に歯でかじり殺害する。体全体が頭に入るまで。そして永久にそのままである」[12-05]。六つめの円は、6人の人型と2羽の鳥で、コウノトリが含まれています。人型の一つはエチオピア人のようだとテキストにかかれているので、おそらく人間です[12-06]。コウノトリは、ペリカンと同じく、丸い容器(円形の蒸留器)を表しているのは明らかです[12-07]。6つの姿はそれぞれ変容の3段階を表しています。そして2羽の鳥と共に、それらは変容のプロセスのシンボルとして八つ組になっています。テキストによると、七つめの円は「神聖なる世界秩序」の関係を示しています。そして八つめの円には7つの惑星があり、それらは黄金の樹を含んでいます。七つめの円の中身については黙するべし、と著者は述べています。そこが偉大なる秘密の始まりであり、神自身によってのみ明らかにされうるものであるからです。ここで王が王冠につける石が見つけられます。「賢い女性はそれを隠し、愚かな乙女は人前に晒す。いずれも、さらわれたいと望むが故に。ローマ法皇、聖職者、修道士は石をののしる。それは、神自らの定めたところにより神が命じたが故に」。

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 八つめの円にある黄金の樹は「稲妻のように」輝きます。ヤコブ・ベーメによると、錬金術における稲妻は、突然の歓喜と解明を意味します[12-08]。樹の上には、コウノトリがとまっています。六つめの円のコウノトリは3段階の2つの変質のための蒸留する器具を表すのに対し、黄金の樹にとまっているコウノトリは、より広い意味を持っています。大昔から「献身的な鳥(pia avis)」であると思われていました。そして、レビ記11章19で不浄の動物の中にリストアップされているにもかかわらず、それ自体ハガダの伝統に現れます[12-09]。コウノトリのその献身については、エレミヤ書8章7に遡ります。「天のコウノトリは約束された時間を知っている。…なのに人々は、主による審判を知らない」。ローマ帝国では、コウノトリは献身の寓意を持っていました。キリスト教の伝統では、コウノトリが蛇を殺すので、キリストの裁きの寓意があります。蛇や竜が太古神的な樹霊であるように、コウノトリはその霊的な原理で、アントロポスのシンボルとなります[12-10]。錬金術的なコウノトリの始まりとして、チュートン神話のアデバール(Adebar)というコウノトリが挙げられます。アデバールは死者の魂を大地に戻し、魂はハルダの泉に入ると復活します[12-11]。『草稿』をアルベルトゥス・マグヌスの作品と考えることは大いに疑わしいです。その文体で判断すると、哲学の樹の議論を16世紀より前に位置づけることは難しいです。

13.女性の樹霊

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 変質と再生の場所として、樹は女性の意味、そして母の意味を持ちます。リプリー卿の『スクロール』で、樹霊はメリュジーヌであることを見てきました。『パンドラ』の樹の幹は、両手にトーチを掲げ、王冠を戴く裸の女性の姿をしています。そして彼女の頭からでた枝にはワシがとまっています[13-01]。ヘレニズムの遺跡のイシスはメリュジーヌの形をしており、属性の一つがトーチです。その他の属性として、ブドウとシュロの樹があります。レトもマリアもシュロの樹の下で生まれました[13-02]。仏陀の誕生のとき、摩耶夫人は神聖な樹に覆われていました。「ヘブライ人が言うには」アダムは「生命の樹の大地」、すなわち「赤いダマスカスの大地」から創造されました[13-03]。この言い伝えによると、アダムと生命の樹との関係は、仏陀と菩提樹(Bodhi tree)との関係と同じものでした。

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 樹の女性的で母性的な本質は、サピエンティア(上智)との関係においても見られます。創世記における知恵の樹は、エノク書で英知の樹であり、その果実はぶどうに似ています[13-04]。教父エイレナイオスが報告しているバルベリオット派の教えでは[13-05]、創造主が最後に「完璧であり真実である、皆にアダムと呼ばれる男性」を創造しています。アダムを作る時に完璧な知識は作られました。「(完璧な)人とグノーシス(霊知)から樹が生まれ、その樹もまたグノーシスと呼ばれる」[13-06]。ここで私たちはアダムと仏陀のケースと同様の、人と樹の関係を見ることが出来ます。同じ関係が『錬金術抄録(Acta Archelai)』でも見られます。「しかし、善なるものが知られる楽園にある樹は、イエスであり、その樹は知識でもある。その知識は世界中を満たしている」[13-07]。『上智の寓意』でも「その樹から英知が訪れよう」と書かれています[13-08]

