title.gifBarbaroi!
back.gif11.逆さの樹

C・G・ユング
「錬金術研究」V

哲学の樹

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16.防御手段としての悟性

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 熟達者を脅かす危険についてはこれくらいにして、14章で扱ったオスタネスの書からの引用に戻ってみたいと思います。ラピスがアンダルシア王子の姿になったとき、それに抗うすべなどないことを熟達者は知っていました。ラピスはとても強く、熟達者の武器は3つ —「忍従」・「知識」の軍馬・「悟性」の円楯 — しかありません。このことから明らかなように、彼らは無抵抗の教えによく従っているばかりではなく、知性と悟性のうちに難を逃れてもいました。ラピスの力が何より勝ることは、次の格言からも分かります。「哲学者は石の主人にあらず。むしろ、その下僕なり」[16-01]。その力に服従せざるをえないのは明らかですが、しかし、ゆくゆくは王子を殺害しうる悟性を隠し持っていました。熟達者は(全身全霊をかけ)一見打ち勝てそうにないものを理解し、石の力を打ち破ろうとしていたのだと思います。秘密の名を言い当てた者が相手を支配する力を持つということは、昔話のモチーフ(Rumpelstilzchen〔『グリム』KHM55〕)として知られているばかりではなく、とても古くからある原始的な信念なのです。心理療法において、手の着けようのない神経症の症状が、その根底に横たわる内容を意識的に理解し体験することで、無害なものへと変化することはよく知られています。このことはとても分かりやすいと思います。症状を維持していたエネルギーが意識の自由のもとに置かれ、活力の増加を促すとともに、無用な抑制やこの種の障害を軽減するわけです。

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 オスタネスの書を理解するためには、この体験に心を留めねばなりません。こうした体験は、無意識的であったヌミノース的な内容が意識へと昇ってきたときには必ず起こります。意図しなかった場合でも、なにか方法を用いた場合でも、同じように起こります。どの魔術文書でも、魔物を折伏すれば、熟達者はその魔力を手に入れるだろうと考えられていました。私たちの近代的な意識でも、同じように考えたくなる気持ちに打ち勝つのは難しいかも知れません。洞察によって心的内容は処理しうる、と安易に考えがちです。でもこの考えが有効なのは、あまり重要でない内容のときだけです。ヌミノース的な観念複合体は、形を変えることはできても、いろいろな形態に変わるだけで、全く無効になってしまうような消失は起こり得ません。心的内容には自律性があり、抑圧したりシステム的に無視したりすれば、否定的で破壊的な姿となって別の場所から再び顔を出します。魔術師が悪魔を使いこなしていると自分では思っていても、最後は悪魔に命を奪われるのです。自分の目的のために、使い魔として魔物を使役しようなどとは無駄な努力です。反対に、この両価的な魔物の自律性を、敬虔に心へ留めておかねばなりません。この自律性こそ、私たちを個性化へと駆り立てる畏るべき力の源なのです。その結果、錬金術師たちはためらいもなく、積極的に石に神聖な属性を与え、ミクロコスモであり人間であるものとして、キリストと同等と見なしました。「そして、この点にあらゆる危険が存在する」。自らの心を破壊してしまう危険を冒してまで、狭い人間の鋳型にヌミノース的存在を押し込めることはできないし、そうすべきでもありません。この魔物は、人の意識や意志よりも大きいのです。

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 無意識が生み出したシンボルを錬金術師が呪縛の言葉としてうっかり使ってしまうように、現代人も、無意識を否定するつもりなのに、似た使い方を知的概念でしてしまうことがあります。それはまるで、理性や知性によって無意識の自律性が召還されたかのようです。とても不思議なことですが、いろいろな人の中でとりわけこのユングは、「生きている魂」を知的概念に置き換えようと目論んでいる輩だと批判する人たちがいます。私の概念が経験に裏打ちされた発見に基づき、ある特殊な経験領域での名称以外の何ものでもないという事実に、どうしてこの人たちが目を向けずにやってこれたのか、見当が付きません。もしどんな事実に基づくか今まで示してこなかったのなら、こうした誤解も分からないでもありませんが。私が語っているのは「生きている魂」についての事実であって、哲学的なアクロバットをやっているのではないという明白な真実を、こうした批評家たちは熱心に見逃しているのです。


17.拷問のモチーフ

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 オスタネスの書は、錬金術師の体験した個性化過程についての現象学に、価値ある洞察を与えてくれます。特に、アンダルシア王子が御業師に望んだ「責め苦」への言及に興味をそそられます。このモチーフは西洋の文献でもよく現れますが、逆の形を取ります。責めを受けるのは御業師ではなく、メルクリウスやラピス、樹だったりします。役割の反転が起こっていることから、実際には御業師が責めを受ける側なのに、想像の中で自らが責め手となっていることが分かります。本人が事実に気がつくのは後々のことで、そのとき自らが犠牲になる作業の危険性に気づくのです。投影された拷問の典型例としては、ゾーシモスの幻視があります[17-01]。『哲学者の群』では「古き黒霊を取り、以てその肉体どもを打ち砕き責めよ[17-02]、それらが変わるまで」[17-03]と書かれています。別のところでも、哲学者が居並ぶ学者たちにこう告げます。「責められしものは、肉体に浸されるとき、不変不滅の性質を肉体に与えるであろう」[17-04]。また『言葉の世界(Mundus in Sermo)XVIII』では「秘実を探し求め[17-05]、また見い出す者がいかに多くとも、その責め苦に堪え忍べる者ぞなし」[17-06]となっています。

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 引用から分かるように、拷問の概念は曖昧なものです。最初の引用では、肉体、つまりオプスの原材料が責めを受けています。 2つめの「責められしもの」とは明らかに、「もの(res)」と呼ばれる、神秘体のことです。そして3番目の、責め苦に堪え忍ぶことができないのは、求道者自身です。この曖昧さは偶然ではありません。深い理由が秘められています。