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 樹についての同じような考え方が、錬金術でも見られます。既に逆さの樹としての人間という概念は見てきました。その見解をカバラでも見ることが出来ます。『エリエゼル師のピルケ(Pirke de Rabbi Eliezer)』[13-09]は次のように言っています。「ゼヒラは『樹の果実の』と言った。―この『樹』はただ人を意味している。人は樹と比較される。『野の木は人間なのか』と(申命記20章19)」。『ユスティヌスの霊知(the gnosis of Justin)』では、エデンの園の樹は天使です。一方、善と悪の知恵の樹は、第三の母のような天使ナアスです[13-10]。樹魂が男性と女性に分割されることは、樹の生命原理である錬金術的なメルクリウスと対応しています。それは、二重性である両性具有のようだからです[13-11]。樹の幹が女性の姿をしている『パンドラ』の絵では、英知の女性的側面がメルクリウスに言及されています。そして男性の側面は、老メルクリウスやヘルメス・トリスメギストスの姿で描かれています。


14.ラピスとしての樹

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 樹と人が錬金術の中心的なシンボルであるのと同じように、ラピスには、第一質料であり最終質料であるという二重の意味があります。「樹を石に植えれば風にうたれる恐れはなく」という『上智の寓意』からの引用は、砂の上に建てられ、洪水がおこり風のふいた時には壊れる家の喩え話のようです(マタイ福音書7章26-27)。それゆえに石は、正しい第一質料によって提供されるしっかりとした基礎を意味します。しかしこの文脈は、石の象徴的な意味を強調します。それは次の文からも明らかです。「汝の全ての力を持って知恵を手に入れなさい。すると汝は永遠の生命に到るだろう。汝の石が固まり、汝の不調がなくなり、そこから生命が訪れる」[14-01]

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 「第一質料は油性水で、哲学の石である。そしてそれから枝が無限に繁殖する」とミリウスは言います[14-02]。ここで石はそれ自体が樹であり「火のような物質」(グノーシス主義者のuJgra; oujsiva〔湿った水〕)や「油性の水」として理解されます。水と油は混ざり合わないので、これはメルクリウスの二重な本質や自己矛盾する本質をあらわしています。

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 同様に、セニオールについて論評している『結合の会議(Consilium coniugii)』では次のように述べられています。「このように石は本質的に完璧である。その樹は枝・葉・花・果実が、樹から・樹を通じて・樹のために生じるので、それ自身が全体や全体性(tota vel totum)以外の何ものでもない」[14-03]。それゆえに、樹は石のように全体のシンボルであります。クーンラートは言います。

 それ自体の・それから・その中に・それ自体をとおして作られ、知恵の石は完璧になる。それはただひとつのことである。その根・茎・枝・小枝・葉・花・果実は、それのもので・それによって・それから・それにあり、(セニオールの言うように)全てが一つの種からなる樹のようだ。それ自体が全てであり、他の何もそれを作ることはない。[14-04]

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 アラビアの『オスタネスの書(Book of Ostanes)』に、神秘体や水の記述があります。それはさまざまな形をしており、初めは白く、次に黒く、それから赤くなります。そして最後に可燃性の水か、あるいはペルシアの石で点火された火となります。テキストは次のように続きます。

 それは山の頂上に育つ樹であり、エジプトで生まれる若い男である。彼はアンダルシアの王子であり、求道者の苦痛を求める。彼は先導者を殺害する。…賢人は彼に対抗するには無力である。彼に対抗するには忍従以外の武器はなく、知識以外の軍馬はなく、悟性以外の円楯はない。求道者がこれらの武器を身につけて彼の前に立っていることに気づき、彼を殺害すると、彼(王子)は死んだ後に生き返るだろう。王子は対抗する全ての力を失い、求道者にいちばん強い力を与え、そして彼は自分の望んだ目標に到達するだろう。[14-05]