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 『哲学者の群』のラテン語訳と同時期の古文書には、魔術パピルス文書のような、ぞっとするレシピが並んでいます。たとえば、生きた雄鳥から腸を取り出したり[17-07]、生きた雄鶏の羽根をむしったり[17-08]、熱した石に人を乗せて干涸らびさせたり[17-09]、手や足を切り落としたり[17-10]、といった具合です。ここでは肉体が拷問にさらされています。しかし同じくらい古い『ミクレリス論考(Tractatus Micreris)』[17-11]には別バージョンが書かれています。そこでは、創造主が肉体から霊魂を引き出し、審判に掛け、報いを与えるのと同じように「我々もまたその霊魂に甘き言葉(adutlatio uti)[17-12]をささやきかけたり、重き懲らしめ(poenis(罰)。 余白注では laboribus(苦役))に処さんと脅しつけたりすべし」。この点について聴き手の側に、もはや肉体に宿っていないのに、霊魂のような「微細なもの」をこんな風に扱えるのだろうかと疑問が浮かんできます。その師は答えます。「霊魂を責め苦しめるには、捉えがたき霊的なものによるべし。それには、霊魂と同族の火のような性質(激情)を用いよ。たとえその肉体を責め苦しめても、霊魂が苦しむことなく、責め苦が届くことなし。霊魂は霊的な性質を持つものであり、そに触れるは霊的なもののみなり」[17-13]

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 ここで苦しめられるのは原材料ではなく、そこから引き出され今や霊的殉教に晒されている霊魂の側です。通常「霊魂」は神秘体に対応し、第一質料か、それを変容させる媒体のことを指しています。すでに見たように、中世には自分たちの御業の有効範囲に思いを巡らせた錬金術師が登場してきますが、その中のペトルス・ボヌスはこう言っています。「(ゲベルが難問と遭遇したように)我々もまた長き茫然自失へと投げ込まれ(in stuporem adducti)、絶望の帷に覆い隠されたり。しかれど、我に返り、際限なき省察の責め苦へ自らの考えを向けしとき、物質と相まみえたり」。彼はここでアヴィセンナを引用しています。アヴィセンナという人は、「我々自らを通して(per nos ipsos)この作業(solutio)を発見すること」の重要性を語っています。「実験以前に分かっていた。長きにわたる、厳しく、細を穿つ瞑想を通して分かっていたことだ」[17-14]

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 ボヌスは、求道者の受ける精神的な責め苦に力点を置きながら、受難を求道者のもとに帰属させています。この点は彼の言うとおりです。なぜなら、元型的な姿を借り化学物質へと投影され、無限の可能性でもって彼らの心を幻惑させる心的プロセス- その自分自身の心的プロセスを瞑想することから、錬金術のとても重要な発見の数々は生まれているからです。その成果についての考え方は、ドルンが「一度たりとも神の光に照らされしことなかりせば、死すべき定めの人間に、この御業を理解することなどあるまじ」[17-15]と言ったように、重要な知識として広く知られていました。

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 物質を責め苦しめることは、ジョージ・リプリー卿の言葉にも出てきています。「その尋常ならざる炎は肉体を責め苦しむべし。それは、竜が荒れ狂い吐き散らす炎。地獄の業火のように」[17-16]。他の多くの錬金術師たちと同様に、このリプリーの言葉には、地獄の責め苦の投影が顕わで全きものとなっています。ペトルス・ボヌスの洞察が再び徹底されるのは、16、17世紀の著者たちにおいてだけでした。ドルンの見解はその際立つもので「それ故ソフィストたちは…様々な責め苦でメルクリウスを責め立てし。昇華・凝結・沈殿・水銀という運命の水(aquae fortes)など責め苦の数々。そのいずれも、避けるべき誤りの道にはあれど」[17-17]と書いています。ドルンの挙げるソフィストには「偉人と称される」(とドルンは嘲るように付記してますが)ゲベルやアルベルトゥスも含まれています。著作『偉大なる自然学(Physica Trismegisti) 』の中で、由緒ある黒化(メラノシスやニグレド)を投影の一種であるとまで言い切ってます。「なぜなら、ヘルメスは『汝からあらゆる暗黒は立ち去るであろう』[17-18]と語ったのであって『金属から』とは言っていない。暗黒によって、身や心の病気や疾病の暗がりを救うものが他にあるとは考えられない」[17-19]

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 『昇る暁I』にある多くの章句がこの点で意義深くあります。『オスタネスの書』によると、他の石に閉じこめられていた石に哲学者の流す涙が懸かるとき、つまり涙によって濡れるとき、石は黒性を失い、真珠のように白くなります[17-20]。『バラ園』ではグラティアヌス帝の言葉を引用しています、「錬金術に高貴なる物質あり。…初め不興(vinegar。酢の意味もある)にうらぶれたれど、後には歓喜とともに愉楽す」[17-21]。『合一的思索』ではニグレド(黒化)を鬱病のことと見なしています[17-22]。ヴィジェネールは「サトゥルヌスの鉛」について「鉛は、神から与えられ感覚をかき乱す、当惑や悪化を意味している」[17-23]と述べています。この熟達者は、それまで神秘体だと考えられていた鉛が抑鬱の主観的状態に当たることに気づいていました。同様に、『隠された黄金(Aurelia occulta)』に女性の姿で出てくる第一質料も、自分の兄弟であるサトゥルヌスのことを「メランコリーの苦しみを通ることで彼の霊に打ち勝つことができた」と言っています[17-24]

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 この思想の文脈において、受難や悲嘆が占める役割はとても重要で、樹がキリストの十字架と関連づけられたとしても不思議ではありません。このアナロジーは、十字架の木が天国の樹に由来していたという古き言い伝えに依拠しています[17-25]。他にも関与している事象として四要素構成があります。そのシンボルが十字架なのです[17-26]。というのも、四元素が一つに結合されるプロセスを示しているので、樹には四要素構成の性質があるからです。樹の四要素構成は紀元前に遡ります。ゾロアスターの幻視にも見られ、そこに現れた樹は、黄金・銀・鋼鉄・「合鉄」[17-27]の4つの枝を伸ばしています。このイメージは後代になっても錬金術の金属の樹に再び現れ、キリストの十字架と比較されることになります。リブリー卿は、王と王妃のペア、つまり究極の対立物が合一と再生のために十字架に架けられることを示しています[17-28]。「(キリストは言う)私を持ち上げるならば、あらゆる人々は私のもとへ引き寄せられるだろう…それより後、二つに分かれしものが十字架に架けられ息絶えることで結ばれる。男と女は同じ墓穴に埋められ、命の精霊によって再びよみがえる」[17-29]