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 この変遷が描かれる章は、次の言葉で始まります。「賢人は次のように言った。弟子にまず必要なのは、石を知ることである。その石は古えの人たちが熱望したものである」。水や樹、若いエジプト人、アンダルシアの王子は、全てこの石を指しています。水・樹・人は、ここでは石の同義語です。王子は重要なシンボルで、少し解説が必要です。これは、ギルガメシュ叙事詩に見られる元型のモチーフを繰り返しています。ギルガメッシュに襲われた女神イシュタルは、神々にエンキドゥを作らせました。エンキドゥは地下霊的存在で、ギルガメシュの影であり、英雄ギルガメッシュを殺すかもしれません。同じように、王子は「求道者の苦悩」を望みます。彼は彼らの敵であり、彼らの指導者、すなわち御業の師と権威者を「殺害」します。

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 敵対的な石のモチーフは『上智の寓意』で次のように表されています。「汝の石が敵になるのでなければ、汝はその望みを遂げないだろう」[14-06]。この敵は、錬金術においては、悪意ある、もしくは火をふく竜の姿をしていたりライオンとして現れます。ライオンの足は短く切られ[14-07]、竜は殺されるでしょう。さもなければ自分自身を殺したり、むさぼり食います。それはデモクリトスの原理「自然は自然を喜び、自然は自然を支配し、自然は自然に打ち勝つ」に従っています[14-08]

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 錬金術の権威者を殺害することは、『パンドラ』の興味深い絵を連想させます。その絵には、メリュジーヌがキリストのわき腹を槍で突き刺す姿が描かれています[14-09]。メリュジーヌはグノーシス主義のエデム(Edem)に対応しており、メルクリウスの女性の外観、すなわち女性的ヌース(ナアセン派のナアス)を表します。それは私たちの最初の両親をそそのかす蛇の姿をしています。『アレクサンダー大王への論考(Tractatus ad Alexandrum Magnum)』からの前述の引用に、この対応物は見られます。「その果実を摘み集めなさい。その樹の果実は私たちを暗黒の中へ、そして暗黒の終わりまで導くから」[14-10]。この忠告は聖書と教会の権威を明らかに否定するので、意識的に教会の伝統に反抗した人によって発言されたと考えられます。

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 ギルガメシュ叙事詩との結びつきは興味深いものです。というのもオスタネスはペルシア人で、アレクサンダー大王と同時代の人と考えられるからです。エンギドゥやアンダルシアの王子が最初に持つ敵意は、石の持つ敵意と対応するので、一般にカーディルの伝説が思い浮かぶかも知れません[14-11]。アラーの使者カーディルは、最初その悪行によってモーゼを恐がらせます。思索的な経験や教訓的な物語として考えると、伝説は、一方ではモーゼの影である下僕ヨシュア・ベン・ヌンとモーゼとの関係、そしてもう一方ではカーディル自身とモーゼとの関係を述べています[14-12]。これと同様に、ラピスやその同義語は自己のシンボルです。心理学的には、次のようなことを意味します。自己と最初に出会うとき、これらのネガティブな性質は、無意識との予想しない出会いをほとんど常に特徴づけるように現れます。この危険性とは無意識が氾濫する危険性であり、意識的な心が、知的にも道徳的にも、無意識の中身の侵入を同化することができないならば、最悪の場合精神病の形をとるかもしれません[14-13]


15.御業の危険性

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 『立ち昇る曙光』では、御業をおびやかす危険性に関して述べられています。「理解されなかった賢明なる言説がどれだけあるのだろうか。彼らの愚かさ、そして彼らが霊的な理解に欠けていたためにそれらは消滅した」[15-01]。ホーゲランデは次のような意見を述べています。「御業全体は、確かに難しさと危険性を持つようになる。そして、思慮ある人は、もっとも有害なものとしてそれを避けるだろう」[15-02]。アエギディウス・デ・ヴァディスは次のように言うとき、同じことを感じています。「私はこの科学については口を閉ざしておく。それのなせるもののほとんどは混乱へと導く。というのも、求めるものを見つけるのはほとんど現実的ではなく、しかしながら破滅へと至った者は莫大な数にのぼるからだ」[15-03]。ハリを引用しながら、ホーゲランデは次のように言います。「私たちの石は、石を知っており、どのようにそれが作られるかを知っている人にとっては生命である。そして、石のことや石の作られ方を知らない、石があることの確信が持てず[15-04]、その石を別の石と考えている人は、すでに死に瀕している」[15-05]。ホーゲランデは中毒や爆発が危険なのではなく[15-06]、精神的な逸脱が危険であることを明らかにしています。「悪魔の惑わしを悟り、防護するよう気をつけよ。奴は化学的オプスに巧みに取り入り、実験の成果を無益で役に立たないものとし、自然の働きから目を逸らさせる」[15-07]。彼はこの危険性をアルフィディウスからの引用で立証しています。「この石は、多くの賢人を死へ引き渡してきた崇高で栄光ある脅威の場所に生じる」[15-08]。彼はモイセスからも引用しています。「このオプスは天国から雲がやってくるのと同時に突然生じる」。そして、ミクレリスの引用を付け加え「もしあなたがこの変容を突然目にしたら、怯え・恐れ・震えが生じるだろう。それゆえこのオプスには警戒を伴うのだ」と述べています[15-09]