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 樹はまた、ドルンの『内省哲学(Speculative philosophia)』で変容のシンボルとして再登場します。これは宗教心理学の観点からとても興味深い本です。「神は天使の御手より怒りの剣をお取りになり、黄金の三又矛と引き替えに、樹にその剣を架け賜うた。而して神のお怒りは愛に変わり賜う」[17-30]。黙示録1章16で描かれるように、ロゴスとしてのキリストは両刃の剣であり、神の怒りを象徴しています。

448[17-31]
 樹に架けられた剣にキリストを譬える、この珍しい比喩はたぶん「十字架の蛇」からのアナロジーでしょう。聖アンブロシウス[17-32]は「木に架けられた蛇」を「キリスト型(typus Christi)」と言っていますし、アルベルトゥス・マグヌス[17-33]も「十字架に架けられた真鍮の蛇」について触れています。「ロゴスとしてのキリスト」とは、拝蛇教で理知(ヌース)の蛇とされるナアスの同義語です。アガトダイモン(良き霊)は蛇の姿をし、フィロンは蛇を「もっとも霊的な」動物と考えていました。一方で、その冷血で下等な脳組織は意識発達のあまり高くないレベルを示唆し、人間と似ているところが少ないために蛇は疎遠な被造物と見なされ、人を恐怖させたり、反対に魅了したりさえします。それゆえ蛇は、無意識の二面性を示す類い希なシンボルなのです。冷たく無慈悲な本能性と、ソフィアな性質や自然の叡智の二面性があります。元型にはそうした性質が埋め込まれています。太古神的な蛇として表されるキリストのロゴス性は、聖母の母性的な叡智であり、旧約聖書ではサピエンティアとして予表されています。このように蛇のシンボルによってあらゆる面でキリストは無意識の人格化として性格づけられ、供犠において(オーディン神のように「槍で傷つけられ」)樹に架けられるわけです。

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 心理学的に見て、蛇の供犠は無意識を克服することだと思われますし、無意識的に母親に縋りつく幼児のような態度を克服することでもあります。錬金術師は同じシンボルをメルクリウスの変容にも使っています[17-35]。すでに示したとおり[17-30]、メルクリウスは無意識を人格化したものなのです。私自身、何度も夢でこのモチーフに遭遇しました。まずは十字架に架けられた蛇で始まり(ヨハネ福音書3章14)が思い浮かびます)、次に支柱にぶら下がった黒クモになり、その支柱が十字架へと形を変える夢があって、最後に十字架に架けられた女性の裸体になりました。


18.受難と結合の関係

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 先にドルンから引用したように、黄金の三つ又矛はキリストを表していました。というのも、中世の寓喩体系で父なる神がリヴァイアサンを捕らえた矛は十字架だからです。もちろん、黄金の三又矛は三位一体の隠喩であり、「黄金」とは錬金術的な「言わずにおいたこと(sous-entendu)」。このドルンの奇妙な寓話で神が行う変容は、暗に錬金術的神秘と結びつけられています。神が矛を投げ出すという考えはマニ教に由来するもので、マニ教では始原人を神が闇の力を捕らえるための餌として使っています。この始原人の名は「プシュケー」で、ボストラのティトゥスによると、世界魂(yuch; aJpavntwn)なのです[18-01]。この魂は集合的無意識に対応します。それ自体は単一の性質を持っていて、たった一人の始原人として表現されたわけです。

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 このイデアは、教父エイレナイオスの「ソフィア・アカモート」というグノーシス的概念に密接に関わっています。彼はこう記しています。

 宙にたじろぐソフィアの内省(=EnquvmhsiV)は、必然性に駆られ、受難とともにプレローマから切り離され、暗く何もない無へと向かっていった。プレローマの光から分かれ、時期を得ぬ誕生のように、彼女は形や姿を持たなかった。というのも、彼女はなにも内に抱えていなかったのだから(無意識的になったから)。しかし、天空に留まりしキリストは、十字架に横たわりながら、彼女に憐れみをお感じになった。キリストの力によってソフィアに形が与えられた。それは物質という点からだけではなく、知性(意識)を担う目的のためにも。このことを成し終えて、キリストは自らの力を引き寄せ、プレローマに戻り、アカモートをそのまま一人にしておいた。というのも、プレローマからの分離で引き起こされた受難に感受性が高まり、彼女がより善なるものを求めようとする欲望に影響されるように。キリストと聖霊とによって彼女の内に残された不死の香りを携えながら。[18-02]

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 グノーシス的な考えに従えば、闇に餌として投げ込まれたのは始原人ではなく、叡智の女性像ソフィア・アカモートだということになります。このように、男性性の部分が闇の力に呑み込まれる危険から逃れ、光のプネウマ的王国で身を守ろうとすると、ソフィアは、内省の行為のためか必然性に駆り立てられてか、外なる闇との関係に身を落とします。彼女の身に降りかかった受難は、様々な情動の姿を採ります。恐怖や困惑、混乱、懇願。笑ったり、泣いたり。こうした感情(ディアテセイス。διαθεσειs)から、全き世界が創り出されます。

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 この奇妙な創造神話は明らかに「心理学的」です。そこに描かれるのは、宇宙的な投影の形式で、男性性と精神性が意識を目指し、女性的なアニマを自ら分離し、感覚の世界に打ち勝とうと苦闘する姿です。こうした考え方は、少なくともグノーシス主義時代の異教哲学では見られたものでした。意識の発展と分化は、アプレイウスの『変身譚』に文学的資産を残しています。特に『アモールとプシュケ』の物語では、エリッヒ・ノイマンがこの作品についての研究で示したように、顕著に現れています。

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 無意識(アグノイア。αγνοια)の中に沈み込んだソフィアの情動的状況、彼女の形のなさ、闇の中で自らを見失ったかも知れない可能性などは、男性が自分の理性と精神性に全く同一化してしまった場合に起こるアニマの状況をはっきりと示しています。男性は自分のアニマから乖離してしまう危険にさらされ、無意識が持つ補償力との接触を失います。このような場合、無意識は通常、暴力的情動で応酬してきます。苛立ち・自己統制の欠如・傲慢・劣等感・沈滞した気分・抑鬱・激怒の噴出など。自分自身を冷静に見ることもできず、それに伴い、判断の誤りや誤解、思い違いを生じます。

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 そうした状況の中、人はすぐに現実との接触を失います。その人の精神性は、向こう見ずで傲慢で暴君的なものになっていきます。彼のイデオロギーが適応的でなくなればなくなるほど、より承認を求めるようになり、必要とあらば暴力でもって承認させようと決意します。この状態こそまさにパトス(παθοs)、霊魂の受難であり、最初は自己観察の欠如からそうしたこととは気づきませんが、次第に漠然とした不快感として意識に昇るようになってきます。そして最後にはこの感情を通して「何か間違っている。受難を受けている」と気づくようになります。これが、もはや意識から払いのけることができない、身体的あるいは精神的症状が現れてくる瞬間なのです。神話の言葉で表現されている通り、キリスト(男性的精神性の原理)はソフィア(つまり魂)の受難を感じ取り、彼女に形と存在を与えます。しかしキリストはソフィアを一人のままにしたので、ソフィアは受難を面いっぱい感じざるをえなくなります。この話を心理学的に考えてみると、男性的精神は心的受難(魂の受難)を感じ取るだけで満足してしまい、その背景にある諸々の理由を意識することなく、ただアニマをアグノイアの状態に留めてしまいがちだということです。このプロセスは典型的で、今日でも男性の神経症者に見られるだけでなく、いわゆる健常者でも、一面性(たいてい知的側面に偏っている)や心理的盲目性のせいで無意識と葛藤を起こしている場合、こうしたプロセスが観察されます。

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 この心理素では、始原人(キリスト)はまだ闇を克服するための道具にすぎないにもかかわらず、自らの役割を女性的存在、つまり、プレローマでは共存していたソフィアと分かち合っていません。さらに、十字架に架けられし者はもはや神の釣り竿の餌ではなくなっています。その代わり彼は、形を持たない女性的側面に「憐れみをお感じになり」、十字架に横たわりながら自らの姿を現します。ギリシア語の原文では「横たわりながら」の部分に強調表現が使われています。エペクタテンタ(επεκταθεντα)。引っ張られたり引き延ばされたりすることを強調している表現です。この責め苦のイメージが目の前にあるので、ソフィアはキリストの受難に気づくかも知れないし、キリストはソフィアの苦しみを認識するかも知れません。しかし、こうした認識がまだ生じていないので、男性的な精神性=キリストは光の世界へと身を引いてしまいます。この結末は典型的です。光が闇をかいま見、それと結びつく可能性があるやいなや、光の中に内在する力の衝動が自己主張を始め、光は身動きを取れなくなってしまいます。闇の中にも同じ衝動があります。光はその照射を弱めることなく、闇はその愉楽の情動を諦めることがない。光も闇も自分たちの受難が一つのもの、同じものであるとは気づきません。受難は意識化のプロセスで引き起こされ、それによってもともとは一つであるところのものが二つの相容れないパートに分割されていることに気づかないわけです。この分別の行為がなければ意識はなく、分別で生じた二重性は、意識の消失なしに再び一つとなることはないのです。しかし、もともとの全体性はdesideratum〔渇望〕(ojrecqh:/ tw:n diaperovntwn)にとどまり、ソフィアはグノーシス的キリスト以上にそれに恋い焦がれます。今日でも分別や差異は、合理的な知性にとってよりも、対立物の結合を通して得られる全体性にとって意味があります。これこそ、全体性のシンボルを産み出すのが無意識である理由なのです[18-03]

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 こうしたシンボルはたいてい四要素構成で、二組のペアから成っていて、互いに交わる関係になっています(たとえば、左と右、上と下)。この4点は円を分割します。円は、点そのものとは別に、全体性の一番単純なシンボルであり、それ故、神のイメージ[18-04]を表しています。この考え方は、今読んでいる文献において十字架に強調が置かれていることと関係があります。というのは十字架は樹と同様に、結合の媒体であるからです。従って、聖アウグスティヌスは十字架を初夜の床と関連づけました。昔話で主人公は花嫁を大樹の頂で見つけますし[18-05]、シャーマンも天の花嫁を樹のてっぺんで見つけます。錬金術師もそうなのです。結合は人生の絶頂点であり、同時に死です。そうしたわけで、文献では「不死の芳香」と表現されています。アニマはこの世を越えたところや永遠のイメージと繋がるリンクであると同時に、もう一方では、アニマの情動性が男性を太古神的な世界や一時的な儚さに巻き込んだりします。


19.人間としての樹

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 ゾロアスターの幻視やネブカドネザル帝の夢、バルデサネス(154-222)がインドの神について行った報告[19-01]などと同じように、古きラビの観念「天国の樹は人間である」[19-02]もまた、人と哲学の樹との関係を例証しています。古くからの言い伝えでは、人間は草や木から生まれました[19-03]。樹はいわば、人間の中間形態であり、始原人から生え出てくることもあれば、人間へと成長していくこともあります[19-04]。もちろん、キリストを樹やブドウの樹[19-05]に喩える教父的な概念も重要な影響を及ぼしています。ところが『パンドラ』では、すでに見てきたように、樹は女性の姿をしています。このエッセイの最初の部分で出てきた樹の絵も、ほとんど女性の姿で描かれてます。こうしたことは錬金術では見られないことです。では、女性的な樹霊をどう解釈すべきなのでしょうか。歴史的な素材をよくよく調べてみると、樹はアントロポスまたは自己であると言えます。この解釈は『アルベルトゥス草稿』[19-06]のシンボリズムで特に明らかであり、私たちの絵で表現されているファンタジーの素材によってさらに確かなものとなります。女性的な樹霊を自己と解釈することは、女性の場合には有効です。しかし、錬金術師や人文主義者の場合には、樹を女性として表現することは明らかにアニマ像[19-07]が投影されたものです。アニマは男性の持つ女性性を人格化したものであり、自己の人格化ではありません。反対に、図29や図30を描いた(女性の)患者さんたちは樹をアニムスとして表現しています。こうした例から分かるように、異性のシンボルは自己を覆い隠しているわけです。公式的には、男性の女性性(アニマ)や女性の男性性(アニムス)がまだ充分に分化しておらず、そのため意識と統合されていない場合にこうしたことが起こります。自己が直観としては潜在的に存在するものの、まだ現実化はしていないのです。