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 魔力を持つ作用の危険性は『プラトンの4つのものの書(Liber Platonis quartorum)』でも同様に言及されています。「準備の間、ある種の霊がそのオプスを妨害することもあれば、その妨害が存在しないこともある」[15-10]。とりわけそのことを明確に述べているのが、オリュンピオドルス(Olympiodorus 。16世紀)です。「その間ずっと、魔物オフィウコスは私たちの意図を妨げながら、怠慢さを染み込ませる。どこにでも彼は忍び込む。内にも外にも。そして見落とし、恐れ、準備できない状態を引き起こす。いやがらせや危害によって、私たちがオプスを諦めるようにしようとする」[15-11]。彼は「鉛には、人を狂気へと駆り立てる魔物が棲んでいる」とも言っています[15-12]

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 錬金術師が予期し、もしくは期待したこの石の奇跡は、非常に神秘的であったに違いありません。そしてこれによって、秘伝を冒涜することへの聖なる畏怖が説明されます。「魂をとがめることなしにその石の名前を明らかにすることは誰も出来ない。人は神の前で自分自身を正当化することは出来ないのだから」とホーゲランデは言います[15-13]。この罪の自覚は、真剣に受け止められるべきです。彼の論文は、誠実で道理をわきまえた人の仕事です。そして他の人のもったいぶった蒙昧主義、特にルルスの論文とは比べものにならないほど優れています。その石は「千の名」をもっていたので、ホーゲランデがその1つも明らかにしたがらなかったのを不思議に思う人もいるかも知れません。実際、石は錬金術師たちにとって大きな困惑でした。というのも、実際に作られたことがなく、それが実のところ何なのか誰にも言うことができなかったからです。私から見て最も確かな仮説は、石とは心的経験であったというものです。この仮説は、精神障害の恐れが繰り返し表現されることの説明となります。

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 中国最古の錬金術師として知られている魏伯陽(2世紀)は、オプスの間に失敗をする結果生じる危険性について、有益な説明をしています。短い摘要の後半部に、彼はchen-yen(真人?)という、真実の人であり、完璧な人、そして作業の始まりと終わりである人について述べています。「彼は存在し、存在しない。彼は、突然埋没し突然浮かび上がる巨大な水たまりのようだ」。その人は、ドルンの「真実(veritas)」[15-14]のように有形の物質として現れます。そして「直角と丸さ、直径と面積が交じり合っており、それがお互いに妨害している。そして天国と大地の始まり以前に存在していた。威厳があり、高貴で、そして崇敬される」[15-15]。これは、私たちが西洋錬金術で見ることのできる最高のヌミノース性の印象を伝えます。

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 著者は、次のような境地を語り始めます。「全ての面が閉ざされ、その内部に相交わる迷路が作り上げられる。その守りは完全であり、悪魔のようなものや望ましくないもの全てを追い払う。…思考停止は望ましく、心配はばかげたものである。聖なる『気』(空気、霊、エーテル的本質)はあたりを満たし、それは押しとどめることはできない。それを保持する人は誰でも成功し、それを失う人は非業の死を遂げる」。後者は「間違った方法」を用いたのでしょう。間違っている人はどんな事柄でも、太陽と星の推移に頼って自分の処し方を決めます。いいかえれば、中国風の行動規範に従い、合理的で規則正しい人生を送ろうと努めます。しかしそれは、女性原理(陰)のタオ(道)が喜ぶことではありません。意識の秩序原理は、無意識(人の中にある女性的特徴)と調和しません。もし術士が伝統的に理にかなっているとみなされる規範で人生を律するならば、彼は自分自身を危険へと導きます。「結局、災いは黒塊にやってくる」。黒塊は混乱塊(massa confusa)であり混沌であり、西洋錬金術の黒化(ニグレド)であり、第一質料です。それは外側は黒く、内側は白色をしています。それは暗闇におおわれた真人です。全体なる人は、合理的で正しい人生の行いにおびやかされ、その特性は妨げられ、間違った道へとそらされます。「気」すなわち第五元素(西洋錬金術におけるバラ色に染まった血)を「押しとどめ」ることはできません[15-16]。自己は自らを意識に示そうと躍起になり、意識を圧倒してしまう恐れがあります。この危険性は西洋錬金術師にとって特に顕著でした。というのも「キリストのまねび(imitatio Christi)」の観念により、魂の物質からバラ色に染められた血の形を引き出すことが、強いられている課題とみなされていたからです。錬金術師は、これらの要求が過剰に課せられているかどうかにかかわらず、自己の要求を実現するよう道徳上強いられていると感じました。彼にとって、神と至高の道徳原理がこの自己犠牲を求めていると思われました。人がこれら要求のせきたてる力に道をゆずり、非業の死を遂げるとき、人はその器を破壊され、そのうえ自己はそのもくろみを失うこととなります。これが真の自己犠牲、真の自己のウーシア(存在)です。中国の師が正しく述べているように、社会生活以外の何かが問題となるとき、つまり無意識の統合と個性化過程が問題となるときに、伝統的・道徳的・合理的な行動原理を貫くこととすると、こうした危険が生じます。

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 魏伯陽は、誤りの生理学的な結果と心的な結果を図示しながら表しています。「食べたものからガスが発生し、腸と胃の中で騒音が生まれる。正しい気は吐き捨てられ、悪い気が吸い込まれる。昼と夜が過ぎても、幾晩も眠ることが出来ない。身体は疲れ果て、心神喪失の状態が生じる。頻脈が生じ、心と身体の平穏は激しく取り払われる」。(意識的な道徳に従って)寺院を建立したり、朝夕神仏を熱心に拝んだり供物を捧げたりしても、なんの役にも立ちません[15-17]。「亡霊たちが現れ、たとえ眠りの中でも驚かされる。そして不老長寿を保証されたと考え、喜んだとしても、不意に死に襲われることとなる」。著者は教訓を添えます。「わずかな誤りが重大な災いを導く」。西洋錬金術の洞察は、これらの深みにまでは達しませんでした。にもかかわらず、錬金術師たちはその仕事の微妙な危険性に気づいていました。そして重大な要求が術士の知性だけでなく、道徳上の質においてもなされることを知っていました。かくしてクリスチャン・ローゼンクロイツ[15-18]の言う「王族の結婚」へと繋がっていきます。

 不断の警戒をし、寄せつけてはならない。
 汝自身をじっと見つめなさい。
 一心不乱に浸るのでなければ、
 「結婚」は汝を傷つけずに救うことは出来ない。
 彼の受くる損害はここで遅れてやってくる。
 軽すぎて計れはしない、彼の目を覚ませよ。

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 『化学の結婚』で生じることは、単に王と王妃の変容や合一に関係するだけではなく、術士の個体化とも関係があるのは明らかです。影やアニマとの合一は困難なもので、たやすく執り行うことは出来ません。対立物の問題が浮び、答えようのない疑問と直面し、それに伴い、ヌミノース的な体験を引き起こしながら補償的な元型内容が布置されます。後にコンプレックス心理学が発見したシンボル系は、知的な素養としては限られながらも、ずっと昔の錬金術師たちにも知られていました。ラウレンティウス・ヴェントゥラはこの洞察を、簡潔な言葉で表現しています。「このオプスの完成は、御業の力にあるのではなく、最も慈悲深き神が授けたいと望まれた者へと授けてくれるのである。そして、この点にあらゆる危険が存在する」[15-19]。「最も慈悲深き」という言葉は、おそらく悪を避けるための婉曲語句として用いられていることを付け加えておきます。

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