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 樹のシンボルするものがオプスや「倫理的で心理的な(tam ethice quam physice)」変容過程であるなら、一般的に人生のプロセスをも意味していることになります。樹がメルクリウス、つまり「生きている精霊」と同一視されることから、この観点はより確かなものになります。オプスは生であり、死であり、再生の神秘であるので、樹もまた同じ意味を内包し、さらに叡智の性質も獲得します。すでに見たとおり、バルベリオット派の教父エイレナイオスはこう言っています。「人(=アントロポス)とグノーシスから樹が生まれ、その樹もまたグノーシスと呼ばれる」[19-08]。『ユスティヌスの霊知』で「生命の木」[19-09]の名を持つ天使バルクが啓示を行っていますし、『アレクサンダー伝説』では太陽と月の樹が未来を予言しています[19-10]。しかしながら、樹を世界樹や世界軸に関係づける宇宙論的な見方は、現代のファンタジーと同様、錬金術でもあまり重きを置かれませんでした。というのも、錬金術もファンタジーも個性化過程に関心があるのであって、わざわざ宇宙に投影したりしなくても良いからです。当てはまらない例も稀にあるかも知れません。たとえば、ネルケン[19-11]が報告した分裂病者のケースでは、父なる神の力によって自分の胸から生命の樹が生え出ているという宇宙観を持っていたそうです。その樹には赤と白の実か、あるいは球体が実っていて、それぞれが世界になっています。赤と白は錬金術的な色彩であり、赤は太陽を、白は月を意味します。樹のてっぺんには鳩と鷲が止まっていて『アルベルトゥス草稿』の太陽と月の樹にもコウノトリが止まっていたのが思い出されます。このケースの場合、錬金術の対応物について知識があるかどうかなど、まったく問題になりません。

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 今までの素材からも明らかなように、現代人の無意識から自発的に生じ描き出される樹の元型について、歴史的な対応物を探し出すことはあまり難しくありません。私の見るところ、患者さんたちが意識的に使っている歴史的なモデルは、聖書に現れる天国の樹とか、昔話に出てくる一つ二つの樹だけだろうと思います。しかし、意識的に聖書のことを考えながら描かれた例は一つとして思い浮かびません。どのケースでも、樹のイメージが自発的に登場してきました。そして女性的存在が樹に結び付けられてるような場合でも、知恵の樹の蛇と絵とを関連づける患者さんは一人もいませんでした。これらの絵は、聖書的な原型よりは、樹のニンフという古代の観念に類似しています。ユダヤ教の伝統では、蛇もまたリリスとして解釈されたりします。ある表現が存在するならそのパターンは文化のどこかに必ず見出すことができる、という思い込みに基づいた強い偏見が残っています。もし今挙げている例でもそうだと言うのなら、こうした説明の仕方は天国の樹に関して修正して欲しいです。すでに見てきたとおり、そんな考えは正しくありません。樹のニンフという昔からの古めかしい概念の方が、天国の樹やクリスマス・ツリーよりも主流を占めています。事実、同じように古めかしい宇宙樹や、「逆さの樹(arbor inversa)」という、カバラ経由で錬金術に持ち込まれてはいるけれど、今となってはなんの役割もない樹にさえ結びついているのです。私たちの素材は、広範囲にわたり今なお残る、原始的なシャーマンの「樹と天の花嫁」[19-12]という概念にぴったりと一致しています。この天の花嫁こそ典型的なアニマの投影であり、シャーマンの祖先たちのアヤミ(守護霊)なのです。その顔は半分が黒く半分が赤色をしており、ときおり羽の生えた虎の姿で現れます[19-13]。シュピッテラーも「レディ・ソウル」を虎に結びつけています[19-14]。樹はシャーマンの「天の花嫁」[19-15]の命を表し、母性的な意味作用を持っています[19-16]。ヤクート族では、8つの枝を持つ樹は最初の人間が生まれた場所とされ、その人間を養った女性は、体の上半身が木の幹から生え出た姿をしています[19-17]。このモチーフも、私が挙げた絵(図22)に見られたものです。

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 女性と同様、樹もまた蛇と結びついていたり、竜などの動物と関係があったりします。たとえば、イグドラシルの樹がそうですし[19-18]、ペルシアのウォルカシャ湖にあるガオケレナ樹もそうですし、ヘスペリデスたちの樹もそうです。またインドの聖なる樹々も言うまでもありません。その影の中にはしばしばナーガ(=蛇)の石がいくつも見つかると言われています[19-19]

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 逆さの樹は、東シベリアのシャーマンたちの間で重要な役割を担っています。カガロフの本にそうした樹の写真が載っています。レニングラード博物館に「ナカーシャ(Nakassa)」と名付けられた標本が飾られています。根は髪に見立てられ、幹の、根に近いところに、顔が彫り込まれています。人間に見立ててあり[19-20]、多分それはシャーマン自身か、あるいはより大きな人格を示していると思われます。シャーマンは天界で真の自己を見つけだすために、魔法の樹をよじ登ります。エリアーデはシャーマニズムについて優れた研究をしていますが、その中でこう言っています。「エスキモーのシャーマンはこうした自己忘却の旅への必要を感じる。とりわけトランス状態でこそ、真に自分自身となれるからだ。神秘体験は、彼にとって、自らの真の人格を構成するために必要なのである」[19-21]。自己忘却はしばしば、シャーマンが背後霊や守護霊に「憑依」されて起こります。憑依によってシャーマンは「神秘の器官、それによってある種、自分の新なる完全な霊的人格を構成する器官」を獲得します[19-22]。このことは、人間学的なシンボリズムから引き出される心理学的な結論、つまり、憑依とは個性化過程の投影であることを確信させます。既に見てきた通り、このことは錬金術にも当てはまりますし、現代のファンタジーで樹を描く人たちも、意識や意志とは関わりなしに進む、内的な発達プロセスを描き出そうとしているのは明らかです。このプロセスは通常、2組のペアを結合する過程になっています。下(水、黒、動物、蛇など)と上(鳥、光、頭など)、左(女性性)と右(男性性)といったペアが1つに重なり合います。対立物の結合は、錬金術で決定的な役割を担っているばかりではなく、無意識との直面化によって引き起こされる心的プロセスにも同じ重要性があり、似たような、時には全く同じシンボルが表れてくるのも不思議ではありません。


20.無意識をどう解釈し統合するか

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 今までお話ししてきたような一連のファンタジーがどのように現実に生じてくるか、また、なぜ私が誰も知らないようなシンボリズムの比較研究にこれほどまで関心を持っているのか。このことを理解してくれる人は少ないし、残念ながら、同僚の医者たちも分かってくれません。あらゆる誤った偏見が未だ理解の妨げになってるのではないかと心配です。夢も神経症も、抑圧された幼児期の記憶や願望に過ぎないとか、心的内容は純粋に個人的なものであり、もしそうでなければ集合的意識からの派生物であるとか、そうした恣意的な憶測に基づく偏見を心配します。

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 心的疾患は、身体疾患と同じくらい複雑に絡まり合った現象であり、単純な原因論で説明できる代物ではありません。原因や、未知の個人的な気質Xだけでなく、生物学でいうフィットネス(健康法)のような目的論的側面にも目を向けねばなりません。心的領域でそれは「意味」と名付けてしかるべきものです。心的疾患では、どんなケースであっても、想定される原因とか実際の原因とかを意識化するだけでは充分でありません。ある心的内容群によって、ヒロインは意識から閉め出されてしまいます。それは必ずしも抑圧の結果ではありません。治療にはこの心的内容群を統合することが含まれますが、抑圧は二次的な現象に過ぎないのです。実際のところ、思春期以降の発達において、意識は情動的な傾向や衝動、ファンタジーに直面していくことになるし、様々な理由でそれらを喜んで受け入れたり簡単に同化したりできないことなのです。そのとき意識は、あれやこれやの抑圧で反応し、困った侵入者を排除しようと躍起になります。普通、意識の態度がよりネガティブになり、抵抗・価値切り下げ・恐怖で応対すればするほど、乖離された心的内容が帯びる様相は不愉快で、攻撃的で、意識を脅かすものになります。

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 切り離された魂の部分とコミュニケーションを図ることは、どんな方法であれ、治療的な効果があります。原因の発見によっても同じ効果は得られます。それが真の発見か、ただの思い込みか。そんなことは関係ありません。発見が仮説やファンタジーに過ぎないときでさえ、分析家自身がそれに信頼を置き、真剣に理解しようとするのであれば、少なくとも暗示によって治療的な効果を持ちます。その反面、原因論的な考え方に疑問を持ちだすと途端に成功の機会は失われ、知的な患者さんや自分自身に説得力のあるような真の原因を探すように強いられる感じがしてきます。批判的な傾向が強くなると、この課題はとてつもない重荷となり、自らの疑いを克服できなくなります。これでは治療の成功が危ぶまれる。このジレンマは、なぜフロイト正統派が熱狂的な教義至上主義なってしまったのか説明してくれます。

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 最近出会った例でもって、この問題を素描してみましょう。ある知らない人(X氏としておきます)から手紙をいただきました。私の本『ヨブへの答え』を読み、とても興味を引かれ、心が大きく揺さぶられたそうです。彼は友人のY氏にこの本を読ませたところ、Y氏は次のような夢を見ました。「私は収容所に戻っていた。頭上では巨大な鷲が旋回し餌を探しているのが見えた。状況は危険で脅威に満ちている。私はいかに身を守るか思案を巡らせた。ロケットエンジンの飛行機で飛び上がり、鷲を撃ち落とすことが出来ないかと考えた」。X氏によると、Y氏は合理的知性の人で、収容所で長い間過ごした経験があります。二人とも、この夢は、前日私の本を読んで呼び覚まされた情動と関連があると考えました。Y氏は夢についてアドバイスをもらおうとX氏宅を訪れました。X氏の意見では、Y氏を見張っている鷲はX氏自身であるとのことでした。Y氏は信じられないと反発しました。Y氏は鷲を、本の著者、つまり私のことだと言いました。

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 そこでX氏は私に意見を求めてきました。個人的な付き合いのない人の夢について、拡充の素材もなしに解釈しようとするのは、一般的にトリッキーです。だから、どんな素材がそこにあるか示唆する二、三の質問をするだけで満足するしかありません。たとえばなぜX氏は、その鷲が自分を指していると知っていると考えるべきなのでしょうか。手紙から分かるところを集めてみると、X氏はそれまでにもかなりの心理学的知識を友人に教え授けています。それで自分自身が指導者の役回りを演じ、友人のゲームを上空から見通しているように感じていました。彼には、心理学者たる自分によって見張られていることをY氏が認めたがらないだろうという考えを玩んでいる面もあるようです。X氏はサイコセラピストのポジションにいました。性理論を使い、なにが神経症や夢に潜んでいるか予め分かっている。優越した洞察という名の、そびえ立つ物見の塔から患者に「自分は見通されている」という感じを与える。患者の夢のなかで、神秘の「検閲官」がどんな偽装を施そうと、自分自身が必ず登場すると信じている。そういうサイコセラピストでした。こんな風に、X氏は安易に、自分が鷲であるという推測にたどり着きました。

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 Y氏の意見はそれとは違ってました。X氏に監視されてるとか見通されているとかいう意識はなかったようです。とても合理的に、その夢の明白な源泉に立ち返りました。つまり、ユングの本が自分になんらかの印象を与えたのは明らかだ、と。こうした理由で、私が鷲であると考えました。どうやら彼は、何か干渉され続けてきたように感じ、あたかも誰かに見つけ出され、あまり嬉しくなりやり方で自分の痛いところを指で押さえられたように感じていると思われます。彼には、この感情を意識する必要がなかった。もし意識していたなら、夢の中に現れたりしなかったでしょう。

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 解釈と解釈がぶつかり合ってますが、どちらも恣意的です。夢自体がどちらかの方向を指し示しているわけでもありません。Y氏は友人の優れた洞察に恐れをなし、それに気づかぬよう、X氏を偽装し鷲の姿を取らせたのではないか。そういった見解を敢えて述べられる方もいらっしゃるかも知れません。でもY氏自身がこの夢を創作したのでしょうか。フロイトは検閲者の存在を仮定し、それが形態変換を担っていると考えています。ただ私の考えは違って、自分の経験からも、夢というのはその気になれば、夢見手の気持ちなどお構いなしに、胸を突くような受け入れがたいものでも出してくると考えています。事実上、形態変換などしていないなら、夢が示すものと違ったことを意味するなどと考える理由はありません。夢が「鷲」だと言えば、それは鷲を意味しています。この私の考えを変えるつもりはありません。理性にとってナンセンスに見える振る舞いを、夢自らが振る舞う。まさにその側面に注目します。鷲はX氏であると考えるのはあまりに単純で、もっともらしすぎます。

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 解釈というのは、個人的なファンタジーから離れ、鷲が何を意味しうるか見い出すことだと私は思います。私なら夢見手に、鷲は「鷲として(qua eagle)」何であり、どのような一般的意味づけが鷲にされているか探索するよう助言するでしょう。この課題に取り組めば、まっすぐシンボルの歴史へと進んでいき、どうして私が一見診察室から離れ、それと無縁の研究に没頭しているかの理由が具体的にお分かりになると思います。

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 夢見手が、目新しく今まで知らなかった一般的意味づけを鷲に見つけるようになれば(そのときにはもう文学作品や日常会話のなかで馴染みができているでしょうが)、過日の体験(私の本を読んだこと)と鷲のシンボルとの間にどんな関係があるかよくよく調べるに違いありません。そしてこう考えるでしょう。何がそれほどまでに自分を揺さぶり、大の大人を傷つけ略奪する大鷲というおとぎ話のモチーフを浮かび上がらせたのか、と。明らかに巨神的(つまり神話的)な鳥が空高く輪を描き飛び、全てを見る眼で地上を監視しているというイメージは、実際、私の本の内容を思い起こさせます。『ヨブへの答え』は、神という人間の宿命のイデアがテーマですから。

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 夢の中でY氏は収容所に戻っていました。そこは「鷲の目」に監視されるところです。これは充分明らかに、夢見手を脅かす状況であり、彼が過激な防衛策を講じるのもさもありなんと思わせます。神話的な鳥を撃ち落とすために、最新テクノロジーの発明品、つまりロケットエンジン飛行機を使用しようと考えます。これは合理的知性の絶大な勝利を意味します。神話的な鳥とは正反対の位置にある近代兵器の助けを借り、その鳥の脅威から逃れねばならないわけです。しかし、そうした人格の人にとって、どんな危険が私の本に潜んでいるというのでしょうか。その答はあまり難しくはありません。Y氏はユダヤ人なのです。ともかく、扉は様々な問題に開かれていて、個人的なルサンチマンとは無縁の領域へと進んでいきます。人生や世界に向き合う態度を規定している原理や主因、支配観念は何か。経験が示すように、誰もが無しで済ますことが出来ない心的現象である確信や信念とは何か。むしろ、そうしたことのほうが問題なのです。実際それらを無しで済ますことは出来ず、もし古い思考体系が崩壊することがあっても、間を挟まず、新しい思考体系が生じてくるほどです。

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 あらゆる病気と同じように、神経症も適応不全の症状です。なんらかの障害(体質上の弱さや欠陥、間違った教育、良くない体験、不似合いな態度など)のために、人生がもたらす困難から身を引き、幼児期の世界に舞い戻っているのに気づきます。無意識はこの退行を補償するためにシンボルを産出します。そしてそのシンボルを客観的に、つまり比較研究を通して理解するとき、そうした自然な思考体系の土台をなす一般観念が再活性化されます。このように態度変容が起き、今ある自分とあるべき自分との間に生じた乖離を橋渡しします。

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 こうしたことが、この夢でも起こっています。Y氏は、とても合理的で知性化された意識と、それと同じくらい強力で、不安げに抑圧された非合理的地盤との間の乖離に苦しめられているのかも知れません。不安は夢の中に現れます。不安は、人格に属する真実として認識されねばなりません。理由さえ見つければ不安は解消すると主張するのは愚かなことです。なのに誰もが通常、そうだと思っています。不安を受容すれば、その理由を発見したり理解したりするチャンスもあるに違いない、と。しかし、その理由なら、夢の中でありありと鷲の姿で出てきているのです。

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 もし鷲が太古の神イメージで、人はその力から逃れることが出来ないとすれば、神を信じているかどうかということは実際問題たいした違いはないでしょう。人間の魂が、そういう現象を生み出すように作られているという事実だけで充分です。自分の身体を追い払うことなど出来ないのと同様に、魂を追い払うことも出来ません。魂も身体も他のものと交換することなど出来ないのです。人間は、自分自身の心理的構成物によって閉じ込められた囚人であり、望もうと望むまいと、この事実に向き合わなければなりません。もちろん身体からの要求に逆らい続け、健康を害しながら生きることも出来ますし、魂についても同じような反抗を重ねることは出来るでしょう。しかし、生きたいと望むなら、こうした罠から身を引き、いかなるときも注意深く身体と魂の要求に耳を傾けねばなりません。意識と知性があるレベルまで達すれば、もはや一面的に生きることは不可能になり、未開民族なら今でも自然に働いている心身的本能全体を意識的に考慮するようになります。

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 身体が食べ物を欲しがるように、そして身体に合う食べ物だけを欲しがるように、魂も実存の意味を知りたがります。ただの意味ではありません。魂の本質を映し出す、無意識から生まれ出るイメージや観念の意味でなければなりません。無意識はいわば元型的フォルムを提供するだけで、それ自体は中身を持たず何も表しはしません。意識がすぐそのフォルムを関連する表象や類似の素材で満たし、そのおかげで知覚可能なものとなります。それで元型的観念は地域や時代で異なり、人それぞれだったりするわけです。

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 無意識の統合が自発的に生じる場合も稀にはありますが、たいていは無意識から湧き出てきた内容を理解するのに特別な努力を要します。妥当で有効とされる一般観念がすでにあるならば、それらは理解の助けとなり、新しく獲得した体験は既存の思考体系にそって分節化され、位置づけられることになります。その好例はスイスの守護聖人ニクラウスに見られます。長い間瞑想をし、ドイツ神秘主義者の書いた小本を読むことで、彼の恐ろしげな神の幻視が次第に三位一体のイメージへと変わっていきました。あるいは新しい体験を通し、伝統的な体系が新しい理解へとたどり着くかも知れません。

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 言うまでもなく、個人的な情動やルサンチマンが夢の形成に関わっており、夢に出てきたイメージから読み解かれることもあります。分析家は、治療の初めには、このことで満足せねばならないでしょう。というのも、自分の夢が個人的な心に由来するという説明のほうが患者さんには分かりやすいからです。もし夢の集合的な側面を指摘などしたら、患者は困惑してしまいます。ご存じのように、フロイトは神話のモチーフを個人の心理に還元しようとしました。夢に太古の残滓が含まれることを彼自身洞察していたにも関わらず、敢えてそのことを無視したのです。でも神話のモチーフは個人的な獲得物ではなく、より古い集合的魂の痕跡なのです。しかしながら、あたかも心理学的法則の可逆性を証明するかのように、夢の普遍的意味作用を理解するばかりでなく、その意味作用が治療上有効なことを発見する患者は数多くいます。宗教も偉大な治療の心的体系ですが、それは宇宙的神話モチーフから構成され起源も内容も集合的であり、個人的ではありません。それはレヴィ=ブリュールが正しくも「集団表象」と呼んだとおりです。意識的心性(conscious psyche)は確かに個人的性質でしょう。でも決して魂(psyche)全体ではありません。意識の基礎である魂それ自体は無意識的であり、その構造は身体と同じように誰でも共通で、個々の特徴は些細なバリエーションに過ぎません。有色人種の群衆の中で個々の顔を見分けることが、慣れない目には困難だったり、ほとんど不可能だったりするのと同じことです。

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 鷲の夢のように、特定の個人を指さないシンボルがあり、それが表れてくるときに、個人の偽装とかを仮定する理由はありません。反対に、まさに言いたいことだけ夢が示すのもありそうなことです。夢が何かを偽装したり特定の個人を指し示しているときは、その人物が登場することを拒む傾向が働きます。夢では、錯誤行為や錯誤思考を行っているからです。たとえば女性の見る夢に、分析家が理容師として登場することがよくあります。どちらも頭を「整える(fix)」からで、偽装よりは価値切り下げと言えるかも知れません。意識の上では、どんな偉い人にも感謝しようという気持ちでいっぱいです。自分自身の頭を使えないし使おうとしないので、患者はそう考えて生活しています。ところが(夢が言うには)分析家は理容師くらいの価値しかない。彼女の頭を正し、自分自身で使えるようにする点では同じだというわけです。

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 それゆえ、分析家が予め想定してるような状況・物事・個人に還元することなく、夢のシンボルを何か未知のものを指し示す真のシンボルだと見なせば、分析療法の性格は大きく変わります。無意識を既知の意識的要因に還元せず(還元法では意識・無意識間の乖離を撤廃しない)、実際に無意識的なものとして認識する。シンボルをどちらにも還元せず、夢見手が提供する文脈や同じ神話素との比較により拡充をする。そうすれば無意識がシンボルで何を表現しようとしてるか見えてきます。この方法で無意識は統合され、乖離は克服されます。反対に還元法だと無意識から外れていき、ただ意識的精神の一面性を強化してしまうだけです。厳格なフロイトの弟子たちは、無意識の深い探究による師の導きを追い続けることが出来ず、還元的な分析で満足するにとどまりました。

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 既に述べたとおり、無意識との直面化はたいてい個人的無意識の領域、つまり影を構成する個人的な内容から始まり、さらに集合的無意識を表す元型的シンボルへと進んでいきます。直面化の目的は、乖離を撤廃することなのです。この目的に達するために、自然な場合であれ治療介入であれ、対立物どうしの葛藤が促がされます。この葛藤なしには、いかなる結合も不可能です。これは意識に葛藤をもたらすことを意味するだけではなく、特別な種類の体験、つまり自分の中に見知らぬ「他者」を見出したり、別の意志が客観的に現れ出でたりする体験も含んでいます。錬金術師は驚くべき正確さで、このよく分からない代物を「メルクリウス」と呼んでいます。この言葉には、神話学や自然哲学で綿々とされてきた考察の全てが含まれています。「彼は神、魔物、ひと、もの、人間の深奥の秘密。魂にして、身体なるもの」。メルクリウスは二重性でありutriusque capax〔両立可能〕であるので、彼自身が全ての対立物なのです。この捉えがたい本質はどの点においても無意識を象徴していて、シンボルを正確に調べていけば、無意識と直接向き合うことになります。

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 この直面化は非合理な体験であると同時に、自己実現のプロセスでもあります。従って、錬金術のオプスは2つの部分に分かれます。実験室での作業と、scientis〔学知〕またはtheoria〔観想〕の2つ。実験室の作業にはあらゆる情動的で魔物的な危険が伴っており、学知のほうはオプスを導く原理であり、オプスの結果を解釈し、適切に整理することです。このプロセス全体は、今日なら心理学的な発達として理解されるのでしょうが、彼らは「哲学の樹」と呼び、「詩的な」比較を通して、魂の成長と植物の生長との適切なアナロジーを描き出しました。こうした理由で、錬金術と現代の深層心理学との両方に流れるプロセスを詳しく検討することは望ましく思えます。知的な理解だけでは充分でないと私は気づいていますし、そのことを読者のみなさんにも明らかにできたなら幸いです。知的理解は言語的概念をもたらしますが、本当の内容を教えてはくれません。真の内容は、自らに適用するとき、プロセスの生きた体験を通して見出されます。この点は何の幻想も抱かない方が良いです。言葉による理解や人真似など実体験の代わりにはなりません。錬金術は時代とともに活力ある本質を失っていきます。実験室を捨てる錬金術師たちが出てきます。彼らは礼拝堂に籠もり、より漠然とした神秘主義に陥り、混乱を極めていきました。反対に別の錬金術師たちはoratorium〔礼拝堂〕をlaboratorium〔実験室〕に変えて、化学を発見しました。前者を哀れに思い後者に敬意を表するのが現代の私たちですが、でも魂の運命がどうなったか問う人はいません。それから後、魂は数百年の間、顧みられることがなかったのです。

2009.03.15. 訳了。

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